20「どれか1つでも欠けたらだめなんだ。」
ノイレンがシャルキーズカバレで働き始めて3ヶ月が経った。
「ノイレン、このジョッキ7番テーブルだよ。急いでね。」
「はいっ。」
ビールがなみなみと注がれた大きなジョッキを片手に2つずつ持つとこぼさないようにそろそろと歩いていく。途中のテーブルの横をすり抜ける時に大きな笑い声が起こりびっくりしたノイレンはビールをこぼしそうになる。
「うお〜とっとっ、ひぇ〜危ない危ない。」
なんとかこぼさずに持ち堪えた。
「お、ノイレン悪いなびっくりしたか。ワッハッハ」
「もう、びっくりすっからいきなり笑うのやめてくんない?」
ノイレンは口をとんがらせて大声で笑う恰幅のよいその客を見た。
「ワッハッハ!頑張れ頑張れ!」
「もう、静かに笑ってよ。」
恰幅のよい客は全く気にせずに笑って流す。少しは客のあしらいもできるようになった。何かあれば必ず師匠が助けてれる、そう思えるから心強い。
やっとの思いで7番テーブルにたどり着き、静かに両手のジョッキを置いた。
「お待ちどうさま!」
ちょっと笑顔がぎこちない。さっきのようにぶっきらぼうな口調で相手をすることはできても愛想を振りまくのはまだ慣れない。テーブルを囲んでいる4人のうちの1人がニコニコと声をかけてきた。
「あんがとさん。ノイちゃんだいぶ慣れてきたようだに。」
「まあね。」
ノイレンは人差し指で鼻をこすって返事した。
「これお駄賃だに。」
その客がコインを一枚ノイレンの店での制服であるダンス衣装の胸元にすっと差し込んだ。
「きゃっ!」
いきなりなことに驚いて咄嗟に両手で胸を隠した。
「ひゃっひゃっひゃ、ウブな反応が初々しくてめんこいだにな。」
ニタアと笑いながら言った。残りの3人もスレてない反応が面白くてニタニタしているのに気づいてノイレンはジト目で客たちを睨む。
「う〜ん、その目がまたたまらんだになあ。」
どうやらMな客らしい。ノイレンは胸を隠したまま何も言わずに調理場へ戻った。
「ノイレン、ちょっとおいで。」
戻った途端シャルキーに呼ばれた。調理場の出入り口のところで人差し指一本だけを動かしてこっちに来いと合図している。洗おうと手に取った皿を置き、小走りでシャルキーの元へ。
「あんた今7番でチップ貰ったろ。」
「え?あ、これ。」
ノイレンは差し込まれたコインを胸元から取り出してシャルキーに見せた。彼女はそのコインをノイレンの手から取ると人差し指と親指で挟んで表裏をくるくると見回したあとその切れ長の目でノイレンを見下ろして言った。
「お礼言ってないだろ。」
「お礼?」
ノイレンが何のお礼なのか分からずにきょとんとした表情をシャルキーにむけると、彼女の切長の目がちょいと吊り上がる。
「いいかい、チップてのはね、お客さんがノイレンを気に入ってくれたからくれるんだよ。お礼を言うのは当たり前だろ。」
「え?気に入るって、わたし何もしてないけど。」
ノイレンは悪気もなく答える。するとシャルキーはコインをノイレンの目の前に突きだして教えてくれた。
「ダンスとか何か特別なことをしたから気に入るんじゃない。目立たない仕事でもお客さんはちゃんとそれを見てるんだよ。だから一生懸命に働いていれば気に入ってくれるお客さんもいるんだ。そういうお客さんは一番大事にしなきゃいけないよ。」
ノイレンの表情がぱっと明るくなった。
「ほら、ちゃんとお礼してきな。」
チラと客席のほうに視線を向けてノイレンを促した。
「はい!」
小走りに7番テーブルに向かおうとするノイレンにシャルキーはチップのコインを渡した。
「これは全部あんたがとっておきな。初めてのチップなんだから大事にするんだよ。」
ノイレンは7番テーブルに行くとチップをくれた客に頭を下げた。
「ありがとうございます!」
訛りのあるその客は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ノイちゃん、そんなかしこまらなくていいだによ。大した額でもないだにな。」
ノイレンは頭を上げるとその客を真っ直ぐに見た。
「わたし、チップ貰ったの初めてなの。だから、」
そこまで言うと同じテーブルの隣の席にいる客が「じゃあオレからもあげるよ。」と、ノイレンの衣装の背中側にコインを一枚差し込んだ。
「ひえっ、冷たっ。」
コインの固くひんやりした感触に思わず飛び退いたノイレンを見て4人はまた笑う。
「あ、ありがとう、ございます。」
ノイレンはどんな顔をしていいのか分からず苦い表情でお礼を言った。
調理場に戻ろうとすると隣のテーブルにいる2人組から注文を頼まれた。
「姉ちゃんおかわりくれ!」
空になったジョッキを2つ渡された。ところがテーブルには2つ中身の入っているジョッキがある。
「あれ、まだあるじゃん、おかわりいるの?」
手渡された空のジョッキとテーブルの上の中身の入ってるジョッキを見比べながら訊くと2人の客はドゥハハと笑いながら答えた。
「全部無くなってから頼むと待たなきゃならないからな!」
「そういうもん?」
ノイレンには酒飲みの気持ちがまだ分からない。
「そういうもんだ、ドゥハハ。じゃ頼んだぜ。」
「あいよ。」
ノイレンは空のジョッキを持ってカウンターに戻り給仕係に注いでと頼んだ。チーフはノイレンがカウンターに到着する前にすでに新しいジョッキにビールを注ぎ始めている。カウンターまで戻るとスっと新しいジョッキが目の前に出てきた。ノイレンは空のジョッキを置いて新しいそれを持っていこうとジョッキに手をかける瞬間、シャルキーがノイレンの背中に手を突っ込んでチップを抜き取った。
「ひゃあっ!」
全く意識してなかったからすごく驚いた。背筋がぞわぞわしてまるで海老のように仰け反る。危うくジョッキを2つ空にしてしまうところだった。
「これは貰っとくよ。」
人差し指と中指でコインを挟んでチラチラ見せる。
「わたしのチップ!」
取り返そうと手を伸ばすノイレンの耳元にシャルキーが顔を寄せてコソッと言った。
「チップの半分は店に納めるのが決まりだ。最初に貰ったのはそのままやるからこれは貰っとく。」
ノイレンはぷうとリスのようにほっぺを膨らませた。
「アッハハハ、もっと欲しけりゃ店中のお客さんに気に入られるこった。頑張りな。」
シャルキーはコインを挟んだ手を振りながら奥の部屋へ入っていった。指の長い綺麗なその手が憎らしく思えた。
その日の帰り道。
「仕事にも慣れてきたみたいだな。お客さんともしゃべっているようだし。」
手綱を握るトレランスが振り向くように少し首を傾げてうしろに乗っているノイレンに声をかけた。
トレランスが1人で勤めていたときは徒歩で通勤していたが、ノイレンと一緒に往復するようになってからは馬に乗っている。帰りはいつも深夜になるからノイレンの安全も考えてのことだ。
「うん。お客さんたち思ってたほど怖くない。」
ノイレンは馬から落ちないようにトレランスの服を両手でいつも掴んでいる。
「あの店の客は根のいい奴らが多いからな。そういうのは分かるようになってきたか?」
「まだよく分かんない。けど嫌なこと言われたりされたりしないから平気。」
「あっはは、それはよかった。少しずつでいいから1人1人の客の”人となり”がどんなか考えながら相手をしてみなさい。そうすれば見る目が養われる。」
「一流の剣士には心技体の3つが大切だってんでしょ。」
「そうだ、全部揃って初めて一流だ。ところで今日チップをもらったみたいだな。」
トレランスは隅で店の中を見張るように全体を見ているからカウンターでのノイレンとシャルキーのやりとりも目に入っていた。
ノイレンは掴んでいる服をぐいっと引っ張って上体を伸ばしトレランスの顔をのぞき込むようにして口をとんがらせた。
「そうなの!初めてチップもらったの。でも、シャルキーに半分取られた!!」
トレランスは高笑いしながら答えた。
「そういう決まりだからな。」
「だって、初めてだったんだよ!取らなくてもいいじゃん。」
トレランスのうしろでぷうとほっぺをリスのように膨らませているノイレンに彼は質問した。
「シャルキーがチップの半分を取るのには理由があるんだ。どうしてだと思う?」
「がめついから!」
ノイレンは即答した。トレランスは苦笑いする。
「残念違う。まあ、アレががめついってのは間違いじゃないが。」
ノイレンはトレランスの服を引っ張りながら考える。
「実はお金に困っているとか?」
「あっはっは、それはない。シャルキーは俺以上に稼いでいる。」
ノイレンはその小さな頭を絞る。「大人は信用ならない、必ず裏がある」そこから離れられない彼女はシャルキーの汚い裏を探ろうとあれこれ考えてみる。
「じゃあ、じゃあ、」
しかし上手い答えが見つからない。この3ヶ月シャルキーと接してても、ノイレンが知っているような”薄汚い大人の影”を彼女に見てはいないからだ。答えを考えあぐねているノイレンにトレランスは質問を変えた。
「それじゃあ質問を変えよう。お客さんがチップをくれるのは何でだと思う?」
ノイレンはまた即答した。
「わたしを気に入ってくれたから。」
トレランスは前を向いたまま笑った。
「あっはは、それもあるが、それだけじゃない。」
「どういうこと?」
ノイレンはおぼつかない表情でトレランスの顔をのぞき込むと、彼は彼女をちらと見やりながら答えた。
「店に来たお客さんは楽しくて満足するからくれるんだよ。」
ノイレンはまだぴんとこないらしい。
「美味い酒に美味い料理とシャルキーやラクスの素晴らしいダンス、そしてノイレンの接客があって初めてお客さんは満足してくれる。どれか1つでも欠けたらだめなんだ。」
ノイレンはじっと聞いている。「心技体」の言葉が頭をよぎる。
「もしノイレンがお客さんだったら、不味い料理を持ってきた人にチップをあげたいと思うか?」
「思わない。逆に料理代も払いたくない。」
「そうだろう。つまり今日ノイレンが貰えたのだって美味い酒や美味い料理を作ってくれた係のおかげでもあるんだ。」
トレランスは続ける。
「だけどな、お客さんと直に接するシャルキーやラクス、それにノイレンはチップを貰えても、カウンターや調理場にいるみんなはまず貰えない。だからシャルキーはみんなが貰ったチップの半分を集めてそれを平等に分けてるんだよ。みんなの協力があって初めて店は盛り上がるからな。」
「そっか。」
ノイレンは納得した。シャルキーは私欲でチップを取るのではなかった。ただがめついだけに見えていたのが、実はその裏にそういう優しさを隠していると知って、そういう”裏”なら有りだなと思った。なんだか心がほっこりしてきた。
『案外照れ屋さんなのかも』
トレランスのうしろで馬に揺られながらノイレンはシャルキーのことを思い出している。切れ長の目、気の強そうな整った顔立ち、気風のよい受け答え、チップを挟んでいた長くて綺麗な指。
トレランスの背中でノイレンは夜空を見上げて呟いた。
「じゃあシャルキーのお店は一流なんだ。」
きらめく星々の中に丸い月が浮かんでいる。
「そうだ、1つもかけることなくみんな揃っている一流の店だ。」
丸い月の中にお店のみんなの顔が浮かんで見える。その中にはノイレン自身もいた。
次回予告
チップを貰える喜びを知ったノイレン。いっぱい稼ぎたいと日々張り切る。生まれて初めて自分の力で稼いでいることが嬉しくてノイレンは調子に乗ってしまった。落ち込み自分を責めるノイレンをトレランスはノイレン自身から答えを引き出すようにして諭す。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回第二十一話「わたしイモムシ?」




