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ぶっ飛べ俺の脳のHDD

「礼理さんの家、大丈夫なのか?」


 そう尋ねた瞬間に、礼理さんの雰囲気が変わった。彼女を取り巻く空気の中に見えないガラスの破片がばらまかれたような、そんな感覚がした。


 視線が交錯する。


 驚き、警戒、疑惑、戸惑い――ほんの一瞬のあいだに、彼女の瞳の奥で、様々な感情の色が揺れ動いては消えていくのを見た気がした。


 彼女はやがて、ひどく冷めた目をして、


「そういうのじゃないから」


 と、吐き捨てるように呟いた。


「ごめん。変なこと訊いた」


「…………」


 少し間があって、礼理さんは息をつく。気づけば、彼女から刺々しい気配が消えていた。


「いや、こっちがごめん。いまのは私が悪い。気にしてほしそうな感じを出しといてさ、いざ訊かれたムッとしちゃうんだもんね」


 自分自身に呆れたように、彼女は苦笑いをした。


「なんでこんな変なこと、話しちゃったんだろ」


「満月のせいじゃないか?」


 礼理さんはちらりと夜空を見た。


「今日は満月じゃないよ」


「ふざけんなよ、満月のくだりはそっちが言いだしたんたろ」


「はは、そうだっけ?」


 張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。だが、それで先ほどの気まずいやり取りがなかったことになるわけではない。俺たちは会話の行き先を見失ったまま、互いに口をつぐんでしまった。


 波の音が聞こえる。


「俺の親さ、いわゆる教育パパと教育ママだったんだよ」


「……え?」


「俺と兄ちゃん――あ、俺に二つ上の兄貴がいるんだけど、俺たち兄弟二人とも有名私立に入れるぞって、かなり気合い入れてた」


 礼理さんは何も言わない。急にこんな話をされても反応しようがないよなとは思う。


 それはわかっていながらも、俺は足元の芝生をいじりながら、話を続ける。


「これが結構厳しくてさ、友達とも遊べないし、もちろんゲームなんかもやれない。時間の無駄だからって。意味のないことをするなっていうのが父親の口癖だった。時間は限られている。合理的に行動しなければ競争相手には勝てない。逆に、最大限に合理的に行動し続ければ、受験に受からないはずがないって、父親に教え込まれた」


 母のほうはまだ百歩譲って理解できる範疇の人間ではあった。だが、父のほうは、どうして自分の息子の受験にあそこまで情熱を燃やすことができるのか、まったくわからない。


 いつか自分が成長すれば、父の思いに気づく日が来るのかもしれないと思ってはいるが、時間が経てば経つほど、むしろ理解が遠のいていく一方だ。


「学校の宿題とは別に、父親に毎日問題集を解かされるんだ。時間内にできないと、風呂に入る時間が無駄だからって、風呂に入れさせてもらえない。兄貴は俺よりずっと頭がよかったからうまくこなしていたけど、俺はそうでもなかった。それで風呂に入れない日が続いた状態で学校に行くと、周りから臭い臭いって言われてバカにされるんだ」


 物心ついたときからそんな生活だったから、それがおかしいとは思わなかった。


 いや、本当のことを言えば、よその家と自分の家は何か違うなと薄々気づいてはいたが、どうしようもなかった。自分の家庭から逃げることはできない。


「そんな日がずっと続くうちに、おかしくなっちゃったんだろうな。俺じゃなくてさ、出来のよかった兄貴のほうがさ、ある日彫刻刀を持って家中で暴れまくったんだよ。それ以来、親は俺たちに何も言わなくなっちまった」


 ちらと礼理さんを見ると、明らかに戸惑ったように俺を見つめていた。


「どうして、そんな話をするの?」


「さっき、デリケートなこと、訊いたから」


「?」


「俺、礼理さんの家庭に勝手に首を突っ込もうとしただろ? だから、その分」


 礼理さんがなんとも言えない顔をした。どんな表情をするのが正解なのかを迷っているかのように、表情筋が中途半端に引きつって、結果的になんの感情も読み取れない顔になっている。


 なんだその微妙な表情はと思っていると、


「ふ……ふふ……ふふっ」


 彼女の口元が歪む。そして――


「ははっ、あはははははははははははははっ!」


 笑った。抑えきれなくなったものが爆発するように、彼女は大声で笑った。


 反応が難しい話をした自覚はいちおうあったが、かと言って、まさか笑われるとは。


 地べたに顔がつくんじゃないかというほどに、礼理さんは背中を丸め、息を弾ませている。


「あははははははっ! 待って、会話ってそうだっけ? そういうのだっけ!? あはは! ねえ、そういうことじゃなくない!? ゲームじゃないんだから! ターン制とかじゃないんだから! 一個質問したから、じゃあ一個こっちも話しましょうみたいな、そういうのじゃなくていいんだよ!」


「いや、笑いすぎだろ」


 と、俺が言うと、礼理さんはぴたりと笑うのをやめた。息を整えながら、顔を上げて言う。


「……ごめん、笑うとこじゃなかったね」


「いいけど、なんかびっくりしたわ」


「言い訳だけど、小柴くんの話そのものを笑ったんじゃないから。小柴くんのその考えかたが面白くて笑ったんだからね」


「それはそれで失礼だろ」


「そうかな? やっぱ小柴くん、変だと思うよ? UFOを捕まえるのを手伝うって言ってくれたときも、そうだったじゃん」


 何がどう“そうだった”のか、全然ピンとこない。


「だから、小柴くんさ、オカルト研究部をバカにしたのが悪いと思って、UFOを捕まえるのを手伝ってくれてるんでしょ? で、いまは私にデリケートなことを訊いたのが悪いと思ったから、自分の家のことを喋ったんでしょ。やってることが一緒だって。やっぱ、小柴くんって真面目だよ」


「それ褒めてないよな?」


「いやいや、褒めてるよ! 律儀でいいと思う! でもさ、すぐに打ち明け話を他人にするのはやめたほういいよ。重いから(笑)」


「『(笑)』じゃねえんだよ! やっぱバカにしてるだろ!」


「あははっ!」


 何が楽しいのか、礼理さんは再び快活に笑いだした。


 彼女の明るい声が人気のない夜の公園を駆け抜け、照らしていく。聞いているだけでこちらもつられて口角を上げてしまいそうになるような、そんな笑い声だった。


 だから彼女がふいに数段低いトーンで、「でも、そっか。みんな色々あるんだね」と言ったとき、それが彼女が発した言葉だとは、少しのあいだ認識できなかった。


「ひとつだけ」


 礼理さんは目を伏せながら、人差し指をぴんと立てた。


「さっき、警察に電話するの、慣れてるんじゃないかって言ったでしょ? あれ、半分正解で半分外れ。私の家は、たぶん、小柴くんが思っているような状況じゃない。むしろ逆」


 逆とはどういう意味だろう。


「私、中二くらいまで非行みたいなことをやってさ、それで自分で警察に通報してたの」


「どうして?」


「警察沙汰になれば、かまってもらえるかなって思って。あんまり意味なかったけど」


 彼女は誰にかまってもらいたかったのか。明らかに言葉が足りない。でも、わざとそういう言い回しをしているのだろうという気がした。


「警察に電話し慣れてるっていうのは、それのせい。本当にそれだけ。小柴くんはなんか怖いこと想像してるみたいだけど、私の家にはなんもないよ」


「本当か?」


「ほんとだよ」


 そう言って、視線を海の方へと移す。そして礼理さんは水平線よりも遠いどこかを見つめながら、「吉田くん、連絡遅いね」と呟いた。


 もう、話の続きをする気がないのがわかった。だから俺も追及するのはやめた。


 俺が礼理さんのプライベートな部分に踏み込もうとしたのは、彼女が家庭内で何かのっぴきならない状況に追い込まれているのではないかと疑ったからだ。


 彼女はすべてを話してくれたわけではなかった。それはそうだろう。急に話せと言われて話せるような内容じゃない。


 それに、仮に、礼理さんが全部話してくれたとしても、部外者で子供の俺にできることなんてたかが知れている。家庭の事情なんて、ちょっとやそっとのことで解決できるなら誰も苦労しない。


 だから結局、いまのやりとりに意味なんてなかったのだろう。


 だけど、それでも。


 俺は彼女の力になりたかった。意味がないことを理由に、見て見ぬふりはしたくなかった。それがどんなに合理的なことではないとしても。





 スマホにメッセージが届く。吉田からだ。


「準備が整ったってさ」


「さっきから気になってたんだけど、準備って何? UFOを捕まえるのになんで吉田くんが準備をしなきゃなの?」


 と、礼理さんが訊いてくる。


「どうやったらユーフォーを捕まえられるのかなって考えたんだよ。そしたらこの前礼理さんが言っていたことを思い出したんだ」


「なに話したんだっけ?」


「ラジコン歯ブラシが欲しいなら、事前に言ってくれたら貸したのにって俺が言っただろ? そしたら礼理さんはこう答えた」


 ――事前にそれがラジコンだって知っちゃったらさ、私にとってそれはもう未確認飛行物体じゃなくなっちゃうじゃん。ラジコンだって確認しちゃってるんだから。未確認の飛行物体じゃなきゃUFOじゃないよ。


 急にとんちみたいなことを言い出したなと思って、かなり印象に残っていた。


「だったらさ、それ、忘れればいいんじゃないかって思ったんだ」


「んん?」


「ユーフォーの正体が俺のラジコン歯ブラシだと知ってしまったから、礼理さんは俺のラジコンをもうユーフォーだと見なせなくなった。だったら、その正体に関する記憶を忘れれば、俺のラジコン歯ブラシはまたユーフォーに戻るんじゃないか?」


「つまり……?」


「記憶喪失になればいい」


 礼理さんはあんぐりと口を開けたまま、表情を凍りつかせた。ここまでわかりやすく絶句する人間を見たのは初めてだ。しかしどうしてそんな反応をするのだろう。


 説明が下手だったのかもしれない。俺は繰り返し言う。


「記憶喪失になればいい」


 礼理さんは困惑や呆れを通り越し、もはや哀れむような目で俺を見た。


「え、ごめん、バカじゃない?」


「なぜ? 理屈は合ってるだろ?」


「ええ……」


 礼理さんの反応を見ていると、自分の考えが間違っているんじゃないかという気になってくる。


 だがここで不安そうな顔をしてはいけない。立案者の俺が揺らいでいては、礼理さんだって俺の作戦を信用できなくなってしまう。


 俺は極めて自信満々に、この世界の法律は俺様なのだという顔をしながら、作戦の詳細を述べる。


「まず俺たちはラジコン歯ブラシのことを忘れる。そして吉田が遠くからラジコン歯ブラシを俺たちに向かって飛ばす。それを見た俺たちはこう叫ぶんだ。『ユ、ユーフォーだ!!!』」


「バカすぎる……」


「バカバカ言うな、さっきから! いいか、吉田が飛ばすラジコン歯ブラシは、俺が今日この日のために作ってきたオリジナルだ」


「この世にあるラジコン歯ブラシは全部小柴くんのオリジナルだと思うんだけど」


「よせよ」


「照れてんの? やめて」


「やめない。……俺のオリジナルってことはどういうことかわかるか? 製作者の俺が、それを製作したという記憶を失えば、誰もその正体を知るものはいなくなる。そう、俺のラジコン歯ブラシは、未確認飛行物体へと変貌するんだ」


「そうかな?」


「そうだ。搭載している歯ブラシだって市販のものじゃない。一から作ったオリジナルだ」


「歯ブラシって手作りできるんだ。……じゃなくて!」


 と、礼理さんは大きくかぶりを振る。


「ラジコン歯ブラシのことを忘れるって簡単に言ってるけど、そもそも、どうやって忘れるつもりなの?」


「気合いだ」


「気合いでそんな都合よく記憶が飛んだりする?」


「もしかしたら、気合いなんていらないのかもしれないな」


「なんなの?」


 超速で前言を撤回した俺に、礼理さんが訝しげな目を向ける。


 しかしこれはふざけているのではない。俺はたったいま、この世界の真実に触れた確信を得たのだ。


「礼理さん。三ヶ月前、どの道をどの順で歩き、何時に何を考えながら家に帰ったか、具体的に覚えてるか?」


「いや――覚えてないけど」


「そうだろう? 泥酔した大人がよく『どうやって家に帰ったか覚えてない』とか言うけどな、酒なんて飲まなくたって忘れるんだよ!」


「はあ」


「前日にテスト勉強がんばりました、試験直前まで単語集を見てました。なのに、本番になってどうしても思い出せない! 数分前まで見てたはずなのに! ――そんな経験はないか?」


「あるけど……」


「俺たちは忘れるつもりなんてなくたって、毎日忘れるんだよ! どんなに楽しい記憶も、忘れたくない記憶も、どうせ忘れるんだ! だったら、ジェット歯ブラシの記憶を消すことくらい、なんてことないだろう?」


「そう……かな……いや、言われてみれば……そうなのかも……」


 礼理さんの考えが揺らいでいるのがわかる。あとひと押しだ。


「逆に訊くが、なんで忘れられないと思う? 俺たちは生まれてから忘れなかった記憶のほうが少ない。そうだろう? 違うか!?」


「小柴くん、本当に急にめちゃくちゃバカなこと言い始めたなってさっきから思ってたんだけど――」


 先ほどから俺を呆れるように見ていた礼理さんの目つきが、徐々にシリアスなそれへと変わっていく。


「よく考えてみたら意外と反論できない。確かに私たちって、毎日なにかを忘れてる。一年前の朝食なんて絶対に思い出せないし、一週間前のだって怪しい。授業で先生が言ったことを全部覚えていられたら、テストで苦労なんてしない」


「そうだ。俺たちはいとも簡単に忘れてしまう」


「だったら、ラジコン歯ブラシのことを忘れることも……できる……?」


「ああ、できる! 絶対にできる! 俺たちは忘れることができる!」


 俺は礼理さんの目を堂々と見つめる。思いが届いたのか、彼女は小さく頷いた。


「わかった。やってみる。できる気がしてきた」


「よく決断してくれた」


「それにちょっと、楽しそう。こんなふうに、一回バカになってみたかったんだ」


「おいバカって言うな!」


 一生懸命考えた作戦なんだから!


 まあでも、これで話はまとまった。あとは行動するだけだ。


「せーので忘れるぞ。礼理さんはポケモンやったことあるか? 俺、最近ハマってさ」


「急になんの話?」


「ポケモンってさ、不要な技を忘れさせるときに、『1...2の...ポカン!』っていう独特なかけ声を出すだろ」


「あぁ……なるほどね。そのイメージで忘れようってことね」


「話が早い」


 俺は目を閉じる。意識を集中する。


「準備はいいか!?」


「OK」


「じゃあいくぞ! いまから忘れるぞ!」


 俺は、心の中で唱える。


「レッツ・記憶喪失! 1...2の...ポカン!」


 ぶっ飛べぇ……俺の脳のHDD!!!

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