ジェット歯ブラシを知っているか
本気になるに値しないものなんて、この世には存在しない。
それが何を意味するかわかるか?
そう、その通り。
お察しの通り、歯ブラシを飛ばせということだ! そうだろう!?
そうじゃない?
それは……。
それはなんか、すいません……。
※
新年度が始まった。
始業式のあと、ホームルームで生徒手帳が配布された。この高校は一年ごとに生徒手帳の色が変わる。一年生は緑、二年生は青、三年生は紫といった具合に。
俺は渡されたばかりの青色の手帳を眺める。いつの間にかもう二年生だ。
『小柴 春海』という見慣れた名前が、身分証明書の欄に印字されている。
俺はこの名前があまり好きではない。春海というのは、字面も響きも爽やかすぎるからだ。それが似合うような人間だったらよかったのだが、自分は顔も中身も爽やかキラキラ青少年という感じではない。
とは言え、『超絶ゴミ太郎』みたいな名前と比べたら一兆倍ましなので、嫌っているわけでもないが。
その後に自己紹介がおこなわれた。クラス替えをしたばかりなので、知っている顔と知らない顔が入り交じっている。
「アガワです」「イトカワです」「エンドウです」「カヤマです」なんて挨拶が延々と続く。とてもじゃないが一回で全員の顔と名前を覚えられる気がしない。おいおい覚えていくことになるのだろう。
ホームルームが終わると、昼過ぎには放課になった。教室を出て、部室棟へ向かう。
俺がこの頼武高校に入学したのは、とにかく部活動の種類がバカみたいに多いからだ。メジャーな部活は当然あるとして、そのほかには射撃部、ラクロス部、eスポーツ部、軽音楽部、テーブルゲーム部、天文学部、暗号研究部、手品部、エクストリーム・アイロニング部、百人一首部、ドミノ部、サボテン部、占い研究部、輪ゴム部、オカルト研究部――その他たくさん。部活動の多様性だけで言えば、全国でもトップクラスと言えるだろう。
俺は夢を見た。ここになら『ジェット歯ブラシ部』があるんじゃないか、と。
だがそんなことはなかった。この頼武高校に『ジェット歯ブラシ部』は存在していなかった。狂ってる。
ならばどの部活にも用はない。帰宅部でいい。と思ったのだが、部活動が義務付けられていたので、仕方なくラジコン研究部に入部した。それからもう一年が経つ。
この高校の敷地内には、部室棟と呼ばれる二階建ての建物がある。部室棟と言うと聞こえはいいが、その実態は活動場所に恵まれないマイナーな部活の掃き溜めのような場所だ。ちなみに我らがラジコン研究部も、掃き溜めの一員である。
巨大な直方体の中に、四角い部屋を端から端まで並べただけの、無機質な建造物。それが部室棟。その辺の公民館が派手に見えてくるほどに、装飾らしい装飾は一切ない。
だが変な部活ばかりが集まっているせいか、住人たちも変な人間の割合が多く、外観の地味さとは裏腹に、部室棟の中は魔窟としか言いようのない奇妙な空気で満ちている。
この日も、中に一歩足を踏み入れた途端に、なぜか白衣を着てアコースティックギターをかき鳴らしながら「サンバ♪ サンバ♪ メタルサンバ♪」と熱唱する男子生徒とすれ違った。なんだその歌は? なぜ白衣なんだ? どこへ行くんだ? お前は何部なんだ? 全部わからん。
ふいに、廊下の奥から「固形燃料ならあるぜ!」と叫ぶ声がした。俺のすぐ横では、でかいこけしの被り物をかぶった生徒が扉の枠に引っかかっている。なんとなく関わりたくなくて、こけしから視線を外すと、階段で二人組の男女がいちゃつきながらドミノを並べているのが見えた。まあ別に驚くことはない。部室棟はいつもこんな感じだ。
無秩序な喧噪をかきわけながら、俺は二階にあるラジコン研究部の部室までやってきた。今日は自主練という名目で、実質部活は休みの日だったのだが、気まぐれでラジコンを飛ばそうという気になって、ここに寄ったのだった。
部室内にいた先輩と軽く雑談を交わしながら、自作のラジコンをキャリングバッグにしまい、再び廊下へ出る。すると――
「お~い、小柴マン! perfect×perfect!」
と、俺を呼ぶ声がした。顔を見ずとも声で誰だかわかる。小学生の頃からの友人である吉田だろう。
振り返ると、眼鏡をかけているのに、優等生にもインテリにもまったく見えないという独特の風格を放つ男が歩いてくるのが見えた。やはり吉田だ。
「小柴マン、perfect×perfect!」
「それはなんだ? パーフェクトパーフェクト? ってなんだ?」
「なんだろう……?」
吉田は小首を傾げた。
なんだろうじゃねえよと思う。小首を傾げたいのはこっちのほうだ。
ところで、『小柴マン』というのは俺のあだ名だ。吉田だけがなぜか、この異常にクオリティの低いあだ名で俺を呼んでくる。
「小柴マン、部活どうすんの? やばいだろ」
「どうするって、なにが?」
「始業式で新しい理事長が言ってたやつに決まってんだろ~」
「始業式?」
始業式は所々で寝てしまっていたので、どんな話があったのか全然覚えていない。
吉田が言うには、今年度から理事長を含めた経営陣が刷新され、それに伴って学校の方針が変わったということだった。
学校の新方針――それは、増えすぎた部活動の縮小。
日頃どんな活動をしているのかよくわからず、実績も出していないような部費を浪費しているだけの部活は、徐々に廃部にしていくとのことだ。
「た、たしかに……」
言われてみれば正論すぎる。逆にいままでどうやってこのバカげた数の部活動を維持できていたのか謎だ。学校運営だってボランティアじゃない。無駄を削ろうとするのは自然だろう。
いや、他人事じゃないんだよと、吉田の表情が陰る。
「俺ら射撃部には、実績なんてないから。潰されたらヤバい」
「んー、射撃部って珍しい部活だけど、変な部活じゃないだろ? 射撃部があるってだけで入学してくるやつもいるだろうし……だからほら、なんか、そういう部活は大丈夫なんじゃないか?」
言ってから、死ぬほど気休めにしかなっていないことに気づいた。いちおう吉田のことを励まそうとしたのだが……。
吉田はどこか投げやりな笑みを浮かべた。
「いいよなぁ、小柴マンのいるラジコン研究部は。実績があるから。俺たちはどうにもならねえよ。そんな急に実績とか言われてもなぁ……。ところで、カレー味のうんことうんこ味のカレー味、食べるならどっち?」
「えぇ?」
なんだ? どうしてその話題になる?
百歩譲ってその話題になるのが自然な流れだとして、カレー味だうんこ味だという会話から何が生まれる? 俺はその二択問題で盛り上がっている人間を見たことがない。
「なんでそんなことを訊くの?」
「なんで? ……なんでだ。なんとなく?」
「…………」
吉田……会話が下手すぎるだろ……。
※
子供のころ、大きな歯ブラシが空を飛んでいるのを見た。七色に炸裂する炎を噴射しながら、夕暮れ時の空を駆け抜け、地平線の彼方へ消えていくのを確かに見た。ジェット歯ブラシだ――と、俺は無意識に呟いていた。
それ以来、俺はジェット歯ブラシの魅力に取り憑かれた。そして自分も同じように、歯ブラシを飛ばしたいと思った。
だが、歯ブラシを飛ばすことの最大の障壁となったのは、法律だった。
火薬取締法だ。
当然だが火薬というのは危険物であって、その取り扱いかたは法で厳格に定められている。それがジェット歯ブラシとは、とにかく相性が最悪だったのだ。
まず、派手に炎を噴き上げながら長時間歯ブラシを飛ばせるほどの火薬は、まず素人が理由もなく扱えるものではない。
ならば正当な理由をもって、正当な手続きを踏めば許可が降りるんじゃないか――と、理屈で言えばそうなのだが、どう軽く見積もっても、「歯ブラシを飛ばしたいから」という理由で国から許可が降りるはずがない。
俺の夢はスタート地点で頓挫した。法律は強い。そして日本は法治国家だ。勝てるはずがない。
「火薬取締法に……敗けた……!」
法律に敗北し、俺は失意の底にいた。小学五年生のことだった。
だが悲しい日々もそう長くは続かなかった。近所に自作のラジコン飛行機を作っているおじさんがいることを知ったのだ。
俺の中のマリー・アントワネットが目を覚ました。
『火薬が駄目なら、電動モーターと翼で飛ばせばいいじゃない』
その通りだ、マっちゃん。ありがとう。
歯ブラシを飛ばすにあたって火薬にこだわる必要はない。いくらだってやりようはある。なにより、ラジコンなら子供の自分でも現実的に扱えるじゃないか。
俺はそのおじさんに教えを乞い、歯ブラシと飛行機を融合させたオリジナルのラジコンを作成するようになった。やがて小学校を卒業するころには、自在にラジコン歯ブラシを飛ばせるようになっていた。
――と、過去を思い返しているうちに、目的地に到着した。吉田と別れたあと、俺は自転車でとある河原までやってきたのだった。理由はもちろん、ラジコン飛行機――もといラジコン歯ブラシを飛ばすためだ。
ラジコンはどこでも飛ばしていいわけではない。航空法というものが定められていて、ざっくりと言えば、規定の場所以外で無許可で飛行物を飛ばすと違法になる。
幸い、頼武高校は郊外にあるので、自転車を数十分も走らせれば手頃な場所が見つかる。しかし航空法も年々厳しくなっていて、都会ではもはや飛ばす場所を見つけるほうが難しくなっていると聞く。
火薬取締法に航空法。その他もろもろの条例たち。俺が歯ブラシを飛ばそうとするたびに立ちはだかるのが法だ。なんでだよ。
どこまで行っても法・法・法! 俺と歯ブラシが何をしたっていうんだよォ!
「だけど俺は、諦めナイチンゲールっと……」
ラジコン歯ブラシのセッティングをしながら、無意識のうちになんの価値もない、人生において完全に無駄でしかないダジャレを呟いていた。俺は人間として終わっている。
準備が整い、歯ブラシを飛ばす。
「美しい」
歯ブラシが飛んでいる。その事実だけで俺はこの世界に救いがあることを信じられる。
歯ブラシは縦横無尽に宙を舞い、空気を切り裂き、青などという退屈な色をした大空に新たな彩りを加える。
小学生のころから、歯ブラシと飛行機を合体させたトリッキーなラジコンばかり飛ばしていたせいか、俺の操縦技術はそれなりに上がっていた。高校にジェット歯ブラシ部がないことを知った俺は、ラジコン研究部に入り、地方大会で無双し、部内に居場所を作った。
つまり、俺TUEEEをしたのだった。
吉田が言っていたラジコン研究部の実績とはそれだ。この実績がある限り、ラジ研が潰されることはないだろう。
「…………」
ザザッと、一瞬、胸の奥でノイズが走ったような感覚がした。
初めてラジコン歯ブラシを飛ばした日の感動は二度と忘れない。仮にその感動が薄れることがあったとしても、歯ブラシを飛ばせば瞬時に甦る。
だが近頃は何かがおかしい。感動の中に、ざらりとしたものが微かに紛れ込んでくる感覚がするのだ。
急に気持ちが冷めてしまった。もう帰ろう。今日はもともと部活のない日だったんだし。
ラジコン歯ブラシの高度を徐々に下ろし、着陸させる。そしてそれを拾い上げるため、身を屈ませたときだった。
「もらった!」
視界の端から、何かが飛んできた。
……網だ。虫取り網が、俺のラジコン歯ブラシにすっぽりと被されている。
顔を上げると、頭にアルミホイルを巻き、全身を黒いローブで覆った女子が立っていた。
「っ!?」
いつの間にか人が近づいてきていたってだけでも驚くのに、そのビジュアルがあまりに奇天烈すぎて、俺は一瞬息の仕方を忘れた。怖すぎる。
呆然としている俺をよそに、彼女は虫取り網を引き寄せ、ラジコン歯ブラシを手に取る。そして「ごめん、これ、借りるね!」と言うなり、踵を返して走りだした。
「あ?」
あまりに突然のことに、なんの反応もできない。我に返るまでに数秒かかった。
「おい、なんだよ急に!」
「ごめん、実績が必要なの!」
「はあ!?」
女子は土手の上に停めてあった自転車に乗り、走りだす。
俺は全速力であとを追いかけた。が、自転車に追いつけるはずもない。自分も自転車に乗ればいいと気づいたときには、彼女の姿はもうずいぶんと小さくなっていた。
「待てって! ふざけんな!」
窃盗じゃねえか!
どうしてだ。なんでラジコン歯ブラシを持っていくんだ? あれに興味を示すやつなんて、俺以外にいないと思っていたのに。
まさか、ラジコン歯ブラシの素晴らしさに気づいたのか?
だとしたら嬉しい。いままで誰もあの価値をわかってくれる人なんていなかったからな。
いや、喜んでいる場合じゃない! 盗みは盗みだ!
「誰なんだよあいつ!」
考える。記憶を辿る。いまの女子について、何か心当たりはないか?
心当たり……心当たり……頭にアルミホイルを巻いていて、黒いローブを身にまとった女子に心当たりは――
「あるわけないだろ!」




