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3.心の在処 -Where is My Heart?-

全ての命は、他者から奪わなければ生きられない。

場所も、糧も、果てはその命さえも。


これは生命が抱える絶対の命題。

逃れることの出来ない世界の摂理。



当然、奪われる側にも事情は有って。

強者はいつも、それを踏み躙るかどうかの選択を迫られる。

⋯⋯いいや、そんな選択は無いのと同じだ。

天秤に乗っているのは何時だって自分のことだけ。

なのに、いつもほんの少し秤が揺れるのは。

きっと私がどうしようもなく弱いから。


獣は迷わない。彼等は獲物を侮辱しない。

人は目を瞑る。彼等は犠牲を直視しない。

ならば、私は。

獣にも人にも成れない私は。



そう、これは理想(ユメ)のお話。

現実に訪れた夢物語。

こんな中途半端な私に。

こんなにも悲しい世界に似合わない優しい声で、彼は静かに救いをくれた。


私がもう、奪わなくて済むように。


その血を差し出してくれた、とある人間との日常の話だ。



◆◆◆



満月の夜。


墨の様な夜闇の中にその街はあった。

暗闇を近付けまいと多種多様の光を放ち、静寂を寄せ付けまいと眠らぬ音が鳴り続ける、人間達の街。

ここは戸張市で最も賑わう都会、世朱町(よあけちょう)

雑多なビル群が背比べでもするように立ち並び、深夜だと言うのに人や車の通りもまばらにある。

そんな喧騒止まぬ都会の中にも、やはりその熱気が届かない場所がある。



その静かな路地裏に、”彼女”は居た。

町の中心部からは少し外れた、電灯の少ない表通りから繋がる路地裏。

煤けたように汚れた灰色の壁、回っていない換気口の数々、壁に混みあった配管達、散乱したゴミと小さな獣が這い回る薄汚い町の暗部。そんな場所にあってなお際立つ美しさを纏って”彼女”は立っていた。


銀の髪、紅い瞳、少女の(かたち)をした吸血鬼。

その名は、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。夜が慄く人喰いの怪物。


「⋯⋯今日、こそは」


呟きが闇に溶ける。

彼女は空腹を感じていた。

静かな、されど依然として腹から去らぬ空腹を。





匂いを頼りに、彼女は夜の街を駆けていた。

ビルの屋上から屋上へと飛び移り、光と光の隙間をすり抜けるように人の街を進む。

夜の闇も相まって、人の目は彼女を捉えることは出来ない様だった。

それほどに速く、鋭く、有り得ない動きで。

空中を泳ぐように跳躍しては羽毛のように着地し、壁を蹴れば次の瞬間には通りを挟んだ建物の屋上を走っている。

人外の動きは、簡単に人の理解を越えて。

眼下を歩く人間達、その誰にも見つからない速度で、彼女は街を駆け抜けていた。


吸血鬼は人間を遥かに超える身体能力を持つ。無論、その嗅覚も。

ガブリエラは夜の街を飛び回りながら探していた。自分の好みの血を持つ相手を。


吸血鬼には血液型が存在する。

研究者の間でv-血液型と呼ばれるそれは、所謂吸血鬼の嗜好を表わすものだ。

例えばv-A型の吸血鬼は、A型の人間の血を好む。それは単純な味の好みだけに留まらず、摂取する栄養の吸収率にも繋がる。

v-A型の吸血鬼がB型の人間を襲った時、空になるまで吸い尽くしても満腹にはなれなかった、というような事象は幾らでも発生しうるのだ。

だから吸血鬼は一般的に、無差別に人を襲うのではなく自分と同じ血液型の人間を探す。

それはまるで、人間が商店街で好みの店に入るように。


「──居た」


ガブリエラの鋭敏な嗅覚が、自分の好み(AB型)の血の匂いを嗅ぎとる。

性別、女。年齢、20代後半。脂肪、少なめ。ニンニクの匂い無し。フレッシュな甘さと程よい辛味を想像。

獲物をロックオンした彼女は素早い動きを止め、そのまま上から尾行を開始する。

ゆっくりと気取られぬように、建物から建物を経由しながら、されど視線は外さぬように。

肉食獣のように、チャンスを待つ。


いつ襲おうが人間など逃がすことは無い。

しかし人混みは不味い、と吸血鬼の本能は理解していた。

夜の街にはまばらながら人が歩いており、今獲物の女性を襲えば目撃者0とはいかないだろう。

それでは生き残れない。人間は数が多く知恵も回る。

吸血鬼という種は上から下まで全ての個体が分かっているのだ。人間との戦争になれば、数で圧倒的に劣るこちらに勝ち目はないと。

だからこそこっそりと。人間同士が起こす行方不明に紛れるように、慎重に。


と、ターゲットの女性が人気の無い路地に曲がる。

ビルの屋上からざっと周囲を見渡しても近くに人は居ない。

吸血鬼の本能は”今”と判断した。



飛び降りる、否、地面目掛けて飛び込む。


音もなく着地しながら人間を捕らえ、そのまま路地の奥へと引きずり込む。

それはまるで、人を攫う銀の風。

悲鳴も反応も無い、完璧な仕事だった。



──路地裏で呆然とする倒れた人間の女性と、紅い眼を爛々と輝かせ立ちはだかる吸血鬼の構図が瞬く間に出来上がった。


女性は呆然としている。その目がガブリエラを捉えると表情は困惑から驚愕へと変わり、そして理解と恐怖の表情へ。

彼女が慌てて息を吸い込むのを察知すると同時、吸血鬼は手を突き出した。


「⋯⋯ま、まさか吸血ッ”!?」

「黙ってて」


怯えて大声を出しそうになった人間の首を絞め、強引に黙らせる。

殺しはしない。死んだ瞬間血の味は劣化し、とても飲めたものではなくなる。

⋯⋯手のひらに熱を感じる。

人の脈、血の流れ、命の熱さ。


牙が疼く。

腹が泣く。

吸いたい。

吸いたい。

血を吸いたい!


本能がご馳走を前に制御不能気味に叫び出し、口を開けて肩へと持っていく。

空腹が腹を裂くほどに主張し、牙が獲物に近付くにつれ興奮が高まっていく。


アクタ程じゃないけど、おいしそう。

おいしいだろうな。

がまんできない。

はやく、はやく。

もういいよね。


いただきま──


「助けて⋯⋯お願い⋯⋯」


ぴたり。

人間が、喉の奥から絞り出した声。

ぼたぼたと零れる涙。

その涙に、声に、動きが止まった。


「許して⋯⋯私が何したって言うの⋯⋯」


恐怖に歪んだ表情が、紅い瞳を占領する。

やめろ。

そんな目で見るな。

急に現実が吹き飛び、視界と感覚が遠のき出す。


いやだ。

頭の中から声がする。

まるで自分のものじゃ無くなったみたいに言うことを聞かない体の中を、反響するみたいに声が広がる。

いやだ。

いやだ。

意識はすでに現実に無くて。

まるで頭を抱えた子供の鳴き声みたいに、ずっと同じことが内側で暴れ回っている。

いやだ。

いやだ。

否定されるのは、いやだ。


「この⋯⋯化け物⋯⋯」


どさり。

気付けば手から力が抜け、人間が地面に転がっていた。

ゴホゴホと咳き込んだ彼女は、這いずるようにして立ち上がると声にならない悲鳴を上げながら路地から逃げ出した。


「⋯⋯なんで、いつも」


狩りは失敗した。

残ったのは、ぽつんと立ち尽くすガブリエラだけ。

呆然とした吸血鬼は、ただ考える。



私は、吸血鬼。

血を、命を奪うもの。

ずっとこうして生きてきた。

助けを求める声も、恨みの篭もった目も、生きたいと叫ぶ涙も無視して⋯⋯殺してきた。

人を殺して、生きてきた。

それ以外の方法では生きられないから。

自分の命の為に、他の命を奪い続けた。



アクタの事が頭を埋め尽くす。

血を吸っても拒絶されないこと。

恨まれも泣かれもしないこと。

私に笑いかけてくる、あの優しい笑顔。



その幸福を覚えてからすぐだった。

私が今みたいな、駄目な吸血鬼になったのは。


拒絶されると離してしまう。

涙されると怯んでしまう。

苦しい辛いと拒絶する人間の姿がアクタに重なり、彼に拒絶されることすら幻視させる。


何も考えず殺せばいい。

ずっとそうして生きてきた。

なのに今は、余計なことばかり考えている。


やめて。

拒まないで。

苦しまないで。

嫌がらないで。

逃げないで。

許して。

憎まないで。

ひとりにしないで。


そんなの無理だ。命を奪う側がそれを求めるなんて、なんて酷い傲慢だろうか。

けれど⋯⋯人間は、吸血鬼(わたし)と同じカオをしていて。

愛する人と同じカタチをしていて。


それを傷付けるとき、どうしようもなく、胸が切り裂かれるような痛みを覚える。


私は駄目な吸血鬼になってしまった。

アクタに出逢って救われたハズなのに、私は弱くなってしまった。

こんなんじゃアクタと一緒に居られない。

いつか空腹に耐えかねて彼を殺してしまうかもしれない。

そんなのいやだ。耐えられない。


でも⋯⋯どうすればいいか、わからない。


ごめんなさい。

ごめんなさい。

今日もダメだった。

私は弱いままだった。

アクタのために強くなれなかった。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

アクタ、私を見捨てないで⋯⋯。



ガブリエラは気付いていない。

自分がとても優しいことに。

他者を踏み躙るという行為に⋯⋯すなわち吸血鬼として生きるという行為に、致命的なまでに向いていないことに。

ただ混乱の果てにある彼女が呼ぶのは、いつも同じ人間の名。



「アクタ⋯⋯」


ふらふらと、吸血鬼は帰路につく。

同じ名前を何度も呟きながら。

ほとんど何も考えられず。

ただ、迷子の子供のような弱々しい足取りで。



◆◆◆



ドアを開ければ、龍川芥はそこに居た。

いつものように広い部屋のソファに体を預け、黙々と読書に取り組んでいる。

そんな彼がドアの音を聴き、こちらを振り向く。

その顔は、いつも通りの優しい微笑を湛えていた。


「おかえり、ガブ」


ただそれだけで、ガブリエラは決壊した。

人のように弱々しく走り、彼の胸の中へ飛び込む。

あたたかい。こばまれない。いいにおい。

自制なんて出来なくて、ぎゅっと彼に縋りついた。


「アクタぁ⋯⋯っ」


驚愕と混乱の声を漏らしつつも、やはり龍川芥は拒まない。

今はそれが、何よりもガブリエラを落ち着かせてくれた。


「アクタ、アクタ⋯⋯」

「どした。なんかあったのか?」


実は彼女がここまで弱るのは初めてだった。

今までも狩りに失敗することは何度もあったが、その度に気分は落ち込めどこれほど弱さを露出することは無かった。


なぜなら、弱さを見せて嫌われたくなかったから。失望されたくなかったから。

薄々大丈夫だとは思っていても、消しきれない1%の”最悪”が彼女をなんとか留めていた。


違ったのはふたつ。

ひとつはストレスの積み重ね。半年弱飲み込み続けたそれが、棘のように胸の内を刺し続けていたことによる衰弱。

そしてもうひとつは、最近彼に誓ったこと。

──いつか本当に笑顔にしてみせる。

上手くいえなかったが、つまりそれは幸せにするということで。だからずっと一緒に居てということで。


けれど結果はこのザマだ。今夜も彼の命を自分という危険に晒すと決定してしまった。

そして彼女は遂に決壊したのだ。彼女もまた、己の弱さを赦せないが故に。


ぐずぐずと子供のように、名前と謝罪だけが辛うじて聞き取れる程の言葉の羅列を吐き出す。

そして冷静に戻った頭の奥から、嫌われるのではという恐怖が湧き出す。

己の無様さに失望して、絶望して──。


しかしガブリエラは”最悪”には至らない。なぜなら彼女が縋りついたのは、龍川芥(最愛の恋人)なのだから。


「ガブリエラ、大丈夫か。どっか痛いのか。大丈夫、何があっても、俺はお前の味方だよ」


それが怯える子供に見えた彼女を宥めるために咄嗟に出た慰めだとしても。

それだけで、ガブリエラの”最悪”は否定された。

安堵が息を詰まらせ、強ばった体を弛緩させる。

ゆっくりと、いたわるように、芥は背中を叩いてくれた。

まるで、親が子供にするように。


ぽんぽんと背中を軽く叩く感触に慣れたころ、ようやくガブリエラは正気に戻った。


「落ち着いたか、ガブ」

「⋯⋯うん。ごめんなさいアクタ。嫌いにならないで⋯⋯」

「別にならねえよ。それに、こういうときは”ありがとう”でいーんだよ」

「⋯⋯ありがとう」

「どういたしまして」


仰向けでソファに寝転がっていた芥の腹の上にくっついたまま、ガブリエラはお礼を言う。

近くにある彼の顔の表情は笑顔で、それが何より胸を満たした。

暖かい気持ちが、触れ合った肌から染み込むようにして胸の中に満ちる。


幸せで、幸せで⋯⋯だからこそフラッシュバックした記憶はより鮮明に脳に焼き付いた。

『化け物』⋯⋯。思い出すと指先が冷えていく。不安が思考を邪魔してくる。


「アクタ、私は⋯⋯バケモノ、なのかな」


気付けばそう問うていた。

否定して欲しかったから。塗り替えて欲しかったから。自分にとって誰よりも大きな存在の人に。


「⋯⋯そりゃ視点によるだろ」


びくり、と体が震えてしまう。

曖昧な答えに目に見えて不安がったガブリエラを落ち着かせるように撫でながら、彼は慌てたように続けた。


「吸血鬼、人を喰う生物。それだけ聞けばほとんどの人間にとってはバケモノだし、怖がられもするだろうさ。

でもそれはお前のことをよく知らないやつだけだよ、ガブリエラ」


優しく、傷付けないようにと気を使われた手のひらが、髪を梳き、頭をゆっくりと撫ぜる。

それが何よりの答えで、もう彼女に怯えは無かった。

龍川芥は自分を決して傷付けない。優しい力加減が、くすぐったいけど拒めない柔い感覚が、そう伝えてくれたから。


「お前には心があって、優しさがあって、人と同じような魂がある。そんなこと少し触れ合えば分かるさ。

少なくとも俺は、ガブリエラはバケモノなんかじゃないって思ってるぜ」


芥は体を起こし、ガブリエラを持ち上げて隣に座らせる。

そして兄のように、少し荒々しく頭を撫でてから離した。


ガブリエラは自分の胸に触れる。

小さな鼓動を感じながら、問う。

その中にあると言われたものが信じられなくて。


「アクタ⋯⋯私にも、心ってあるのかな」


それを聞き、彼は少し憮然とした顔になった。


「⋯⋯無いと思ってんのか?」

「心ってたぶん、すごく綺麗で⋯⋯だから、私なんかがもってるのかなって⋯⋯」


ただ、俯く。

恋も分かる。愛も分かる。それはアクタに向けるものだから。

けれど”心”は分からない。それは自分の中のものだから。

曖昧で、定義が不完全で、見えも触れもしなくて⋯⋯何より尊く美しい、人間が持つ最高の機能。

それが自分にある、というのがどうしても信じられない。


するとアクタは苦笑して、再び私と体ごと向き合った。


「それじゃガブ、心ってのはどこにあると思う?」


アクタは人差し指で、ガブリエラの心臓の辺りを指さす。


「ここ?」


ガブリエラが悩んだ隙に、今度は頭⋯⋯脳を指す。


「ここか?」


混乱気味のガブを尻目に、今度は2人の視線の間に指が動く。

自然、指を挟んでお互いの視線がぶつかる。


「人とひとの間かな?」


よく分からず何も言えない様子に笑って、彼は手を伸ばしてきた。

人差し指を立てたのと反対の手で、ガブリエラの手が掴まれる。

暖かく優しい力に導かれるように抵抗をしないでいると、2人の手のひらは触れ、開いたまま合わさった。

大きさも、色も、形も、体温も。何もかも違う手のひらが、重なる。


「ガブ、俺はな。目に見えないものは”信じること”で初めて生まれると思ってるんだ」


手のひらの感覚に意識を奪われているガブリエラの耳に、するりと言葉が入り込む。


「想像してみて。この手のひらの中に”心”があるって。

あったかくて目に見えない、自分の”心”があるって信じてみて」


それは最も信用する人間の言葉故の思い込みだったのか。

体温や手のひらの感触を混乱した脳で処理しきれなかっただけなのか。


でも、確かに──ガブリエラはその手のひらで、心に触れた気がした。


鼓動するような。息づくような。

熱を持ち、柔らかく、金色にも銀色にも感じる、光の糸の集合体のようななにか。

そんなイメージの結晶体が⋯⋯心が、この手の中に、ある?


指を絡めたふたつの手のひら、その中の心が、自分に近づいてくる。

いや、合わせた手のひらを、アクタが優しくガブリエラの胸の方へ押しているのだ。


とん、とガブリエラの手が彼女の胸の中心に触れ。

そして彼女は、あたたかいものをその胸に感じた。

これはただの違和感? それとも本当に⋯⋯


「それでも信じきれないなら、俺も一緒に信じるよ。お前の此処に、心があるって」


それが、決定打だった。

自分と彼が信じたものが胸の内に在ることを、ガブリエラはもう疑えなかった。


「ぁ⋯⋯」


小さく漏れる声。

不思議な感触が、いつまでも残る。

とくん、とくんと普段より煩く鳴る心臓。


その中に、あたたかいなにかが宿った気がした。


「⋯⋯これが、心」


呆然と、呟く。

ぱっと顔を上げれば、してやったりと口角を上げるアクタの姿。


「ほら、お前にもあっただろ」


ああ、本当に⋯⋯敵わない。

完璧に、完膚なきまでに、ガブリエラは心の存在を信じてしまった。


そうか、私は⋯⋯心があるんだ。

バケモノじゃないんだ。

アクタと一緒でも、いいんだ。


ガブリエラは、再び龍川芥に抱きついた。

言葉はなかった。思考もなかった。躊躇も恐れもどこかへ消えていた。


ただ、貰った心を抱きしめる代わりに。

この心が愛を叫ぶ相手の胸へと。


熱い体温。

大きい体。

触れた胸が伝える、自分のよりも力強い鼓動の音。

その全てが愛おしい。

好き。

大好き。


「アクタ、ありがとう⋯⋯」


言葉はそれしか出なかった。

後の1000通りの愛と感謝の言葉は、渋滞を起こして喉の奥から出てこなかった。

けれど、それで十分だった。

だって、アクタが笑ってくれたから。


疑うまでもなく感じる、アクタの心。

彼の心臓の中にあるそれが、自分の心と触れ合う気がする。

あたたかい。

嬉しい。

気持ちいい。

すき。

夢心地で、ただ抱きしめる。

困ったようなアクタの声も、未だ消えぬ不安の声も、腹を疼かせる空腹も、今だけは。


吸血鬼は祈った。

この心が、決して消えることのないように、と。




◆◆◆




ベッドライトだけが灯る暗い部屋の中、ふたつの息遣いが埃を揺らす。

ひとつは銀の髪を広げながらベッドで眠る、吸血行為後のガブリエラ。

そしてもうひとつは彼女に下半身を占領されている、ベッドに座った龍川芥。


泥のような闇が、彼の心の中を埋めていた。

陰惨な笑みが橙色の灯りによって晒される。そんな人間失格は、自分に縋り付くように抱きついた吸血鬼の銀の髪にゆっくりと指を滑らしていた。

彼は誰に語るでもなく、呟く。


「驚いたよガブリエラ、君が心を問うなんて」


⋯⋯見えないものを信じる、ということ。

それは人が人たる所以。数ある原人という種の中でホモ・サピエンス種が生き残り人の祖先となったのは、彼らにだけ”見えないものを信じる”という能力があったからだ。

人を信じる。神を信じる。相手の良心を信じ、また悪心を信じ、夢が叶うと信じ、分かり合えることを信じた。その果てに、彼らだけが人間となったのだ。


”見えないものを信じる”ことは、すなわち人間の証明だ。


「君の体は吸血鬼でも、中にある心は人間のもの⋯⋯なのか」


それは。

なんというアンバランスさで。


なんて⋯⋯嬉しい誤算だろうか。



君に人の心が在るならば。


「──ガブリエラ、君は俺を殺したとき、いったい何を思うんだろう」


悲哀? 憐憫? 恍惚? 絶望?

孤独? 快楽? 虚無? 達成感?

何も思わない? それともそういう風に装う?


人間失格は嗤う。

そのどれもが待ち遠しいと。

誰に想われて死ねるなんて⋯⋯そんな贅沢、とっくに諦めていたと云うのに。


すうすうと寝息を立てる吸血鬼を撫でながら、思わず呟く。


「君の心に遺れるなら⋯⋯俺も少しだけ、救われるよ」


また懲りずに期待している。自分にとって都合のいい未来を。

けれど今は何故か、そんな都合のいい夢を見ていたい気分だった。


吐く息が部屋に融ける。

それは溜息だったのか、それとも別のなにかだったのか。

人間失格は最後に吸血鬼の頬を緩くなぞり、ベッドライトを消した。


後にはただ、人では見通せぬ暗闇が部屋を支配するだけだった。

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