或る迷夢
途端に、未だ曾て存在したことが無かったものどもへの灼け付く様な郷愁が、胸を搗いて溢れ出た。私は、胸の内で激しい嗚咽が喚き散らすのを耳にし乍ら、私が最も死に近しかった季節、生が横溢して全く手に負えなくなってしまい、受け止める為の新しい容器が見付からずに大焦りを繰り返していた頃のことを思い出した。「ヒ、ヒ、ヒ!」と、見るからに香具師でございと云った風情の背の低い男が上目遣いに下卑た笑い声を立ててこちらを眺め乍ら、何か思惑有り気な表情で通り過ぎて行った。私はあからさまな不快感を隠そうともせずぎろりと横目でそちらを睨んでから、さもまたそんなことは何でもないと云った風を装って、その下らない苛立ちを抱えた儘また考え事に戻ろうとした。私が一瞬だけ垣間見られたと思った、その集中した、雑色の無い、一定的で完全な世界は最早足元をボロボロに突き崩されて見る影も無かったが、私はその陰鬱な洞察から抽き出しておいた昏い光景に秘かに見入ることに熱中し、せめてもの愉悦を得ようと試みた。何年も掛けて雑駁で稚拙乍ら入念に練り固められて来た憂鬱が、鋼鉄かと見紛うばかりのカチカチの真っ黒な塊となって、私の存在性を彫琢しようと何度も何度も大質量の刃となって私の生にぶつかり、無残な手口で雲母を剥がす様に不様に私の感受性を削り取って行った。あの夏、風景が強い求心力で全て私へ私へと引っ張られ、眩暈を起こす程のアンバランスさを引き起こしていた、あの忘れられ様も無い夏の日々のことが、まるで汗で肌にぺっとりと貼り付いてしまったシャツの様に私の記憶にへばり付き、ニタニタ笑いを浮かべてその重圧で私を圧倒するのを楽しみ乍ら、メフィストフェレスじみた「こちらは何もかも皆知っているんですぜ」と云った感じの得心顔で、現在の私の領域の中へぬっと迫り出し、のさばろうとしていたが、私はそこへそこへと戻ろうとする強い力を必死の思いでべりべりと引き剥がして、その更に先、〈契約〉を対自化して考察出来る様な風景の中へと食い込もうと藻掻き、足掻いた。安易な不在に陥ろうとする度にそれを非在が押し止め、そしてそれ自身が世界を一色に塗り潰してしまいそうになるのを何とか避けつつも、その疑似弁証法的な見せ掛けの下から私の無能力を責め立て追及する声が上がり、そして更にその下から、私を拉し去り消去してしまおうと云う悪魔めいた狡猾な微笑を浮かべた手が、青い空と海、そして白く輝かんばかりの雲の風景となって、にゅうっとこちらへ伸びて来た。私は慌ててその不見識を避け、固定し死滅した眼差しへ溶解してしまった状態に陥るのを何とか回避したが、腹の底に沈澱した恐怖は何時までも背筋に深く根を張って、何処かへ去ろうとはしなかった。あちらへこちらへと、次から次へと絶え間無く嘘と冗談とに翻弄され、何度も何度も一切が引っ繰り返され、どの状態も基底と見做すまでの信の措けない揺乱の中に在って、私は極めて不安定な重心に頼り切った儘っでいたのだが、まるで大量の小鬼共にむしゃぶりつかれる様な、恐怖と嫌悪とが綯い交ぜになったげんなりさせられる感覚が折り重なって行くことによって、やがて魂の芯そのものに癒し様の無い、沈鬱などろりとした疲労が蓄積し、集約し、次第に燃え立つ様な倦怠を誘い込んで来た。
その頃私は未だ鳥ではなかったのだが、ずうっと空ろな玉座の前に座り込んで時折居心地悪そうに身じろぎばかりを繰り返しているのにはいい加減うんざりしていたことも確かだ。私がさっと手を挙げるだけで無数の顔を持たぬ軍勢が然乍らレミングの如くに一気呵成に一直線に死へ向かって突き進んで行ったものだが、そのことについて誰も何も言わなかったし、抗議や文句どころか愚痴のひとつさえ私の耳に届くことは無かった。私は自分の残りの生が単に代理の穴埋め役、下請けの雑な間に合わせ仕事になってしまったことを恨めしく思い乍らも、それでもそれ以外どうすべきか、どうすべきだったのかまるで見当も付かず、自分でもポーズなのか心底からそうなのか区別が付き難ねる白痴の体を晒した儘、時間がやがて私が何か上手い言い訳を考えるよりも先に過ぎ去ってしまうことばかりを期待し、待ち望み、そしてその為に幾つもの策謀を巡らせていた。見渡す限り一面、凡そ手の届く世界はその悉くが私ではなく他の者の所有に帰すものであって、私の知る限りではそれらは全く手付かずの儘であったのだが、しかしそれらの正体を最初から底の底まで見抜き、確信する必要すら無い程に知り尽くし、それらに対する権利の一切———蹂躙し、脱色し、踏みにじってボロ切れの様にすっかり廃棄してしまう権利でさえ、手にしているのは私ではなく他の或る恐るべき強大なるもので、私には所詮掌の上で下手糞なみすぼらしいダンスを踊るしか許されてはいないのだった。私はそれがどんな名前で呼ばれ、どんな顔を持ち、どんな口調で喋るのかさえ知らなかったが、或いはそれは寧ろ正確を期して〈名付け得ぬもの〉であったと断じる方が良かったのかも知れない。私が怯え、萎縮し、憎みつつも何も言えないでいたのは正にその無名性に対してなのであって、それこそが私の徹底した無力感を裏返して徹底的な無敵感を植え付けた当のものであったからだ。確かに私は確信犯として振舞ってはいたが、それは実の所精々が刑の執行を待つばかりの死刑囚が、明日自分の首が胴体から離れることを確信している、と云う程度の確信であって、何年も費やして準義をし、終わった後も更に何年も後までその仕上げに費やしたあの〈契約〉によって、結局は全てにけりが付いてしまい、全一的に広がる非在の風景の中の一点の出来損ないのシミとして、私と云う存在は既に広く安い落札値で売却済みと云うことになってしまっていたのであった。私は明確な輪郭を持った風景を認識しようと試み、そして且つまたそれを自力で解体出来る様にしようと心懸けたのだが、色彩は常に私の意図せぬ所から現れ、私に出来ることと云ったら精々がぼんやりとその出現時期を予感する程度のことで、そして常に私の望みもしない仕方でボロボロと微かな残り香を放ち乍ら崩れ去って行ってしまうのだった。
私は湖の底で目覚めつつ眠り乍ら、気紛れで細長く赤い嘴を持った小鳥達が私の青白い蝋の様な躯を突つくのに任せていたが、輝かしくも喜ばしい寂滅の福音は勿論のこと、全てに決着を付けてくれる筈の最終判決は何時まで経っても姿を現してくれようとはしなかった。既に余りにも長いこと慣れ切ってしまっていて鈍痛と化し、通奏低音の様に低く持続を続け乍ら、私の肉体をボロボロと蝕んでいた認識の悪夢は、今や深いレッドワインの輝きを放つ美事にカットされた宝石となって、暗い湖底で神秘的な薄明を周囲に放射するまでに至っていた。悍ましい夜の光はやがて結晶化し、ひとつの終焉と誕生を迎えるべき時を控えており、私の果ての無い重い眠りも、目覚めとは異なる形でその終わりを告げようとしていた。異質な思考の一群が星降る夜の星の様に私の上に注ぎ掛かり、アイスクリームにトッピングでも施すかの様に、きらびやかな明滅する無数の概念の灯火となって、がっちりと組んで強固な〈非在〉の風景を、その本質的な欺瞞製を全くものともせずに織り成して行った。美しい破滅の予兆が過去の幾つかの重要な時期から時系列を無視して全て等価なものとして一時に現れ、高らかな哄笑を何が浮かんでいるのか得体の知れない虚空の四方へ向かって響かせ乍ら、長く細い振幅の激しい谺を残しつつ、意識の背後へ背後へ回り込もうとする背景へと遠のいて行った。明るい虚無が周囲の物体を全て覆ってしまうと、そこは光の氾濫する眩いばかりの形無き洪水となり、その中に悉く認識可能な事象を沈めてしまって、ものみな全てが確定的存在以前のあわいへと流れて行ってしまった。淡いローズティーの葉の様な色をした憂愁に全風景が染まり、ひしゃげてしまった後で、私は少なからぬ悦楽と共に自らの身を売り渡してしまう過程を繰り返し繰り返し何度も再現し、回想し、再構築し、その実在性を強めて行ったものだが、それらの呪縛が明白な実体としての濃度を急速に肥大化させて来た時分になってようやく、私はそのことの恐怖を実感としてまざまざと噛み締めることが出来たのだった。それら積み重ねて来た忌避すべき過去の巨大な集積体の振動を示すオシログラフが、今、気の触れ始めの様に不穏な動きを見せ始め、時折痙攣じみたひくつきを見せたかと思うと、それまでに私が扱ったことのある、と云うよりも経験したことのある振幅よりも更に大きな揺れ動きを繰り返し、忘れ掛けていた喫緊事が戦慄きと共に思い出されて来ずにはおかない様に、幾度もハッとさせられる未知のものについての感覚を差し挿み乍ら、私の個的存在としての様態の臨界点を超え出ようとしていた。私は悲鳴を上げたかったが、全身を頑丈な縛めで固く固定されていたのでまばたきひとつさえ自分の自由にはならず、私は単内心、手鏡の届く様なちっぽけな範囲で、誰にも聞こえないであろう、恐らくは私自身にさえ碌に聞こえてはいないであろう低い呻きを短く発することしか出来なかった。空が、重力に従って垂れ流れて来て、私はこの無為な破局の訪れを覚悟し、笑うことさえしなかった。
と、突然に霞が晴れ視界が明瞭になり、私は別の牢獄に移っていた。日は沈み掛けで、烏が何か秘密の会話を交わしていた。私は迷夢の一切をくるくると折り畳んでポケットの中に収めると、とぼとぼと図書館への道程を急いだ。




