月下の秘め事
触れた先から熱を分け合うように、夢中になってお互いを愛おしんで。何度も何度も角度を変えてはキスを交わす。言葉の代わりのように。
そうしてすっかりディアナの息が乱れ、涙目に彼を見上げたなら、セイは彼女の頬にかかる髪を指先で優しく避けてやりながら──愉しげに微笑んだ。
「そういえば。今夜のために、それはそれは素晴らしい衣装を用意してくれたと聞いたけれど」
彼の言葉に、一瞬ポカンとしてから──みるみるうちにディアナの頬が赤く染まる。
セイが言っているのは、おそらくリエンカの作った『勝負服』、初夜の為のナイトドレスのことだろう。それに思い当たって、かつその衣装を思い出して、ディアナは思い切り分かりやすく動揺した。
「え、えっと、それは、あの」
どうやって誤魔化そうか慌てて考えるが、もちろん目の前の王子から逃げられるわけもなく。
「もちろん見せてくれるんでしょう?リエンカ殿が自信作だと胸を張っていたし、後で是非感想を聞かせて欲しいと求められていますからね」
わざとらしいくらいに、にっこりと隙なく微笑んで見せるその顔は、絶対にどんなものか知っているはずだ。ディアナは恥ずかしさに、顔を引き攣らせて首を横に振る。
しかも感想って何を言うつもりなの!?
「あの、今日じゃなくても。もう寝室まで下がっちゃったし、侍女を呼ぶのも悪いわ」
もう夫婦の寝室で二人きり、しかも寝台の上で抱き締め合っていたところなのだ。てっきりこのまま──かと思っていたが、思いのほか王子は妻になったばかりの女神を、余すところなく堪能することに決めたらしい。
「彼女たちはそれが仕事だよ。そして綺麗に着飾った妻を楽しむのは、夫の特権」
そう言って、セイは軽く小首を傾げて見せる。
「お願いだ、ディアナ。僕の女神」
──ズルい!どっちが小悪魔よ!
ディアナは叫び出しそうになりながら、グッと堪えた。
アクアマリンの瞳に懇願の色を浮かべて、けれど色気を振りまきながらそう言われれば、逆うのは難しい。彼女は彼のお願いに滅法弱いのだから。それに、今日結婚式を挙げたばかりの夫の、ささやかなお願い事だ。叶えてあげられるのは妻だけなのだし──といったことを彼に言葉巧みに囁かれ、ディアナは渋々と頷くしかなくて。
結局最後にはいつものように、セイの思惑通り。もちろん彼はそれを踏まえた上での確信犯だ──ずるい。
すぐに呼ばれた侍女に入浴させられ、隅々まで磨かれて、あのナイトドレスを着せられる。鏡に映る姿を見れば挫けてしまう気がして、そのまま彼の部屋に戻った。
夫婦の部屋に入り、寝室への扉を開ければ、こちらも入浴してきたらしいセイが、上気した肌で立っていて。ディアナの姿を見るなり、言葉を失ったように立ち尽くす。
「……セイ?」
彼の様子にディアナは不安げに呼びかけた。どこかおかしいだろうか。似合わない?それともやはりあからさますぎて引かれてしまったのだろうか。
「……何か言って」
「──っ」
彼女の思いとは裏腹に──もちろん彼は引いたりはしていない。どころか、大いに見惚れていた。心細げに彼を見上げた妻の上目遣いに、セイは密かに息を呑んで。女神が戸惑いの声を上げる前に、彼女をきつく抱き締める。
「言葉も出ないくらい、綺麗だよ。僕の愛しい女神」
かすかに透ける真っ白な生地をふんわり重ねたそれは、ディアナの紫水晶の瞳をより神秘的に見せていて。その隙間から覗く鎖骨や、首筋、腕や脚が華奢だけれど、どこか艶かしく見せる。月光に照らされて輝く彼女は本当に女神か精霊のようだ。セイは腕の中の妻にキスを落としながら、満足げに囁いた。
「リエンカ殿に特別報奨金を出さなくてはならないな。確かに彼女は良い仕事をする。どんなあなたでも魅力的だけど、まだ僕の知らない新しい一面があったとはね」
「また、そんなこと言って……こっちが恥ずかしくなるわ」
ブツブツと返すディアナの、しかし赤く染まった頬では彼の腕を押し返すことなどできず。さらりと触れる手触りの良い夜着を楽しむように、けれどちゃっかりとその隙間に手を差し入れながら、王子は女神へと微笑みかける。
彼は柔らかで温かな彼女の肌の温もりを感じながら、同時に手のひらに伝わる鼓動に、ひそやかに安堵し──感謝した。ずっと心に刻み込まれたままだった、女神を喪ったときの恐怖がやっと溶けていく。
「ディアナ、あなたは美しくて、強くて、優しくて、賢くて──儚くて、脆い」
「セ……」
のけ反る彼女の首筋に唇を落とし、彼は何かを言いかけた彼女の言葉を封じてしまう。
「僕は矛盾しているんだ。あなたに凄く優しく触れたいけれど、滅茶苦茶にもしたくなる」
首筋を辿る唇が、キスの合間に女神の白い肌に歯を立てた。その感触にぞくりと震えて、彼女は彼の頬に触れて囁く。
「なら全部試して。何をしても、私はずっとあなたのものだわ」
とんでもなく大胆なようにも、信頼の表れにも聞こえる、妻の言葉に。夫である王子は熱を孕んだアクアマリンの瞳で、幸せそうに微笑んだ。セイの胸に頬を寄せたディアナは、彼の心臓の音を聞くように、耳を澄ませて瞳を閉じる。彼女もまた、彼が隣に生きていてくれることを実感して、深く深く微笑んだ。
「愛してるわ、ラセイン」
ディアナの言葉に、セイは瞬きをして。深く深く微笑んだ。彼が言葉遣いを改め始めたように、妻もまた努力してくれているのだと気付いて。
二人だけの呼び名で呼ばれるのはもちろん好きだが、正式な名で呼ばれるのも悪くない。おまけに愛おしい彼女は彼の名を呼んで愛を囁くだけで、もう真っ赤に頬を染めて恥ずかしげに俯いているのだ。願ってもない眺めに歓喜が沸き起こる。
「僕も愛しています、ディアナ」
胸の中の女神が、セイの胸に頬をすり寄せた。いくら恥ずかしげも無く口説こうと、遠慮もせず彼女に触れていようと、こうしたディアナの小さな行動ひとつにドキリとさせられる。柔らかな髪を撫でれば、彼女は瞳を閉じて彼に身を任せたまま。自分の心臓の音を聴かれていると分かっていても、だんだん鼓動が早くなってしまう。
ディアナの手に光る指輪に重ねるように、セイは自分の手を絡め、もう一方の手は彼女の背を抱いて、そのまま強く引き寄せた。
一緒に寝台に横倒しに倒れ込んで。目が合うとクスクスと笑い合って。それから同じタイミングで声を途切れさせる。セイがディアナの頬に触れ、ディアナがセイの頬に触れて。近づくお互いの顔に、また同じタイミングで目を伏せ──閉じる。
触れ合う唇に、言葉以上の想いを込めて。額に、瞼に、頬に、唇に、首筋に。
また夫から落とされ始めたキスを受けながら、月の女神は熱い息を吐いた。伝えられる想いを返すように、彼女もまた王子へとキスをする。絡められた指を握りしめたなら、寝台に落ちる月光に、お互いの薬指の指輪が煌めいた。
「僕の心も身体も、この指の誓いも。永遠にあなたのものだ、月の女神」
アクアマリンの優しい瞳が、彼女を捕らえて離さない。それは──確かに彼女が求めるもの。
「この心も身体も、剣も命でさえも。私のすべては、あなたのものよ」
紫水晶の瞳は逸らされることはない。
「共に生きていこう、ディアナ」
「ええ。ずっと」
重なった唇に、もう言葉は溶けて。
仰け反った頭越しに見えた窓の向こう、夜空には美しい満月が浮かんでいる。幸せな温もりに、彼女はもう一度、瞳を閉じた。
***
空が明るくなり始め、紺碧に薄紫が混じる。そこに橙に燃える光が射すのはもうすぐだろう。
城の一角にあるバルコニーで、その空を眺めながら薄紫の髪を靡かせて立つ魔導士が居た。彼女はそれまでの子供の姿ではない。年相応の女性の姿だ。ふと人の気配を感じ取った彼女は振り返って、そこに居た人の名を呼ぶ。
「ヴァイス様」
かつてリルディカから全てを奪い、彼女の望みを叶えた主がそこに居た。けれど今はひどく穏やかな気配に包まれていて、あの頃のような重圧感を感じるものではない。彼はふ、と口元をわずかに笑ませ、リルディカへと口を開く。
「随分と、元気そうだな」
他の者であれば何でもないような言葉だが、彼女には違う。彼の表情にリルディカは静かに微笑んだ。
「はい、この国のおかげです。それに、あなたの」
今にも命を失いかけていた巫女姫ではなく、彼女はもうセインティアの魔導士そのものだ。普通の人間と同じ時を生きる、その簡単なことが何よりも難しく、大切なことなのだと知っているが、もう諦めたりはしない。ただ死を待ったりはしない。
「俺は何もしてはいない。お前にも会わずにキャロッドへ帰るつもりだった」
眠れないままに、朝が近づくまで窓の外を眺めていて。そして何かに呼ばれるように彼はバルコニーに出て来た。そうしたなら、薄紫の髪の彼女がそこに居たのだ。ヴァイスの声音は自嘲気味に響き、リルディカは首を横に振って否定する。
「あなたが私をラセイン王子と月の女神に託して下さったからです、ヴァイス様。私が目を背けて見ようともしなかった、私の本当の望みを叶えて下さったから」
彼女の言葉に、公主は複雑そうに表情を変えた。軽い溜息と共に問う。
「レイトは、お前の望みを叶えてくれたのか」
リルディカは深く微笑んだ──それが答えだった。ヴァイスは口の端を微かにあげ、彼女へと背を向ける。
「ずっとその姿であれば、俺はお前を放しはしなかったかもしれんな」
冗談めいた口調で。公主は巫女姫へと別れを告げる。
「せいぜい達者でいろ、リルディカ」
長い夜が明けていく、その光の中で。暁の巫女は微笑んだ。
「ありがとうございます、ヴァイス様。あなたもどうか、お元気で」
ヴァイスがバルコニーから廊下へと出たところで、壁に寄りかかって腕組みをしながら立つ、亜麻色の髪の青年と目が合った。彼は煙草を咥えてはいるが、火は着いていない。
ヴァイスはレイトに近づくと、その手元へ視線を移した。彼はその視線に気付いて、煙草の箱をこちらへと示してくる。
「一本、貰おうか」
ヴァイスがそれを咥えると、レイトは彼の煙草へと火を着け、自分のものにも同様に着ける。公主は青年の隣に並ぶように壁に寄りかかり、揺らぐ紫煙を掻き消すように、苦みを帯びた煙を吸い込み、深々と吐き出した。しばらく二人はそのまま黙っていたが。
「レイト。次はない。今度こそ、失うな」
ヴァイスの重い言葉に彼は目を細めて、舌打ちせんばかりに──けれど真摯に答える。
「言われなくても──二度と」
そうして去っていく公主に、レイトは初めてキャロッド流の敬礼をした──。




