薬指の約束
「お師匠さま、大盤振る舞いですね」
婚姻の儀式の間から出て、バルコニーの下で招待客に紛れながら新郎新婦を眺めていたリティアとシーファだったが。花を降らせる演出を、銀の魔導士の魔法だと思った弟子は、師の袖を軽く引いて楽しげに耳打ちする。けれど彼は首を横に振った。
「あれは私ではない」
「え?そうなんですか?てっきり──」
リティアは彼の否定に目を丸くする。師が彼女に良く見せてくれる魔法の一つなのだ。
「まあアドバイスはしたからな、王宮魔導師の魔法だろう」
シーファの手によるものではないと言われ、少女は首を傾げる。
彼は王宮の魔導師に自分の魔法を教えるのを面倒がっていたはず。そんな手間をかけるなら自分でやったほうが早いと言いそうなものだが。
「どうしてわざわざ?シーファがやってあげれば良いのに」
その言葉に、ブルーサファイヤの瞳がリティアを見下ろす。そして彼の大きな手が、少女の背に流れる、珍しく下ろしているストロベリーブラウンの髪を一房摘んで、唇を寄せた。近づいた端正な顔に、リティアの心臓はドキンと大きな音を立てる。
「お前を口説く以外で、俺はあの魔法は使わない」
「──っ!」
思わず息を飲んでしまって。それからみるみるうちにリティアの頬は真っ赤に染まる。
ズルい。そんな綺麗な顔をして、そんな甘い仕草をして、そんな熱のこもった言葉を言われたら──確か以前にも、『口説くのに魔法を使うのはリティアにだけだ』と言われたことがあった。
こんな時のシーファは、本当にタチが悪い。気障な台詞を照れも躊躇いも無く、真っ直ぐにぶつけてくる。しかも彼の一人称が『私』から『俺』に変わるのは、本音を言う時の癖。恥ずかしさに顔を背けたいのに、彼がキスを落とす髪から目が離せない。
「……本当に、お師匠さまは無駄に男前なんだから……」
「無駄ではないだろう。現にお前が堕ちてくれる」
艶やかな流し目にクラクラしそうになるのを、なんとか堪えて、リティアはバルコニーへと視線を向ける。バルコニーの新郎新婦の繋いだ手──その指に青いリボンが結ばれていた。
結婚が認められた夫婦の左手の薬指に青いリボンを結び、初夜に月の光の下でそのリボンを解き、代わりに結婚指輪をはめるという、セインティアの古い習わしに沿っているのだろう。その鮮やかな青に、リティアは自然と頬が緩むのを感じる。
民に手を振っているセイとディアナ、アランとセアラの姿は幸福そのもので。今まで彼らと共に乗り越えてきた苦難が報われたと、胸が熱くなった。
「良かったですね。本当に、皆さん幸せそう」
「そうだな」
大切な友人たちの晴れ姿に、シーファも嬉しそうに呟く。そしてふと、リティアを見つめた。
「……いつか、お前も」
「え?」
思わず、と言ったように落とされた言葉を聞き取れずに。弟子の少女は首を傾げる。師はフッと微笑んで、彼女を引き寄せた。
「……いや。ラセインの押しの強さに比べたら、私もまだまだだなと思っただけだ」
「どこがまだまだですか。それ以上フェロモン垂れ流さないで下さい。……他の女性が寄って来ちゃったら困ります」
顔はバルコニーへと向けたまま、けれどリティアの耳は真っ赤になっていて。それに気づいたシーファは、喜びと彼女への愛おしさに微笑んだ。
「ならば私を束縛すればいい。私がこうするように」
サラリと溢れたリティアの髪の一房に、シーファは魔法を掛ける。ストロベリーブラウンの髪が緩やかに編み込まれ、その先にリボンが結ばれた──鮮やかな青いリボンを。
そして魔導士は彼女の頬をひと撫でして、バルコニーの友人たちへと視線を向ける。
「……え?あ、あの、これって」
戸惑いながらリティアが自分の髪に結ばれたリボンに触れ、それからセイとディアナ、アランとセアラの手に輝く青を、交互に見て──真っ赤になって絶句した。
自分の意図が正しく伝わったことに、銀の魔導士は満足げに頷き、リティアの胸に秘石封じの魔法を掛ける。
「お仕置きタイムだ、馬鹿者め」
言葉とは裏腹に、ひどく柔らかで優しい声で、彼の唇が少女へと降りてきた。温かな感触が唇に触れる前に、リティアは瞳を閉じる。
このキスが終わったら、シーファの髪にも青いリボンを結んでやる、と照れ臭く、甘い野望を隠しながら。
**
婚礼の儀と国民へのお披露目を終えて、王宮では盛大な宴が催されていた。今日ばかりは臣下も入り混じって、共に喜びを分かち合っている。王太子であるセイとその妻であるディアナは、賓客への挨拶に忙しく動き回っていた。
「ちょっと休憩にしましょうか」
しばらく経つと、セイがそう言い、ディアナを連れてひと気の少ないバルコニーへと出る。彼女の背に片手を添えて、その顔を覗き込んだ。
「疲れた?」
優しく細められたアクアマリンの瞳に、ディアナは胸を高鳴らせて彼を見つめ返す。笑みを返して首を横に振った。
「大丈夫よ」
「何か飲み物を取ってくる。ここにいて」
その頬に触れて、王子は広間へと戻っていく。彼の背を見送りながら、ディアナは頬を押さえて息を吐いた。
あまりにも盛大に祝われて、未だに実感が湧かない。けれどセイの、これでもかというほど優しく、甘い視線と柔らかで近くなった口調に、どうしていいかわからないほどに気恥ずかしく──それ以上に幸せを感じているのは間違いない。
手すりから外を見れば、きらきらと光る精霊がたくさん空を舞っているのが分かる。国中の浮かれた空気を感じているのか、楽しげにディアナへと近づいてくるものもいて。それに手を伸ばしたとき──
「あなたはやはり、精霊に愛されているのだな、月の女神」
掛けられた声に、彼女は弾かれたように振り返った。目の前に立つ男性を見て、顔に驚きを浮かべる。
「ヴァイス様。いらして下さったんですか。もうお加減は宜しいんですか?」
キャロッド公国公主、ヴァイス──レイトとリルディカのかつての主。ドフェーロ皇国の侵攻に遭って、大怪我をし、静養していたはずだ。ディアナの問いに、ヴァイスは頷く。
「もう完治した。ご心配をお掛けしたな。しかし──」
彼は言葉を切って、広間を振り返った。視線の先にあるのは、セインティアの騎士達に囲まれ、親しげに酒を酌み交わしているレイトと、その側でリティアと笑い合っているリルディカだ。
「つくづくあなた方には感謝せねばなるまい。──あんな顔をするようになったとはな」
リルディカのことか、レイトのことか、あるいは二人共なのか。公主は口にはしなかったが、ディアナは深く微笑んだ。
「私達は何も。彼らが自分自身で努力した結果です。ただ私は、二人がこの国に居場所を見つけてくれたことを嬉しく思います」
そう言って、穏やかな瞳をする女神を、ヴァイスは楽しげに見つめる。
「しかしラセイン王子とあなたも、かの皇帝に相当痛めつけられたのだろう?よく退けられたものだ」
話しながら彼はディアナの隣へ歩み寄り、悪戯めいた瞳で語りかけた。冗談混じりに言うが、彼は直接ドフェーロの皇帝と戦っている。その強さも恐ろしさも身に染みているはずだ。ヴァイスは彼女の手を取り、その甲に唇を寄せた。
「さすがは戦いの女神。我が手にできなかったのがつくづく悔やまれる」
「──ヴァイス殿、私の妻に色目を使われては困ります。今日婚礼を挙げたばかりだというのに」
彼の唇が触れる前に、割り込むように落とされた声。見れば飲み物を手に戻ってきたセイが苦笑しながら立っている。ディアナは知らず知らずのうちに緊張していた身体を解いて、彼へと微笑んだ。挨拶にしては意味深な公主のキスを、受けて良いものか迷っていたのだ。セイは彼女への飲み物を渡しながら、そのこめかみに軽く口付ける。
「復帰されたようでなによりです。相変わらずですね」
咎めるような王子の視線に、ヴァイスは豪快に笑った。
「そなたも相変わらず、独占欲の塊だ。王子に飽きたらいつでもお待ちしている、月の女神」
軽く杯を上げて、彼なりの祝福の言葉でヴァイスは宴の間へと戻っていく。それを視線だけで追いながら、ディアナは自分を見つめるセイへ微笑んだ。彼は妻を抱き寄せて、その耳元へ囁く。
「結婚しても、油断できないな。あなたは魅力的すぎる」
「あなたこそ」
掛けられた言葉に照れるよりも、つい反論してしまった。
何故なら宴の席で、様々な国からの使者と挨拶をしたが、その中には若い娘を連れた貴族も大勢いたのだ。その大半はセインティア王の一目惚れの体質など知らず、たとえ知っていてもあわよくば娘をセインティア王太子の側妃に、もっと言えば平民出身の女神に成り代わろうという思惑が、ありありと態度に出ていた。
もちろんセイはやんわりと、けれどはっきりと拒絶する。ディアナしか目に入らないといった態度を崩さず、今のところ他国の貴族たちは引き下がる羽目になったのだが。
「ああ、ヴァイス殿の言う通りなのは癪ですが、僕はもうあなたを独り占めしたい」
グッと腰を引き寄せられ、見つめてくるアクアマリンの瞳に、ディアナもなんだかんだと苦笑するに止めて。
形のよい唇が近づくのを、そのまま受け入れた。
「抜け出そうか、ディアナ」
「いいの?主役なのに」
冗談のように口にしながら、本気だと示すように、セイの腕に力がこもる。
「部屋に行こう。二人きりになれるところへ」
熱を込めて囁かれた言葉にも、月の女神はそっと頷いたのだった。
王宮の廊下を、二人で密やかに歩く。セイにも、もうディアナにとっても自分の家だというのに、まるで誰かから隠れるように。
クスクスと笑みを交わしながら、セイがディアナの手を引き、あるいはディアナがセイの手を引き、警備の兵士や女官達を、精霊さえも彼らを見つけられないようにと。そうして二人のための部屋に入ると、もつれるように、ダンスを踊るように、どちらも手を伸ばして抱き締め合って、唇を重ね合いながら部屋の奥へと進んだ。
寝室の扉を開けたのはディアナの手か、セイの脚か。それも分からないまま、セイはディアナの身体を横抱きに抱き上げる。
「きゃ」
「大丈夫、落としたりしない」
驚きに小さく声を上げた彼女に、王子は片目をつぶってみせた。
寝室は最初から用意されていた小さな柔らかな魔法の灯りと、窓から射し込む月の光で淡く照らされているが、彼は明かりをつけることもせずに大股で部屋を進む。寝台に腕の中の妻をそっと下ろすと、その紫水晶の瞳を覗き込んだ。
「綺麗だ」
まるで星を見つけた子供のように。無防備に笑うセイに、ディアナが微笑む。
「それ、あなたにそのままお返しするわ」
彼の頬にそっと触れて、笑み混じりで言う彼女。その指には鮮やかな青いリボンが結ばれたままになっていて、セイはその手をそっと掴んで引き寄せた。
王子が懐から出したのは小さな、けれどとても美しい装飾のされた箱。二人で寝台の上で向かい合って座ったまま、それを開ければ。
「──綺麗……」
中にあるのは対の指輪──結婚指輪だ。
金の台座に美しくカットされたアクアマリンとアメジストが寄り添うようにセットされ、その周りを精霊の光が尾を引いているかのように、小粒のダイヤモンドが散りばめられている。一目でラセイン王子とディアナをイメージしたと分かる、繊細で美しいものだ。セイはそれを見つめて、口を開いた。
「結婚の印に互いの左の薬指に指輪をするのは、異世界から伝わった文化だそうだよ。歴史の中で色々混ざって、セインティアでは結婚式の夜に、青いリボンから切れない金の指輪へと変えれば、二人の仲を精霊に祝福されし永遠のものと約束する、って言われているけど──」
王子は女神へと微笑む。
「だけど本音は、あなたが僕の妻だと周りに知らしめる、独占欲の現れかもしれないな」
セイは妻への指輪を手に取ると、寝台から降りて跪いた。寝台の端に座る月の女神の手を取り、その青いリボンに口付ける。
「ディアナ、僕の愛しい月の女神。あなたのおかげで僕はこの瞬間、今まで生きてきた中で一番幸せを感じてる」
言葉が終わるその唇で、リボンの端を咥えて引っ張ると、シュルリと音がしてディアナの指から青いリボンが落ちた。無くなったそれの代わりに、そっと金色の指輪をはめる。華奢な指にぴったりとはまったそれを見つめて、満足げに妻を見上げ、言葉を継いだ。
「ちなみに2番目は婚礼の間で僕の妻になると宣誓してくれた瞬間。それから初めてあなたからキスをしてくれたとき。あなたが愛していると言ってくれたとき、あなたが初めて僕の前で泣いてくれたとき、それから」
「……ずいぶんあるのね」
終わらないセイの『人生最良の瞬間』を挙げられて、さすがにディアナが照れながらも呆れたように呟けば。
「あなたが僕の前に現れたとき」
真剣な表情で告げられたひとことに、身体中の熱が上がった気がした。セイの瞳に映るディアナはきっと真っ赤な顔をしている。けれど視線をそらせずに女神は夫の手を取った。特別な作法はないとはいえ、セイのように大胆なことはできず、片手で彼の青いリボンを引き抜く。そして同じように彼の指へと結婚指輪をはめた。
「私もいま、一番幸せだわ。それにあなたとなら、これからもっと幸せに感じる瞬間が増えていくに違いないもの。
──でも」
言葉を切って、ディアナは夫の手を両手で包み込む。
「私もあなたと初めて出会ったときのことは、大事な宝物」
絡め取られた指先は、お互いの指輪を探って。月明かりの下で、唇が重なった。




