彼の願い、彼女の望み
自分を包んでいた温もりが消え、白い光がだんだんと収まると、ディアナは目を開けた。そして周りの景色が一気に変わっていることに気付く。
そこは深い森の中だった。彼女が暮らしていたセレーネの森に良く似ているが、目の前には巨大な樹がそびえ立っている。
「これ、は──」
幹はディアナが一周するのにも数十分はかかるかと思われるほど太く、しかし幹も枝も葉も真っ白で、木漏れ日から差し込む光に輝く様は、まるで雪の城のようで。美しいがどこか哀しさも感じられる。
思わず茫然とそれを見上げてしまっていたディアナだったが、ハッと気付いて辺りを見回した。
「セイ?」
先程まで傍に居た彼を呼んでも応えは無い。それでももう、不安は感じなかった。彼はディアナを想ってくれている。どこにいようと、彼の元へ帰り着いてみせる。
「これが、リベルザの本体、なのね」
地に植えられた巨大樹。どんなに枝葉を伸ばしても、決して夜空に還ることはできない存在。かつて女神の傍で生きていた精霊は、どうやっても彼女に触れることの出来ないものにされてしまったのだ。
「かつて私は、常に女神の傍らにあった」
響いた声は、月の精霊のもの。見上げると、幹の間の大きく空いたうろにリベルザが座っていた。白い樹の玉座のようなそれは、彼を幻想的な迄に美しく彩っていたが──やはり虚しさばかりが目につく。
「けれど月の女神は地上に降り、人間を庇護し、あまつさえ彼女を護衛していたフォルディアスを愛した。ただの人間の騎士を」
それを許せなかったリベルザは、天の神々に密告した。女神は人智を超える力を持つが故に、人間には干渉してはならない掟があった。たった一人に肩入れするなど、恋仲になるなどもってのほか。そして月の女神は他の神によって天に連れ戻され、二人の仲は引き裂かれたのだ。けれどリベルザは、それだけでは飽き足らなかった。
「セインティア王国も、他の人間も許せない。私はフォルディアスや女神に護られていた人間共を殺そうと魔物を放った」
フォルディアスは初めの王として民を護りつづけ、ついには王位を弟夫婦に委ねて死んでいった。それを知った女神はリベルザを拒み、彼を地上に堕としたのだ。
「私はどうすれば良かったのだ。ただ女神を愛していた。月の民としてお傍に居たかった」
リベルザの白い睫毛が震える。その痛々しく吐き捨てられた言葉に、ディアナは眉を顰めた。
「私だけの女神に、なって欲しかったのだ」
精霊は自分の欲求に素直だ。けれど、リベルザの執着と嫉妬心は、なんと人間に近いことか。
ディアナは溜息をついて、リベルザを見上げる。まるで聞き分けの無い子供を叱るように。
「それは誰かを愛しているって言わないわ。あなたは『女神を想う自分』を愛しているに過ぎない。月の女神の幸せを奪ったって、彼女が愛したものを壊したって、あなたのものにはならないのよ。──私も同じ」
紫水晶の瞳がまっすぐに彼を射抜いて。
「セイなら、もし私が彼を拒んだとしても、全力で口説いてくれるの。心を込めて、言葉を尽くして、誠意を示して、散々に甘やかすの。彼じゃなきゃ物足りなくなるくらいに。私がもう降参するわって言うまでね」
苦笑のわりにはとても幸せそうな色を浮かべて、彼女は堂々と惚気てみせる。精霊への言葉に嘘もごまかしも要らない。セイの前だと恥ずかしくて言えないことも、すらすらと口から溢れた。
「それでも私が彼を選べなかったときは──きっと手を放してくれる。優しく、背を押してくれる。そういう人だから私はセイを──ラセインを愛しているの」
最初から、少し強引で、それでも優しくて、いつもディアナの隣に居てくれたセイ。彼なら彼女を地に引きずり落としたりはしない。並び立つ方法を一緒に考えてくれるだろう。
「私はラセイン王子のためだけの、セインティア王国のためだけの月の女神なの」
そう言って、ディアナは手を差し伸べた。リベルザが言った通り、月の者は惹かれ合う。彼女は月の精霊である彼を哀れとは思いこそすれ、憎いとは思えなかった。彼の愛情を受け入れることは出来ないが、それでも同じ月の民として、簡単に見捨てられない。彼を地に追いやった月の女神そのひとだって──彼を消滅させるのは忍びなかったのだろう。それによってリベルザがこうして歪んだ愛を持ってディアナに迫るとは夢にも思わなかったはずだ。
「リベルザ。あなたの女神には会わせてあげられないけれど、あなたを解放することは出来る。私の手を取って」
ディアナの言葉に、リベルザはうっすらと微笑んだ。その瞳の赤紫が色濃くなり、髪の先の深い闇色が白い髪を染上げてゆく。
「私はもう完全に魔物になりつつある。ここから離れれば、この樹は魔物となってセインティア王国を滅ぼすだろう」
真っ白な樹はもはやリベルザの髪と共に深い色へ変わり始め、枝が揺れて葉がざわざわと音を立てて散っていった。尋常ではない瘴気が漏れ始め、その禍々しさにディアナの額にじわりと冷や汗が滲む。巨大樹からの圧に数歩、下がりかけた身体が──不意に温かい温もりに触れた。
「大丈夫、支えます」
その声が。指を絡めるように、精霊に伸ばした手を支えてくれる腕が。思わず見上げた肩越しに見つけた、アクアマリンの輝きが──ディアナに力を与えてくれる全てが、そこに在った。
「後でもう一度、さっきの言葉を聞かせて下さいね」
こんなときだというのに後ろから囁かれた、彼の悪戯めいた甘い声音にディアナの心臓が軽く跳ねる。彼がこういう言い方をする時は、大抵がディアナが照れてしまうようなことで──
「……いつから聞いてたの」
「実は初めから。姿は弾かれたけれど、リルディカが僕とあなたの意識をずっと繋いでいてくれたので。……嬉しかった」
「──っ」
繋がれた方ではないもう片方の手が、ディアナの胸元に下がる紫水晶のペンダントを軽く撫でた。惚気も愛の告白も、本人に全て聞かれていたと知って、彼女は頬を染める。それを見て、背後で彼が微笑んだ。
「弱気なあなたも可愛いけれど、精霊を叱るあなたも素敵だな。やっぱり、前を向いている方があなたらしい」
「あ、あのね、セイ。全開で口説いてくれるのは後でいいからっ」
そっと耳に触れた唇から直接注がれる甘い言葉に、ディアナの心臓がまた飛び跳ねる。けれど今は恥ずかしさよりも、優先すべきことがあった。
「それなら、分かってるわよね。リベルザを解放したら魔物も解き放ってしまうそうよ。あの魔力の溜め込みようだと、手強そうだけど」
「あなたの望みのままに、僕の月の女神。むしろ魔物退治ならば僕達の本領発揮でしょう?セレーネでの生活を思い出すな」
『我は退魔の剣。我が主と女神を護りし力だ。雪だるまの残り物などに遅れをとるものか』
セイの言葉に、フォルレインの言葉が続く。イールに感化された精霊に、ディアナは笑みを誘われて頷いた。
そして。
闇に染まる玉座に在り続ける、孤独な精霊へと呼び掛ける。
「リベルザ、来て!」
*
月の精霊から放たれた光球を、アランは左手に握る剣で叩き斬る。二人の主をその背に庇ったまま、彼はその場を動かずに何度も同じことを繰り返していた。ちらりとこちらを見てくるシーファに、余計な気を回すなと一瞥をくれてやった。お前だって、先程のダメージから回復しきってないくせに、と。
光球をまた一つ叩き斬ろうとして、バランスを崩した身体に迫ったそれをアレイルの魔法が打ち消す。ディアナの護衛魔導士として力不足だと嘆く彼は、けれど実は上級魔導師と並んでも決して弱くはない。その魔法に先ほどから何度も助けられ、近衛騎士は短く礼を告げる。
「悪い、アレイル」
「アラン、これ以上は」
しかしそのハーフエルフもすでに満身創痍だ。荒い息を吐いているアレイルはかなり魔力を消費しているようで、彼の魔法も威力が落ちている。彼に下がるように目線で命じ、アランは剣を振った。目の奥が熱い。
いくら魔法大国セインティアでも、月の魔力は異質だ。ディアナやイールはその魔力を身に秘めていても、普段は魔法を使うことは無い。だからこそ、リベルザから放たれる月の魔法は、アランに酷く負担をかける。
「……ッ、クソ」
けれど今は、目を閉じては駄目だ。頭痛も吐き気も、集中していればやり過ごせる。今、気を抜いたら、主に顔向けできない。愛しい姫君にも──。
「明日は我らが王子と女神の結婚式だけどな、俺だって自分の人生かかってんだよ!何年もかけてやっと手に入れた金の薔薇が、俺の隣で婚礼衣裳を着てくれるんだぞ!こんなところで死ねるか、馬鹿野郎」
思いっきり私情を込めて吐き捨てる彼に、後ろからレイトが呆れを滲ませて言う。
「その前に、ラセイン王子に何かあったらセアラ姫に殺されるだろ」
「ああそうだよ!我が愛しい姫君はほんっとーに容赦ないんだからな!そういうとこもまるごと好きだけど!」
自棄になったのか惚気ているのか分からない言葉を返して、アランは剣を構え直した。こめかみから滑り落ちた汗が、地面に落ちる。けれど、見据えたその先で、リベルザの攻撃が止まった。
「……?」
いきなり変わった彼の様子に、アランは片眉を上げて月の精霊を見る。眠る王子と女神の傍に居るリルディカとイールが同時に顔を上げた。
「──王子と女神が還ってくるわ」
「──ディアナ」
ハッと一同が見守る中、フォルレインと融合したままのセイと、彼の腕の中でディアナの睫毛が震え、二人は目を覚ます。身を起こした彼女の胸元に、イールがしがみついた。
「ディアナ、ディアナ、ごめん」
「イール、謝らないで。私こそごめんなさい、心配掛けて。皆も、本当にごめんなさい…ありがとう」
震える声で謝る相棒を優しく撫でながら、ディアナは言う。それを穏やかな瞳で見守っていたセイだったが、自分の前に立つ側近に気付いてニヤリと微笑んだ。
「ご苦労、アラン」
「……無事お戻りになられて何よりです、我が君」
アランは空いている方の手を差し出し、王子はそれを掴んで立ち上がる。肩が触れたその距離で、セイは視線を合わせずに彼へ短く囁いた。
「──わがままを聞いてくれてありがとう、義兄上」
アランは苦笑して「ずるいな、あなたは」と呟くだけに留める。それに深く笑みを返して、王子は女神を抱き起こした。彼らのやり取りを見ていたレイトは、安堵にホッと息を吐いたが、ふと魔導士達が黙り込んだままなのに気付く。
「リルディカ?」
彼女は厳しい顔つきでリベルザを見つめていた。シーファとリティアもだ。アレイルが口を開く。
「──魔物の気配だ。強力で、強大な──!」
彼の声に振り返ったディアナは、湖に浮かぶ精霊を見て息を吞んだ。
リベルザの真っ白だった髪は闇色に染まり、赤紫の瞳は真っ赤に染まっている。纏っていた煌めく粒子は、吹き出る瘴気に変わっていて、禍々しさに湖の精霊達は逃げ出した。
「リベルザ……」
ディアナは握りしめていた拳を開く。その手の平に残っていたのは白い小さな小枝。
女神の手を取ったリベルザの本体はこちらだ。今瘴気を放っている姿は、彼の抜け殻であり、枷の外れた魔物でしかない。
「セイ」
自分を抱き締める青年を見上げれば、彼は大きく頷いた。
フォルレインと融合したままの彼がその剣を一振りすれば、闇色のリベルザが放つ瘴気はかろうじて彼らに届く前に霧散する。けれど膨れ上がったそれはリベルザの姿を包み込み──真っ黒な竜へと姿を変えた。ディアナの五倍ほども身の丈のあるその体躯は大きく頑丈そうで、くわっと開けられた鋭い牙の並ぶ口は、馬車程度なら軽く噛み砕いてしまうに違いない。
「このままじゃ、あの黒竜がセインティア王国を滅茶滅茶にしちゃうよ」
イールの硬い声に、王子と女神は剣を取って共に頷きあい、魔物へと向き直る。
「……よくよく竜に縁がありますねえ。暁の国の4属性の竜に、今度は黒竜とは」
アランがうんざりといったように呟き、主の隣で剣を構えた。
「さて。そろそろ帰らないと、我が姫が怒り出しますからね。速やかに退場していただきましょう」
アランの願いも、彼の恋人の望みも同じ。ラセイン王子とディアナの幸せを見守ることなのだ。明日の結婚式をつつがなく終えて、いつか王子は王となり、美しく平和なセインティア王国を護り続け、更に高めてゆく。その隣には強く可憐な女神が寄り添い、きっと二人の子供は可愛らしく、聡明な子になるに違いない。アラン達もまた子供に恵まれたなら、兄弟のように育てることができるかもしれない。
そんな未来を。アランもセアライリアも、夢見ている。
よくよく似たもの同士だよな、と。青年は凛と咲き誇る姫君を想って、人知れず微笑みを漏らした。
セインティア王国の為に。我が主の為に。俺の一番大事なひとの為に。──俺の為に。
「魔物を倒して、とっとと帰りましょう」
彼の愛する金の薔薇は、未練を残した哀しい真昼の月などではなく、明るい太陽の下か、柔らかな月の光の下でこそ輝くのだから。




