女神の心
「フォルレイン、頼む」
『ラセイン』
退魔の剣によって呼び返された名。
精霊と人との融合は簡単にできるものではなく、ましてやフォルレインは主を選ぶ魔法剣だ。だからこそこれは、セイが彼の主だと認められた、確固たる信頼の証。
フォルレインが強く輝くと、それに包まれたセイの姿が変わっていく。揺らめく水に照り返す太陽の光のように。
青と水色と金色の光が混じった、不思議な色の、流れる滝のような豪奢な髪。アクアマリンの瞳に金の虹彩の輝く瞳。ただでさえ優美な容貌は、魔力を纏って更に凄みを増して、妖しいほどに美しい。手にしたフォルレインがひときわ強く煌めいた。
その美貌に見惚れて、そして魔導士達はその魔力にも当てられて、誰もが言葉を失う。けれど──アランがふっ切るように笑って、片手を口元に当てて軽口を叩いた。
「よっ!子供に人気の変身ヒーローみたいですよ、我が君」
「……見世物じゃないんだが」
二人のやり取りに、レイトは息を吐く。
あんなに動揺していたアランの、それでも立て直せる精神力は、彼が密かに尊敬しているところだ。──本人には言いたくないが。
短くなり始めた煙草の、じりじりと焼ける微かな音を聞きながら、対峙する女神と王子へ視線を向けた。
「ディアナ」
融合したセイの姿を見たディアナは、明らかに戸惑いの光を浮かべる。
月の女神は戦いの神だが、自分の眷属に剣を向けることは無い。フォルレインの気配と混じった人間の気配は、異質なのかそうでないのか良く分からず、排除すべきものなのか判断がつかない。
けれど──
一度動きを止めてしまえば、“敵”としてしか認識していなかったものが、じわりと青年の形を伴って目の前に現れる。感じるのは懐かしい気配と、その瞳に浮かぶ自分への熱。斬り捨ててしまうことにひどく怖れを感じて、女神は迷う。セイが一歩近づくと、無表情だった顔に動揺が走った。
「あ」
「月の女神よ、惑わされてはならぬ。あれは敵」
リベルザが彼女へと鋭く言い放って、それに背を押されるかのように、彼女が剣を掴み直した瞬間──
“ダアァァンッ──!”
レイトが引き金を引いた。
魔弾銃から発射された弾はまっすぐに女神へと向かい、ディアナは迫り来る弾丸を恐れず剣で両断する──が。動揺していた女神は、鳴り響いた発射音が一つではなかったことに気付かなかった。
「ハズレだ」
レイトの囁くような甘い声が耳に入るよりも先に。斬り落とした弾丸に隠された、もう一つの弾丸がディアナの眼前に迫った。
「!」
本能的にそれを避けようとして、彼女は身体を捻る──その逃れた位置を計算された弾丸が、もう一発。弾こうとしたのか、思わず引き上げた彼女の剣に弾丸が命中するが──当たった瞬間にそれが爆発し、煙が吹き出した。
「煙幕弾か」
アランが呟く。女神の視界を遮る煙を魔法で消し去ろうと、リベルザが片手を上げるが、銀の魔導士が放った魔法弾が彼のその手に纏わり付き、それを邪魔した。
「く、小賢しい」
舌打ちせんばかりに吐き捨てる精霊に、冷たい美貌の魔導士はニヤリと微笑む。ディアナは風の魔法を纏わせた剣を大きく振って煙を巻き上げ──その身体がガラ空きになった。
そして。まるで刻を操ったかのように、何もかもがゆっくりと。
「おやすみ、月の女神」
ゴーグルの奥、亜麻色の瞳が鮮やかに揺らめき。もう一度レイトの撃った睡眠弾が彼女の胸に吸い込まれるように命中して。同時にリルディカの魔法が発動した。
女神を取り囲むように光で編まれた魔法陣が浮かび上がり、その身体に溶けるように消える。レイトは指に煙草を挟んで、唇から引き抜いた。吐き出した紫煙の向こうに、女神を抱き締める王子の姿が見える。
夢のように美しいのに、どこか哀しいのは、いつものようにディアナが彼を抱き締め返さないからなのか。
眠りに落ちる女神が最後に見たのは、優しいアクアマリンの瞳。金色の光。耳に届いた、穏やかな声。
「ディアナ、待っていて。いま、あなたを迎えに行く」
青の王子は崩れ落ちる月の女神をしっかりと抱き締め、共に眠りの淵へと堕ちて行く。草の上に倒れ込んだ二人を、湖の精霊達が護るように取り囲んだ。
「イールさん!」
高い声と共に、師の腕から起き上がった魔導士の少女がイールに向かって杖を振り、彼を捕らえていた魔法の鳥籠が霧散する。リベルザがイールを捕らえる前に、白い翼をはためかせ一気に飛び立った彼は、ディアナとセイの傍へと舞い降りた。
「ラセイン王子。ディアナはキミの傍にいる時が、一番安心した顔をするんだ。だからキラキラ王子、頼んだよ。ボクの大事な相棒を取り戻して」
彼が羽を広げると、金色の粉が二人に降り注ぐ。
「やめろ、女神は私のものだ」
リベルザがその手に魔法の矢を生み出した。眠る無防備な王子を狙って放つ。光の矢がセイを射抜く前に、滑り込んで来た近衛騎士が剣でそれを打ち払った。
「セインティア王国近衛騎士、アラン・フォルニールの名にかけて、ここからいかなる魔法も通さない。我が主に傷一つ付けさせるものか」
エメラルドの瞳でまっすぐに前を見据えて、王子の側近は剣を構える。同じくハーフエルフの魔導士が立ち上がり、両手に光の球を宿して月の精霊を睨みつけた。その隣に、銀の魔導士が不敵な笑みを浮かべ、杖を構えて進み出る。彼の弟子はストロベリーブラウンの髪を揺らして、躊躇わずに師の隣に立った。女神と王子へと魔法をかける白い鳥と共に、歌うように薄紫の髪の巫女が魔法を紡いで。彼らを護るように背に庇い、ゴーグルを掛けた青年が銃を構えた。
「さあ、お仕置きタイムだ、馬鹿者め」
シーファの発動呪文はまさに彼の心。アランがクスリと笑って、言った。
「俺は王子の犬ですから?──ラセイン様が無事にディアナ様を連れ帰るまで、しっかりご命令を全うしなきゃね」
誰もが恐れもせず、ただ、信じて。
「──我らが王子と、王太子妃の為に」
ディアナは暗い場所を独りきりで歩いていた。
自分はどうしてこんなところにいるのか。どこに行こうとしているのか、何も分からない──考えようという気さえ無い。ただ、進まなければと。それだけが彼女の脚を動かす。
やがてじわりと空気が動き、頭上に真っ白な月が浮かんでいることに気付いた。夜空で輝く月ではない。消えかけた雲のような淡いもの。けれどそれに捕まるのが怖くて、必死で逃げる。
「──あ」
何かにつまづいて転んだ。見れば足首を、真っ白な手が掴んでいる。それは真っ白な髪の青年の姿になり、座り込んでしまったディアナに覆い被さるように見下ろして来た。
『私の女神』
「いやっ。違う、あなたの女神じゃない」
白い髪の先、青いグラデーションを描くそれは闇に溶けて。まるで彼がこの闇そのものに見える。彼はディアナを愛おしげに捕らえて笑った。
『ならば、誰の?地に降りた月の民は永く生きていけない。このまま人の中に居れば、あなたは孤独だ』
「違う……私は独りじゃない。私は月の民じゃない。人の生きる地で生まれた人間なの」
咄嗟に出た言葉は、彼女自身を思い出させるもので。ディアナは首を横に振ってリベルザを拒む。
──そうだ、私は人間。
『あなたを理解し、愛することが出来るのは私だけ』
そんな彼女を柔らかな誘いで追い落とそうとする、彼の白い睫毛の奥に輝く赤紫の瞳に、ディアナはくらりと意識が揺れた。
『私の月の女神。白き月の民を護って、愛してくれるだろう?私と共に』
「私は」
──私は?
誰かの名を呼びたいのに、誰を呼ぶべきなのか分からない。もやがかかった心には、その人の姿も浮かばず。
──でも。
アクアマリンの澄んだ水色が、閉じた瞼に浮かんだ。ひどく愛おしいそれを思い出したくて、伸ばした指は虚空を滑る。
もはや逃げることさえ出来なくなったディアナに、リベルザの幻がのしかかり、その白い髪に視界を奪われて彼女は怯える。足首を掴んでいた手が、彼女の脚を押さえつけてしまえば、蹴ることも逃げることも叶わず。震える女神の唇に、精霊の唇が触れようとした──瞬間。
「──夢の中でも、図々しい」
凛とした声と──光を纏った剣がリベルザの幻を真っ二つに切り裂いた。その向こうから零れ落ちたのは、金色と水色の粒子。
「セ、イ?」
口をついて出た名に、ディアナはやっと自分を取り戻す。
──セイ。ラセイン王子。魔法大国の世継ぎの王子。誰よりも愛おしい、彼女の婚約者。ディアナの全てを愛し、受け入れてくれるひと。たった今までその姿も、その名も、どうして忘れていたのだろう。
ただ、彼の姿は──
「その姿……フォルレインと、融合したの?」
目の前にいるのは、見慣れた金色の髪の王子ではない。人間ではありえない彩と魔力に満ちた、凄みを増した美しい姿。一度だけ見たことのあるその姿に、ディアナは悲鳴混じりの問いを発した。
「私の、せい?また、私を助ける為に、命を縮めてしまったの?」
剣を持たない彼女は、華奢で可憐なただの娘で。何よりも愛おしい人が、自分の為に犠牲にしたものを感じ取って、その罪に堪えきれずに涙を零す。セイは手を伸ばして、彼女の頬に触れた。
「──フォルレインと僕は大丈夫。あなたの為ならいくらでも強くなれる」
『ラセインの命は私が護る。泣くな、女神よ』
セイの口から彼自身の声と、フォルレインの声が聴こえる。ディアナは自分に触れるセイの手に頬をすり寄せて、小さく呟いた。
「ごめんなさい……私が弱かったの。暴走なんて……月の女神は戦いの神だけど、大事な人を護る為に戦う存在なのに」
たった一度、意識の奥で会った月の女神は、戦いに染まったものでは無く、慈愛に満ちた優しい女性そのものだった。いくら力をリベルザに無理矢理に解放されたと言っても、ディアナの心がしっかりしていれば、力に溺れることなどなかったはずなのに。
「もう暴走なんてしないと、強くなったと思ったのに。思い上がっていたんだわ」
涙に引きつる喉でそう言えば、セイは軽く目を伏せて、諭すように言う。
「──リベルザは、半分魔に堕ちています。あなたの力を、歪めて暴走させた。あなたのせいではありません」
ハッと、彼女は振り返った。先程までリベルザの幻が居た、今はもう何も無い空間を見つめて。
「それでも、私の過ちよ。私、あなたにふさわしくない」
未だにリベルザの魔法の影響が残っているのか、ディアナは酷く気弱になっている。硬い声でポツリと零した女神を、王子は強く掻き抱いた。
「ディアナ、そんなことを言わないで。僕にふさわしいのは、僕を幸せにしてくれる人だ。そんなひと、あなた以外に誰もいない」
少し早口で告がれた言葉は、セイらしくもなく怒ったような色を帯びていて。ああ、傷つけてしまったと、ディアナは彼の背に腕を回す。
「あなたは僕を夢の中まで追ってくれた。今度は僕の番なだけ。ディアナ、臆病にならないで」
優しい言葉は、女神を落ち着かせた。触れ合ったところから伝わる熱も、寄りかかってはいけないと思うのに、失いたくない。相反する気持ちは、けれどディアナの正直な気持ちだった。
剣の腕は強くなったけれど、セイと出会う前よりも泣くことが多くなった。弱くなったのではなく、涙を見せられるほどに信頼する相手ができたのだと、義父や相棒に複雑そうに言われたのを覚えている。今も、こぼれた涙を彼が拭ってくれると知っているから、隠すことも止めることもしない。その代わりに、ディアナもまた、彼の涙を拭えるただ一人になりたいのだと。そう強く想う。
「……そうね。馬鹿な弱音を吐いたわ。ごめんなさい。セイが許してくれるなら、私、あなたを諦めたくない。あなたの妻になりたい」
そっと囁いた言葉に、彼の唇が重なった。愛おしいと、何よりも彼の想いを伝えるキスに、ディアナの瞳からまた涙が溢れる。セイはディアナの頬を包み込んで、そっと囁いた。
「──あなたを一目見たときから、僕はあなたを妻にすることを夢見て来たんだ。一緒に生きよう。どうか叶えて、僕の女神」
同じ言葉なのに。私の女神、とリベルザに言われたときのような嫌悪はひとかけらも感じない。それどころかディアナの胸は喜びに満ちあふれている。
「愛してるわ、セイ──私の王子さま」
もう一度、キスをしようとして──
『女神は私のものだ!』
リベルザの怒号と、白い光に辺りが包まれた。彼女を抱きしめていたセイの腕が引き離される。
「ディアナ──」




