王子の覚悟
結界が消えた瞬間に、リティアの魔法によって森の外からその場に転移した金色の髪の王子は、身体に纏わり付く魔法の残滓が消える間もなく、月の女神へと走る。
「ラセイン様!」
アランがギョッとして主を呼んだ。
シーファが結界に入ってからの会話は、彼の魔法で結界の外へも聴こえるようにされていた。ディアナが暴走していることは皆が知っている。戦いの女神に不用意に近づいてはならないことも。
けれどセイはまっすぐに自分の恋人の元へと向かい──不意を突かれた彼女が剣を振り上げる前に、その身体を抱き締めた。
「ディアナ」
彼女は一度大きく目を見開いたが、近すぎる間合いに剣を振るえず、彼の腕の中でもがき──。
『ラセイン!』
フォルレインの警告に、セイは咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
「……!?」
ディアナが握っていた長剣が、短剣に変化している。
ベルフェリウス公爵に操られていた時とは明らかに違う。ディアナは魔法を使えなかったはずだというのに、明らかに彼女の意志で剣を変化させたのだ。
「これは……」
驚愕するセイに、リベルザが口を開く。
「これこそ月の女神の力だ。ちっぽけな人間風情の器に収まらず、真の力を解放するがいい」
喜色を浮かべる精霊を、青の王子は厳しい目で睨みつけた。膨れ上がる怒りを孕んだ声音で、吐き捨てるように呟く。
「ディアナは人間だ。無理矢理に拓いた力など彼女に負担をかけるだけだ」
王子の非難にもリベルザは動じない。作り物めいた白い美貌でゆったり微笑んだ。
「それも、すぐ無くなる。器を捨てれば彼女は真の女神となれる」
「ラセイン王子!そのまま月の力を使わせ続けたら、ディアナが壊れちゃう!月の魔法はディアナには耐えられないんだよ!」
彼の言葉にイールが叫んだ。
本来、適正の魔力以上の力を使おうとすれば、命を削ることになる。魔法使いであったクレスは、まだ制御の仕方を知っていた。けれどディアナはいくら月の女神の末裔とはいえ、人間だ。しかも魔導士ですらない。ならば彼女が今使っている魔法は、生命力から転換した魔力なのだ。
「今のディアナは自分が無理をしてるのがわからないんだ!ラセイン王子、ディアナを止めて!」
操られているだけなら、彼女は自分の実力と経験での戦いをする。“ディアナ”として。
けれど月の女神の本能を引きずり出された彼女は、自分がヒトであることすらもう意識していない。たとえ傷を負ってもそれが死に繋がるとも思わず、ただ剣を振るうことしか考えていない。
「シーファ、頼みます」
「ラセイン、そのまま押さえておけ」
王子の声にシーファが杖を振り、ディアナへ睡眠魔法を使おうとした。しかしわずかに眉を顰めてその場に片膝をつく。
「シーファ!」
「お師匠様!」
リティアが慌てて師へと駆け寄った。
先程、彼は自分を巻き込んでディアナへと攻撃魔法を使った。皮肉にも絶大な魔力を持っているが故に、それが彼にもかなりのダメージを与えたのだろう。
「リティア、お前がやれ」
「はい!」
師の言葉に、弟子の少女は頷いた。彼女の杖を取り出して、呪文を唱えようとし──それを見たリベルザが片手を振り上げる。
「リティア!」
「きゃああっ!」
空気を切る音とともに、魔法弾が魔導士へと撃ち込まれた。リティアは吹っ飛ばされ、彼女を庇って抱き込んだシーファごと木に叩き付けられる。
「シーファ!リティアさん!」
彼らを案じ、そちらへと視線を向けたセイに隙を見つけたのか、ディアナの片脚が彼に向かって振り上げられた。思わずそれを避けたために、セイは彼女の腕を放してしまう。離れたその瞬間に、ディアナはまた短剣を長剣へと変化させて、それを王子へと振り下ろし──
──ガキンッ!
セイの額を切り裂く前に、横から滑り込んだ剣がそれを阻止する。エメラルドの瞳が強い色で女神を見つめていた。
「我が君の足癖の悪さを真似しちゃ駄目ですよ、ディアナ様」
「……アラン」
息を吐くセイの目の前で、ディアナの剣を止めて居たのは、王子の側近で。彼はニヤリと笑ってみせるが、その手には相当な力がかかっているのか、わずかに口元が引きつる。
「ちょっとラセイン様、さっさとキスの一発でもかましてディアナ様を止めて下さいよ。得意技でしょうが」
「できるものならやっている」
近衛騎士の軽口に王子は早口で答えたが、そこに含む意味をアランは正確に読み取った。
つまり──魔法を解くようにはいかないのだ。暴走自体は誘発されたものでも、今動いているのはディアナの意志だ。何の魔法でもないし、シーファがやろうとしたように意識を失わせるしかないのか。
「マズいっすよね。ただでさえ無敵の女神様ですよ。どうやって止めます?」
アランの言葉に、セイはリルディカへと視線を走らせた。
「暁の巫女」
倒れたシーファとリティアへと回復魔法を掛けていた薄紫の髪の巫女は、その呼び方で王子の意図にハッと目を見開く。巫女としての彼女の能力はもともと意識に働きかけることだ。ディアナの意識に入り込んで、暴走を止めさせることが出来るかもしれない。リベルザに悟られぬように、その名だけを伝えてきた王子に、理解したと深く頷いてみせた。
「レイト」
彼女が傍らの青年へ呼びかければ、彼もまたセイの考えを察したのだろう。レイトはゴーグルを装着して、煙草を咥えた。
「任せておけ。ディアナに隙を作る」
腰のホルスターから魔弾銃を引き抜いて構える。未だ起き上がれない弟子を抱えたままのシーファが、苦く微笑んでパチンと指を弾くと、彼の煙草に火がついた。それに口の端を上げ、立ち上る紫煙越しに、レイトは月の女神へと照準を合わせる。
友人を撃つのは気が進まない。煙でその姿が薄れるくらいが──迷わずに済む。
「全く。損な役まわりだよな」
アランに打ち返された剣の間合いから、跳んで下がったディアナの傍へ、リベルザがふわりと降り立った。彼女へと微笑みかけて言う。
「ディアナ、あなたを愛している。我が伴侶に。白き月の女神となれ」
その言葉に──王子が切れた。
「黙れ、痴れ者が」
リベルザへと放たれたフォルレインの炎が、ゴオッと音を立てて彼の頬すれすれを通り過ぎていく。白い髪が一房、焼き切れて落ちた。
「そのひとは、明日僕と結婚する、誰よりも愛おしい大切な僕の婚約者だ。彼女が一番恐れていたことをさせておいて、愛を語る資格など無い。恥を知れ」
低く唸るように一言一言を絞り出す王子は、冷たく燃えるような氷の瞳で月の精霊を睨みつける。その迫力に気圧されたように、リベルザはわずかに顎を引いた。
「……ああ、気に入らない。まるでフォルディアスそのものだ。私から女神を奪ったあの人間」
ぼそりと呟かれた言葉に、セイはリベルザへと言い放つ。
「残念だが、僕はかの青の聖騎士よりも狭量だ。ディアナを無理矢理奪おうとするお前を、彼女の意志を尊重しようともしないお前を、このまま許す気はない」
そして抜き放った退魔の剣は、うっすらと赤く輝いていた。セイはそれを見て「なるほどな」と、呟き、リベルザへと侮蔑の色を深めて視線を向け直す。
真っ白から紫へと変わる髪。雪のような睫毛。赤紫の瞳──赤く染まった、紫の瞳。
「……女神に追放されて、もはや魔に染まったか」
赤い瞳は魔族のしるし。
リベルザが月の民ならば、本当はディアナやクレスと同じ紫水晶の瞳であったのだろう。けれど彼は白い月に堕とされ、月の女神を得る妄執に取り付かれ、魔物に近い存在になってしまったのだ。
「たとえ魔になろうとも、私は月の民だ。月の女神たるディアナが私を攻撃することはない。彼女は私と共に月に還るのだ」
リベルザは悠然と微笑んで言葉を継ぐ。イールが目を見開いて震えながら首を横に振った。
「違う、駄目だ、ディアナは」
「イール」
アレイルが気遣うようにイールを見つめる。精霊である彼と、魔法の存在であるイールには分かるのだ。リベルザは、人間であるディアナを壊して、連れ去ろうとしている。
「ディアナ!ディアナ、キミはボクの大事な相棒だよ!ずっと一緒でしょ!?」
今にも泣き出しそうなイールの叫びに、女神は感情の無い色を浮かべたまま手を伸ばす。クレスの月の魔法で作られたイールもまた女神の攻撃対象にはならないのか、剣を向ける様子は無い。リベルザが作った光の鳥籠に触れようとして、その手が止まった。リベルザがその手を掴んで止めたのだ。
「これはもう捨て置け。新しい鳥をあなたのために造ろう」
ディアナの紫水晶の瞳が一度、まばたきをして──。
「ディアナに触れるな」
王子の声が響いた。
「ディアナは僕の妃だ。この地で共に生きる人だ。白い月などには渡さない。それに──昼は、太陽の支配する刻だ」
アクアマリンの瞳はまっすぐに女神と月の精霊に向けられ、日の光に金色の髪を輝かせ、聖国の太陽たる王子は剣を構える。その荘厳さと美しさに、一同は息を吞んだ。セイは手にした退魔の剣の精霊へと命じる。
「フォルレイン、融合しろ」
「──駄目です!!」
悲痛な声を上げたのは、王子の近衛騎士だった。
セイの言葉を聞いたアランは、滅多に見せない、余裕もかなぐり捨てた真剣な顔で主へと訴える。
「もう二度とあなたにそんな真似はさせないと、俺は俺自身とディアナ様に約束したんです!」
退魔の剣と王子の融合は絶大な力を与えるが、セイの身体に負担をかける。以前、ドフェーロ皇帝からディアナを取り戻す為に彼がそれを行ってから、アランはずっと己の力不足を責め続けた。
もう二度と、あんな思いはしたくない──させたくない。
「アラン」
「あなたは聖国の世継ぎの王子なんです!寿命が縮まるような行為を、そう何度も俺が見逃すとでも!?ディアナ様だって、後で知ったらきっとご自分を責める!それくらいなら俺に命じて下さい。俺が命を掛けて、あんな雪だるま野郎、ぶちのめしてぺちゃんこにしてディアナ様を取り戻します!」
「アラン」
「俺に死ねと!あなたはそう命じるだけでいい!俺はあなたの近衛騎士だ!俺の命はあなたのためにあるんだ!」
セイの宥めるような声も聞かずに、アランは言い募る。王子は血相を変えて詰めよる側近の肩を掴んで、鋭く言った。
「アラン、聴け!」
「……っ」
自分の叫びを遮った王子に気圧されて息を吞む彼は、縋るように主を見つめる。セイは強い瞳でアランを見つめ返してから──口を開いた。
「いくらお前と僕でも、今のディアナとリベルザを同時に相手にするのは難しい。このままディアナに月の魔法を使わせたら、彼女こそ命を落とす。時間がない。フォルレインは月の女神が造った剣だ。融合すれば僕は月の存在に近くなる。彼女は混乱して戦えなくなるかもしれない」
切々と語られる言葉は、アランも理解している。それしか手段が無いと、わかってはいる、が──。
なおも納得しない近衛騎士に、セイは言葉を継いだ。
「……それに僕とフォルレインの同調率はほぼ完璧だ。寿命を削ることも、もうほとんど無い」
「……ほとんど、って」
ゼロじゃないじゃないか。
アランはそう言いたげに繰り返した。情けない声音だと自覚しているのだろうがどうしようもない。それでもセイは躊躇うこと無く真実を告げる。
この義兄を誤摩化すことなど出来ない。どんなに苦しいことでも、アランには嘘をついてはならないのだ。主として。彼の忠義と信頼に応えるために。
以前に寿命を縮めたことで、アランにトラウマを残していたことは気づいていた。そのせいで彼が自分の命を省みずにセイを護ったことも。それが近衛騎士たるアランの仕事だとしても、痛々しいほどに。
それでも、セイは耳に優しい嘘などつくつもりはない。自分の臣下を信じていると、示す為に。
──それが聖国の王子、ラセインとしての矜持だ。
「すまない、アラン。僕は決めたんだ。ディアナを決して失わないと。愛してるんだ、誰よりも」
そのためなら、何でもする。たとえ彼女自身が泣くことになっても。
「リルディカとレイトに、ディアナの意識に干渉して貰ったら、僕は彼女を迎えに行く。──イール、僕をディアナの夢に送り込んで下さい。あなたにしか出来ない」
王子の言葉に、イールはハッと顔を上げた。潤む瞳でしっかりと頷く。セイはそれを見てから、アランへと視線を戻した。
「アラン、その間を頼む──僕を護れ」
それは、何よりも。信じている、と想いを込めた命令。
王子の覚悟に、近衛騎士は諦めたように目を閉じた。かすれた声で呟く。
「頼むから、ご自分を大切にして下さいよ……少しは弟らしく、おにーさんの言うこと聞いてくれてもいいでしょうよ、我が君……」
「お前こそ、死ねなんて僕に命令させる気なのか。それこそ僕が姉上に殺される」
セイはそこでやっと目元を和らげて、アランに微笑んだ。アランの肩を掴んでいた手を放して、ポンと軽く叩く。アランもまた、苦笑して剣を構えた。
「──すみません、取り乱しました。もう大丈夫です。ウチの女神様を取り戻しましょう」
二人のやり取りを聞きながら、リルディカは魔法を唱え始める。隣でレイトが引き金に指を掛けたのを見て、その瞬間を待つ。視界の隅で、酷く穏やかな顔をしたシーファが見えた。
──ねえ、ディアナ。聴こえている?
皆があなたを待ってる。
還って来て。




