女神を恋う者
どんどん強くなる自分の中の女神の力。それを感じなかったわけではない。
けれどそれさえも、彼女の周りの者達は受け入れてくれている。何よりも愛おしいと、妻に望んでくれるセイがいる。
だからこの地で、魔法大国セインティアで生きることを決めたのだ。
「私は人間よ。それに明日、この国の王子と結婚するの。私を誰よりも理解してくれて、想ってくれている人と。だからあなたの申し出は断るわ」
はっきりと告げた彼女に、リベルザは眉を顰めた。ピクリと動いた彼の手に気づき、アレイルが攻撃魔法を纏わせた手で払うように、彼女と精霊の間に割って入る。
「ディアナはセインティアの王太子妃だ。俺にも不本意だがな。お前の出る幕じゃない」
アレイルの魔法が地面を穿った。まるでここから近づくなとばかりに線を引いて、リベルザを下がらせようとする。
「人の地に囚われた月の女神よ。あなたを真に理解する者は私だ」
その言葉と共に、精霊はアレイルへと手を振り上げた。
「!」
ビュンッ──!
空気を切る音と共に、無数の光の矢が彼へと放たれ、アレイルは息を吞んで攻撃魔法をぶつけて相殺する。破裂音がいくつも生じ、同じだけ小さな爆発が彼らの間に起こった。
「アレイル!」
「下がれ、ディアナ!」
彼女の呼びかけに護衛魔導士は応え、その手に火球を生み出して月の精霊へと放つ。リベルザを焼き尽すかと思われた瞬間──彼は片手の一振りでそれを打ち払った。
(まずい)
アレイルは密かに状況を窺う。この得体の知れない月の精霊の力は、おそらくアレイルよりも強い。そしてその傍らには、未だイールが囚われている。ディアナの安全を何よりも優先すべきだが、彼女はイールを残したまま逃げたりなどできないだろう。ならば、あの緊急煙幕で呼んだ、城からの応援を待つしか──
「それは困る」
アレイルの考えを見抜いたのか、リベルザは口元を歪めた。その手に先程よりも更に数の多い矢を発生させ、一気にハーフエルフへと──
「アレイルッ!」
「ぐ、ッ」
相殺しきれなかったいくつかの矢が、アレイルの腕や足を貫き、彼は苦痛の声を漏らした。ディアナが彼に駆け寄り、崩れかける身体を支えるが、アレイルは地面に膝をついてしまう。リベルザの放った光の矢はただの矢ではない。魔力を奪い、弱らせる毒のような魔法を含んでいた。
「止めて!彼は私の護衛魔導士よ。傷つけないで!」
「ディアナ、逃げろ」
ディアナが両手を広げてハーフエルフを庇い、アレイルはそれを止めようとするが、力が入らずに女神をただ見上げて。彼女は首を横に振って、月の民を睨みつけた。けれどリベルザは白い睫毛を瞬かせ、ふと柔らかく微笑む。
「あなたは私を拒めないはずだ。月の血は惹かれ合う」
「……こんな真似をするあなたのことを、受け入れられる筈がないでしょう。私はあなたの女神ではない。イールを返して」
言葉を絞り出すように、ディアナは言った。けれど確かに、彼女はリベルザから目が離せない。
セイに感じるような恋愛感情ではないが、自分の一部のような、妙な繋がりを感じるのも確かで。気を確かに持っていなければ、引きずり込まれてしまう──
「月の女神」
赤紫の瞳が、じわりと魔力を持って煌めいた。
「……っ!?」
理由もわからないまま、ただ。いけない、と思ったのは本能か。
それを見た瞬間、ディアナは自分の身体が一気に熱くなるのを感じ、悲鳴を上げる。
「──きゃああぁああっ!」
「ディアナ!?」
アレイルの声にも答えられず、血が沸騰していくような感覚だけを与えられて。思わず両手で自分の身体を強く抱え込む。
これを、知っている。この感覚は──力を暴走させたあの時と同じ。
随分前に、抑えられたと思ったのに。もう二度と、あんな風にはならないと。
あんな、すべてを、壊して、敵を排して、滅して、自分さえも、壊し尽くす──
「いや、あぁああっ!」
怖れに悲鳴を上げ続けるディアナに、リベルザは満足げに微笑んだ。優しく、けれど残酷に囁く。
「月の女神、戦いの女神の本能を解き放て。人間との繋がりなど断ち切って、私と共に来い」
抗おうと握りしめた腕の下で、彼女自身の爪が皮膚に食い込むのも構わず、ディアナは両腕を掴み夢中で首を横に振った。潤む瞳の奥でチカチカと火花のように魔力が弾けて目が眩む。そして恐怖に塗りつぶされていく。
身体の中から魔力を引きずり出される感覚は、無理矢理に支配魔法を掛けられたときにも似ている。けれど熱くなる身体とは裏腹に、心はどんどん凍り付いていき、やがて怒りも痛みも感じなくなる。
頭を支配するのはただひとつ──戦うこと。敵を排除することだけ。私には、その力が在る。
ディアナの胸元に揺れる紫水晶が哀しげに煌めいた。
*
「……ディアナ?」
いま、ディアナの悲鳴が聴こえた。
イールは微睡む意識を必死で浮かび上がらせ、やがて目を開ける。白い羽を広げれば、魔法の網が絡み付いた。
──ああ、ボクは月の精霊に囚われたんだっけ。
異様な力に急いで城に戻ろうとして──その瞬間にこの網によって捕らえられ、リベルザの手に堕ちたのだ。
クレスの記憶を持つイールには、あの精霊がどんな存在か知っていた。クレスは古い伝承や月の民の歴史をよく調べていた。精霊達を通して月の魔法にも詳しかった。だからこそ、確信している。
あいつをディアナに近付けては駄目だ。そう思ったのに、捕まっちゃうなんて。ボクはいつもそうだ。ディアナの足手まといになる。悔しくて、視界が滲んだ。
「あぁああっ──、……」
次の瞬間、イールの耳に聴こえたのは相棒の悲鳴と、それが唐突に途切れた吐息。彼は目を剥いてそちらを見て──湖のほとりに立つ彼女の姿を目にした途端、背筋がぞくりと冷えた。
先程までの悲鳴が嘘のように、ディアナはまっすぐに立っていて。いつの間にか手にしていた剣をすらりと抜き放つ。紫水晶の瞳は虚ろで、けれど表情を無くしたその顔は、恐ろしい程に美しい。
人間ではない、なにか神聖な──それこそ女神のような存在。
けれど、イールの大好きな彼女は。心を無くした神などではなく。
「ディアナ……ディアナ、しっかりして!」
叫んでも彼女には届かない。焦って周りを見ても、アレイルは魔法で傷ついた身体を起こしているだけで精一杯なのか、絶望に満ちた目でディアナを見つめている。
「ディアナ!ああもう、こんなときこそキラキラ王子の出番だろ!?何やってるんだよ!」
イールが目を覚ましたことに気付いたリベルザは、その言葉に低く嗤った。
「この森に月の結界を張り巡らせた。人の力では立ち入れない。青の王子はここには来られない」
「フォルレインが居る。あれは月の女神が造った退魔の剣だ」
イールは精霊を睨みつけたが、フォルレインでさえもここには来られないことに薄々気付いている。そうでなければ、セインティア王国内で、しかもフォルディアス湖で、異変が起こった瞬間に、王子と魔導師達が転移してきてもおかしくないのだ。なのに未だここには月の精霊と、彼に囚われたイールと、誘い込まれたディアナと、彼女が連れて来たアレイルしか居ない。彼は必死で焦りを押し隠しながら、月の精霊を見つめる。
「お前の中に月の末裔の記憶があるのだろう?私は『真昼の月』だ。月の女神に並ぶ程の力を持つ者」
リベルザは余裕に満ちた微笑みで言った。イールはその言葉を追うように、ゆっくりとくちばしを開く。
「真昼の月──月の女神を得ようとして彼女に拒まれ、追放された反逆者だ。夜の世界に居ることを許されず、太陽の光に隠されながら存在する、月の民でありながら異端の力だ」
「そして月の女神の対となる存在だ。私こそが女神の伴侶にふさわしい」
真っ白な睫毛を瞬かせ、リベルザは手を伸ばした。ディアナを招くように。イールは魔法の網が食い込むのも構わずに、そこから逃れようと暴れる。
「月の女神にはフラれたんだろ!?ディアナはお前の女神じゃない!しつこいと嫌われるよ、この雪だるま!」
イールが付けた真っ白な精霊の渾名に、アレイルは片眉を上げた。言い得て妙だ。けれど彼の罵倒にもリベルザは動じない。ディアナへと微笑みかける。
「さあ、月の女神。私と行こう」
「それは困る。彼女は私の大事な友人の、最愛にして最強の奥方だ。つまらないちょっかいは身を滅ぼすぞ」
低く艶めいた声がその場に響き渡り──銀色の光が現れた。アレイルとイールは彼の声にパッと顔を上げる。
「ギラギラ魔導士!」
「シーファ!」
銀色の髪を靡かせて現れたのは、白い杖を持つ美貌の大魔導士。ブルーサファイアの瞳が精霊を射抜いた。
「なぜ……!月の民以外は入れぬはず」
驚きの表情を浮かべたリベルザは、シーファへと問う。彼はにやりと笑って──杖をくるりと回し、身体の前に構えた。
「何故なら、私が強大な力を持つ大魔導士だからだ。ついでに言えば、私は物知りでな。ズルをする方法などいくらでも知っている」
掲げたその手には、ディアナがリルディカに与えた、ムーンストーンの指輪がはまっている。クレスの遺品にして、月の力を秘めた魔具だ。その月の力で結界を通り抜けたのだろう。
「結界の外でラセインが今にも暴走しそうになっているからな。さっさとケリをつけよう──お仕置きタイムだ、馬鹿者め!」
バシュッ、と乾いた音を立てて。シーファの放った雷撃魔法は、リベルザに届く前に、横から振り下ろされた鋭い剣によって打ち消された──月の女神によって。
やっとのことで立ち上がったアレイルも、網の下でもがくイールも、魔法を放ったシーファでさえも、目を疑う。
一同の前で、細かく纏わり付く稲妻を振り払って、ディアナは剣を構えた。シーファを見据える紫水晶の瞳には温度が無い。
ハーフエルフは美しき戦いの女神から目が離せない。目の前の彼女はアレイルが恋焦がれた女神そのものだ。けれど、先ほどまでの彼女の悲鳴を覚えている。
「シーファ、ディアナはそいつに暴走させられてる」
「なんだと……?」
アレイルの硬い声に、銀の魔導士は怒りを浮かべて月の精霊を見た。彼もまた、戦いに溺れるのはディアナの望みではないと知っているために。
「お前は、ディアナの意志を歪めたのか」
「真の彼女を解放したと言って欲しいものだな」
彼の視線などものともせず、リベルザは喜色を浮かべてディアナへと口を開く。
「さあ、月の女神。私以外は皆、あなたの敵だ──滅せ」
その言葉に、女神が地を蹴った。




