白い月
一方、ディアナはセアラ姫と共に、最後の衣装合わせをしていた。
「まさかわたくしの婚礼用のドレスまでこっそり作っていたなんてね」
セアラ姫はおなじみの王族御用達デザイナー、リエンカに微笑みかける。彼女と弟子達は顔を見合わせてクスクスと笑った。
「もともと式典用のドレスをあつらえる予定でしたからね。姫様にお見せしていたのは、もっと簡易版にしたデザイン画でしたの」
彼女達もまた、ディアナとセイの楽しい秘密の共犯者だったのだ。リエンカはうきうきと手元を動かしながら、セアラ姫と並んでいるディアナを見つめる。
「まあ、やっぱり素敵ですわね。きっとラセイン様と並んだら更に素晴らしく映えますわ」
花嫁達はまだそれぞれの花婿の衣裳を見ていない。もちろんデザイン画には目を通しているが、実物はまだ目にしていなかった。当日までのお楽しみだとリエンカが隠しているのだ。
同時に花婿達にも、女性陣の衣裳の全てを知らせてはいないのだと言う。けれど彼女の素晴らしい腕は知っているし、ましてやあの、ただでさえ人目を引く容姿の持ち主達だ。きっと格好良いに違いない──とディアナは密かに思っている。
「むしろセイが素敵過ぎて、花嫁の私が負けてしまうかもしれないわね」
と半ば本気でディアナが呟けば、セイに、
「そんなわけありません。あなたが誰よりも美しく可憐に決まっているじゃないですか」
と、甘ったるさ全開で囁かれる羽目になったのは一度や二度ではない。
「さあ、ディアナ様。今度はこちらね」
リエンカがひらりと翻したのは、フリルとレースがたっぷりとあしらわれた、真っ白なドレス。けれどその柔らかでうっすらと輝く布を受け取り、手元で広げて、ディアナは凍り付いた。
「リ、リエンカさん、これ」
「「「勝負ドレスですわ」」」
リエンカと弟子達の声が揃う。
いわゆる初夜の為のナイトドレス──美しいし可愛らしいが、肌が透かし見える素材で出来たそれ。
「まあこの透け具合ったら完璧ですわ。エロ可愛い!」
「このフリルの重ね具合も素敵でしょう?一番美しくチラ見せできますわよ」
「ちょ、ちょっと、待っ……!」
あけすけな彼女達の話が盛り上がり始め、ディアナは頬を真っ赤に染めて慌てて止めようとする。繊細なレースも、生地も最高級品で、デザインも上品でディアナの魅力を最大限に引き出すものではある。お針子達はむしろうっとりしながら見つめているけれど。それを着てセイの前に出ることを想像するのさえも恥ずかしい──すでにそれ以上に何もかも曝け出していても、だ。
未だにこういう方面に免疫の無い彼女に、セアラ姫がクスクスと笑って囁いた。
「ラセインはどんな衣裳でもあなたにメロメロでしょうけどね。楽しみを一つ増やしてあげるのも悪くはないわよ」
「セアラ姫っ」
心底困った顔で慌てる女神を、金の薔薇は楽しげにからかって。ディアナはむう、と赤い頬を押さえながら、何か思いついたようにパッとリエンカ達を見た。
「セアラ姫のは?」
せめてからかい返してやろうと問うた彼女に、リエンカが満面の笑みで衣裳箱からもう一枚ナイトドレスを広げてみせた。
「こちらですわ、さあ!感想をどうぞ、月の女神!」
「……ごめんなさい」
先程よりも更に真っ赤な顔で、ディアナは俯いて。衣裳部屋にはしばらく楽しげな女性達の笑い声が響いていた。
衣装合わせと、いくつかの打ち合わせを終えると、ディアナはアレイルを呼んで問う。
「アレイル、イールを見なかった?」
「朝の散策に出る時に挨拶はしたが──まだ戻らないのか?」
ハーフエルフの青年は戸惑いながら答え、窓の外を見た。天気も良く、特にいつもと変わりない平和そのもののセインティアの風景が広がっている。
「さすがにちょっと遅いな。もうすぐ昼になるし……探索魔法なら俺よりもリルディカだな」
朱金の髪を揺らし、彼は魔導師の塔へ向かおうとして、廊下の向こうからやってくる薄紫の髪の少女に目を留めた。ディアナも気付いて、彼女へと声を掛ける。
「リルディカ。良いところに来てくれたわ」
「どうかしたんですか?」
少女は首を傾げた。
魔導士を現す水色のローブを着た彼女は、やっと元に戻った本来の姿ではなく、先日までの14歳程の少女の姿のままだ。他国からの客も多い今の時期に、月の女神に仕える幼い魔導士が、いきなり年頃の美しい女性に姿が変わったら目立つ。ただでさえ特徴ある髪とその年齢に、失われたリンデルファ王国の巫女姫を思い出す者が無いとも限らない。念のために婚礼が終わるまで、人前では少女の姿でいるよう、城の魔導師に目くらましの魔法をかけて貰ったのだと言う。
リルディカは事情を聞くと、すぐに杖を構えた。対象を限定した探索魔法はそれほど難しいものではない──はずなのに。
「あ、ら……?」
空にも、森にも、城にも、白い鳥の姿は見えない。魔法を込められた存在であるイールは、ある意味とても目立つ。けれど。国中に魔法の目を広げていくが──どこにも見つからない。
代わりに彼女の意識に引っかかったのは、フォルディアス湖だった。湖面に映る、白い──。
「……フォルディアス湖に白い月が映っている。イールを探しているのに、見えるのはそれだけ」
彼女の言葉に、ディアナは思わず空を見上げた。朝に見た月は、未だにそこに残っている。何故か胸騒ぎが収まらない。
「……イールを、探してくる」
「ディアナ!?」
ポツリと呟く彼女に、アレイルが目を見開いた。
「せめてラセイン王子に知らせて──」
「フォルディアス湖はうちの領地よ。セイの手を煩わすまでもないわ」
確かに湖はアルレイ伯爵家の領地だ。特に魔物や悪漢の被害が無いのも、毎日きちんと報告を受けている。だから月の女神に危険など及ぶべくも無いが。
彼女の言葉に彼は一瞬躊躇い、けれど頷く。女神が相棒を心配するのは分かるし、何よりも明日は彼女の結婚式が控えているのだ。心を許しているイールに、なるべく彼女の傍にいて欲しい。
「なら俺がついて行く。俺はディアナの護衛魔導士だからな」
リルディカが私も、と手を挙げかけたが、アレイルは首を横に振った。
「リルディカ、王子は会議中なんだ。終わったら今の件をアランに報告しておいて貰えるか」
それを待たずにすぐに出れば、上手くいけば昼食に間に合うだろう。アレイルは言外にそう言って、リルディカに伝言を頼む。セインティアの王太子の婚約者として、賓客との昼食会もディアナの大事な公務なのだから。彼女も心得たと頷いて、女神へと微笑みかけた。
「大丈夫。きっとどこかでマリッジブルーになっているだけですよ」
ディアナはクスリと微笑み返す。
「もう。皆同じようなこと言って。イールはそこまでわからずやじゃないわよ」
「あら、そうかしら」
リルディカは少女の顔に、大人の女性の微笑みをのせて言葉を返した。
「ディアナのことは、特別なのよ」
フォルディアス湖はセインティア王国の中でも特に精霊が多い。なにせ月の女神が作った湖というだけあって、精霊に居心地の良い魔力が満ちているのだ。
いつもは城のバルコニーから水際で遊ぶ精霊の光が見えるというのに、今日は何故か湖面は静まり返っている。なのに大気に感じる精霊の気はひどく高ぶっていて、アレイルは頭の上を飛ぶ風の精霊を捕まえて問うた。
「お前達、何をそんなに浮き足立っている」
精霊達は怯えたように、けれど隠しきれない喜びを滲み出すように、顔を見合わせる。
『月の力が』
『女神様の力が』
『現れたんだ』
「はあ?何を言って──ディアナ?」
ハーフエルフが眉を上げたその隣で。ディアナが無言でふらりと湖に近寄った。水面には白い月が映り、揺れている。彼女は手を伸ばして水面に触れ──その瞬間。
パアアッ──!
湖面が輝き、白い光が辺りに満ちあふれた。
「なんだ……!?」
アレイルは咄嗟に腕で視界を庇いながら、手探りでディアナの肩を引き寄せ、背後へ隠す。光から感じる強い魔力に肌がざわりと泡立ち、けれどその力が焦がれ惹かれる女神に良く似ていることに気付いて、息を吞んだ。
ままならない視界の中で、けれどセインティアの護衛魔導士として指先で魔法陣を描き、空中へ弾く。それは赤い煙を吐きながら空へと登って行った。城では緊急用の煙幕が見えていることだろう。
王子の手を煩わせるなどと言っている場合ではない。これは明らかに『異常事態』だ。
「アレイル、イールが」
ディアナの指差す方を見れば、光の中にイールが浮かんでいた。ぐったりと目を閉じて、翼はだらりと垂れ下がっている。
「イール!」
女神の呼びかけに、イールの瞼がふるりと震えた。
──生きている。
ホッと息をついたアレイルの背後から、ディアナが飛び出してイールへと手を差し伸べる。いつもの警戒心などどこかへ吹っ飛んでいて、ただ目の前の相棒を取り戻そうと叫んで。
「イール!」
「ディアナ、下がれ!危ない──」
正確には、彼女への危険を感じたわけではない。ただ女神と良く似た、けれど異質な気配がイールを捕らえているのを感じて、アレイルは女神の身を引き戻そうとして。白い大きな手がそれを阻んだのを見た。
『──ディアナ……?』
白い光が収まったそこに。
ディアナは自分が雪に包まれているのかと一瞬錯覚した──否、雪のように真っ白な髪の持ち主に抱き締められているのだ。
滝のごとくさらさらと流れる長い髪に、キラキラと溢れる粒子は、フォルレインの魔力に似ている。シーファの銀髪とも違うそれ。真っ白だというのに、毛先に行くに従って薄紫から紫へのグラデーションを描いていて。目の前に落ちるそれを不思議そうに手に掬い──ディアナはハッと目を見開いた。
「だ、誰っ!?」
慌てて身を起こし、頭の上にある相手の顔を見上げる。
「……え?」
まず目に入ったのは、額に埋め込まれた小さな宝石──紫水晶。赤紫の瞳。そのまわりを縁取る真っ白な睫毛。
白い肌に整った鼻筋と、微かに両端が上がった唇。人間そのものの、恐ろしく美しい顔立ちをした青年──けれどこれは人よりも精霊に近い存在だ。強く──どこか懐かしい魔力を感じる。
彼はじっとディアナを見つめ、ややあって微笑んだ。彼女の片手を持ち上げて、その手の甲に口づける。
「やっとお会いできた。私の女神」
伏せられた白い睫毛に目を奪われて、ディアナはその行動を止められず、目を見開いたままそれを受けてしまい、精霊の言葉を理解するのが遅れた。
「月の女神、ディアナ。あなたこそ私の妻となるべき方。──月の民である、私の」
耳に入った言葉を理解するまでに数秒──ディアナは思わずぽかんと口を開けてしまう。
「……え?」
けれど手の甲から離れた唇が近づくのを、反射的に顔を逸らして避けた。その視線の先にアレイルがみるみる険しい顔になるのを見つけて我に返る。彼女を抱き締める腕から身を捩って抜け出した。
「あなた、月の民と言った?」
視線を戻すと、精霊の青年は微笑む。
「そう。私は月の女神の魔力から生まれた月の民。名はリベルザ。覚醒したあなたを迎えに来た」
きらきらと髪に溢れる光の粒子の向こうで、夢のように揺らめくリベルザは、ディアナに手を差し伸べた。近づいてはいけないと感じるのに──その白い指先から目を離せない。
「女神の末裔とはいえ人の子でありながら、あなたは女神そのものの力を持っている。特に戦いにおいては。──もはや人の地よりも月で生きるにふさわしい」
もう、人ではないと。
そう言われた気がして、ディアナは目を見開いた。




