密かな決着
レイトは窓際に寄ると新しい煙草に火をつけ、手の中の魔弾銃に目を落とした。弾倉を確認してわずかに溜息をつく。サングラスの縁に触れて、内側レンズに起動していた熱感知機能を切ると、それはただの色の濃いレンズになった。視界が変わってやっと、終わったのだと実感できる。集中し過ぎた目がわずかに痛んだ。
そうしてから彼は、サングラスを外して胸ポケットに引っ掛ける。魔弾銃を上着の下のホルスターに仕舞い込もうとして、隣からの視線に気付いた。薄紫色の髪の美少女──魔導士の杖を両手で握りしめて、リルディカがレイトを見上げている。
「……どうした?」
「大丈夫?」
レイトの問いに質問で返す彼女は、そっと彼の隣に寄り添う。魔弾銃を掴む彼の手に、リルディカの白い手が重なった。
「……なんだかんだ言って、あなたはアランを気に入っているから」
感応能力の強い巫女は、人や精霊の気持ちに敏感だ。そうすることでレイトのささくれ立った心を鎮めようと微笑んでみせる。レイトは決して冷徹な男ではない。むしろ情に厚いし、リンデルファにいた頃は仲間意識も強かった。
そんな彼がセインティア王国で、友人と呼べる程にやっと心を許し始めたアランを、演技とはいえ撃たなければならなかったのだ。ラセイン王子のことももちろん信じているし、本当に殺すわけではないと知っていた。
けれど自分の撃った銃弾で友人が倒れるのを目の当たりにするのは──心臓に悪い。
「あのヘラヘラ顔を見るとぶっ飛ばしてやりたくなるけどな。でも──」
レイトは知っている。
アランがその笑顔の下に、どれだけの忠誠心と誇り高さを持っているのか。ラセイン王子がその優雅さの裏に、どれだけの大きな責任を背負っているのか。
主は立ち止まることも振り返ることはない。彼の背中を護る騎士を信頼しているからだ。
「あいつらを見てると、なんだか羨ましくなるよ」
「あら、私は怒っているわよ。あなた達男共は本当に面倒なんだから。セアラ姫が気の毒だわ」
リルディカは女であるが故にセアラ姫の心情を思って、口を尖らせた。レイトが軽く目を見開いて、なんとも複雑そうに彼女を見る。
「やっぱり女性的には許せない?」
「そうよ。心配ばかりかけてないで、最初からセアラ様に相談しておけば良かったのよ。極秘計画だったのはわかるけど、そうすればセアラ様は思い悩むことはなかった」
ポンポンと文句を言うリルディカに、ついレイトはアランを弁護するようなことを言ってしまう。
「男はさ、どうしたって格好付けたくなるんだよ。好きな女には、危険から切り離された安全な場所にいて欲しいんだ」
「それが男の自己満足っていうの。まったく、女はガラスケースに飾って愛でるお人形さんじゃないのよ」
幼い外見で酷く女性らしい意見をぶつけられて、レイトは戸惑いつつ苦笑いした。リルディカも本気で怒っているわけではないのだろうが──レイトにも少々耳の痛い話だ。
「レイトも私をお人形扱いしているの?私を傷つけるのが恐い?」
「え?」
不意に投げかけられた小さな問いに、彼は亜麻色の髪を揺らしてリルディカの顔を覗き込む。俯いた彼女の顔は、心無しか赤く染まっているように見えた。
「私に、その、あまり触れないでしょう。えっと、子供にやるギュっていうのじゃなくて、その」
「え」
途切れ途切れに、歯切れ悪く落とされた言葉の意味に気付いて──レイトは思わず煙草をポロリと落としてしまう。床に触れる前に、精霊がその火を消したので、絨毯に焼けこげを作ることはなかったけれど。
「──それ、って」
「そりゃ私は、こんなだから、えっと、その気にならないかもしれないけど」
ちょっと待て。
レイトは頭が真っ白になる。
アランのことなど今はどうでも良い。頭からぶっ飛んだ。目の前の少女が頬を染めて、潤んだ瞳でとんでもないことを言っている方が重要だ。幼さを残す頬の丸みや、小さな手を見ていたはずなのに、なぜか震える肩や髪の間から覗くうなじに目が行き、その事実に愕然とする。
「リルディカ、俺は」
「わかってる。こんなこと言ってもあなたを困らせるって。でもねレイト、本当に私が外見通りの年齢だったとしても、もう嫁ぐこともできるくらいの歳よ」
──嫁ぐ?……誰に。誰にもやるものか。
耳に拾った単語ひとつで、たちまち彼女への独占欲が湧き出る。レイトの様子に構わず、リルディカが言葉を継いだ。
「それでも私は、あなたにとってまだ、守るべき雛鳥でしかないの?」
「そ、れは」
指摘されて初めて、狼狽えた自分に気付く。
ただ大事なのだと、可愛いと思っていた。今はまだ庇護欲に近いのだと。彼女が大人の姿になったら恋をすれば良いと。
なのにいつの間にか、彼女に触れることを抑えていた。子供のように抱き上げたり、おやすみのキスで誤魔化して、今はそのときではないと──けれど、こうしていざ彼女から背を押されても、笑いとばして躱すことすら出来なくなっているなんて。
ああ、俺はもうとっくに、彼女を幼い少女だなんて思っていない。彼女はどこからどこまでも『リルディカ』だ。今彼女が顔を上げたら、キスしてしまう自信さえある。
そのとき。
さらり、とリルディカの薄紫の髪が揺れた。肩の下までだった髪が、腰ほどにまで伸び、彼女の背がレイトの肩に近くなっている。
──よりによって、このタイミングで!
彼は呻きたくなるのを堪えた。こんな話の最中に、また彼女は成長している。まるで全身で煽られているかのようだ。俯いた顔は見えないが、きっと無垢な少女から色香の滲む女性になりつつあるに違いない。
「レイト……」
「っ、あのな、このタイミングで『成長したからじゃあ』って手を出したら、俺は最低な鬼畜野郎だぞ」
リルディカにつられて赤く染まりつつある頬を自覚しながら、レイトは呟いた。その言葉に、彼女がぷっと吹き出して──顔を上げる。
ほら、やっぱり。彼は泣きたくなった──愛おしさに。
そこにいるのは、もうあの頃の。リンデルファで暮らしていた頃の元のリルディカの姿だった。
「あなたがそう思っても、私は最低なんて思わない。レイト」
両手を伸ばして微笑む彼女を思いきり抱き締めて。レイトは両目を閉じた。
熱も柔らかさも、香りも声も。かつて愛していた女性のもの。けれど今は、小さなリルディカも、少女の彼女も、全部レイトにとっては愛おしい。今の彼女はどんな姿をしていても、彼の大事なひとだ。
「リルディカ」
おかえり、とは言わなかった。過去の彼女を求めているのではないから。
「君のことが、好きだ」
初めての告白のように。そう言ったレイトに、リルディカは一粒、涙を零して。
「私もあなたが好き。レイト」
幸せそうに、そっと囁いた。
***
フレイム・フレイアの魔導師は、自分達を牢へと連行する兵士に目くらましの魔法をかけた。杖は取り上げられたが、あらかじめ逃亡用に用意してあったのだ。そうしてベルフェリウス公爵やレイジール、他のフレイム・フレイア兵を置き去りにして、一人そっとその包囲を抜け出す。この城の転移門を利用して、他国へ逃げるつもりで。
けれどその前に、立ちはだかる影があった。
「──お前には見覚えがある」
低く艶めいた声。長い銀髪を揺らして、白い杖を片手に持った、美貌の魔導士だ。
「……銀の、魔導士」
フレイム・フレイアの魔導師はかすれた声で呟いた。
遠く離れた砂漠の国でも、魔法に携わる者ならば、この強大なる魔力を持つ銀の魔導士──シーファを知らぬ者など居ない。国一つ、一瞬で焼き尽すような力を持ち、魔法大国セインティアに生きながら国に魔導師として登録もせず、出世にも興味の無い謎の男。
冴え渡る氷の結晶のような美しさで、彼のブルーサファイアの瞳が魔導師を射抜く。
「お前、フレイム・フレイア王国のアルヴィオス王が操心の魔族に唆されていたときに、王宮に居ただろう。その顔に見覚えがある」
口元にわずかな笑みを浮かべて、シーファから言われた言葉に、彼は動揺した。
確かに以前、半ば攫われるように姿を消した弟子を追って、シーファとアランがフレイム・フレイアに乗り込んだことがある。しかし覚えているなどと──そんなはずはない。あの王宮には何千人もの使用人が居た。魔導師は珍しかったかもしれないが、それでも彼は表立って銀の魔導士と相対することなど、ほとんど無かったというのに。
「わ、私は、ほとんど研究棟に篭っていた。あなたが王宮に現れたときだって──」
「覚えている。お前の波動は操心の魔族に魅了されていた。レイウスの魔力に当てられて、人の心を操る快楽に溺れたか」
シーファは杖を魔導師へと向け、言い放つ。
「──お前がどう堕ちようと構わんが、私の友人に害が及ぶならば、黙っては居られない」
怒りを帯びてさえ美しい魔導士の後ろから、ストロベリーブラウンの髪の可憐な少女が現れた。けれどフレイム・フレイアの魔導師は、彼女が見た目通りの非力そうな少女でないことを知っている。
「アルティスの秘石の器……」
伝説の魔導士の強大な力を宿した少女。彼らが魅了された魔族を浄化し、その身に取り込んだ恐るべき魔導士だ。少女は師の背から進み出て、自分の胸に手を当てる。
「レイウス。あなたの力に引きずられた魔導師がいる。──面倒だから責任取って」
軽く言われた言葉に、魔導師が目を見開くより先に、少女の胸元が輝き、虹色の水晶が現れた。幻想的に輝く魔法石──だが、迂闊に近寄れない程の高い圧力を閉じ込めたそれに、魔導師は冷や汗が滲むのを感じる。
その石からフワリと現れたのは、一見、人間と見まごうような青年だが、その瞳は魔族の赤い目をしていて。彼は呑気にあくびをしながら、面倒そうに一同を見た。
「リティア、俺やっと出て来られるようになったのに。責任取ってって何。君を孕ませたりしたっけ?なら喜んで責任取っちゃうけど」
魔導士の少女に輪を掛けて、こちらも酷く軽く言う魔族の青年。彼の言葉に銀の魔導士が眉を上げ、そちらへと呪文も無しに、無造作に炎の攻撃魔法を放った。
「おわっ、何だよ、銀の魔導士!」
「おぞましい冗談しか言えない口ならば、いっそ焼き払ってやろうと思ってな」
「妬くな、妬くな、色男~。あ、でもそういう責任なら君の方があり得るか」
「ちょっと何言っちゃってんのよおおお!?」
男二人の会話をリティアが真っ赤になって遮る。いまいち緊張感のない様子なのに、フレイム・フレイアの魔導師は動けない。若い男の魔族に見覚えは無い。けれどその気配にはひどく覚えがあり、今も目が離せない。まさか、と魔導師は呟いた。
「その魔族は……あのお方なのか」
かつてフレイム・フレイア王国に現れた操心の魔族は少年の姿をしていた。しかも最初は魔力の大半を失って人に紛れていた。だからこそ誰も警戒せず、彼の正体に気付かぬままに王宮の深部まで入り込まれていていたのだ──否。彼を筆頭に、何人かの魔導師は気付いていたに違いないが──魔力が少なくても魔族は人間とは違う。その圧倒的な力に溺れ、ひれ伏して王が操られるままになるのを見過ごしたのだ。
操心の魔族──かつてディアナたちの前ではタクナスという敵として現れ、今はリティアによって浄化され彼女に従うレイウスは魔導師を見て、つまらなそうに口を開いた。
「お前なんてどうでもいいけど、俺の真似をして悪戯するなら、もっと上手くやってほしかったね。おかげで俺がリティアに怒られちゃうからさ──消えろよ」
何でも無いことのように。
魔族の青年は指を鳴らし、フレイム・フレイアの魔導師はその場から掻き消える。全く残滓すら残さない、一瞬の出来事。けれど少女はまばたきをして、それから口を開いた。
「……殺したの?」
リティアはこわばった表情でレイウスへと尋ねて。魔族はちらりとシーファへと目を向け、軽く首を横に振る彼をクスリと笑う。
「いいや。君が嫌がることなんてするわけないじゃないか。フレイム・フレイア王国へお帰り頂いたよ」
本来は魔族である彼に、殺人の罪悪感など無い。けれどリティアの中で浄化された彼の赤い瞳は、良く見ればわずかに金色を帯びていて。魔族ではなくなりつつあるのが分かる。リティアの考えや価値観を尊重したいと思えるくらいには、レイウスも変化しているのだ。
「俺はもう、君のものなんだからね。リティア」
ふわりと浮き上がって、彼はまたリティアの中へと戻って行く。シーファはそれを複雑な気持ちで見送った。
大魔導士たる彼には、簡単に予想がつく。きっとレイウスはあの魔導師から魔力を取り上げて、砂漠の真ん中にでも放り出したに違いない。魔法使いが魔法を取り上げられたなら、もうそれは死んだのと同じことだ。
けれどシーファにも、あの魔導師に同情する気など起こらない。他人の心を操って思い通りにするなどという下種な輩に温情を掛けるのは、ただ心優しい弟子の少女が命を奪うことを嫌がるから。ただそれだけの理由だ。
かつては操心の魔族であったレイウスと、同じ理由なのは皮肉なものだが、理由は同じでも想いは同じではない。
「でもまた悪いことをする前に、追い払えて良かったですね。お師匠様ったら、しばらく城には近づかないとか言って、ちゃあんとラセイン王子のこと心配してたんですね」
にこにこと言うリティアに、師は溜息をつく。
この天然馬鹿弟子め。城に近づきたくなかったのはお前のためだろう。
「ラセインの心配などしていない。彼なら上手くやる。むしろどこかの阿呆がポカをやらかして、回りに迷惑をかけるのを心配しただけだ」
「ええ、本当はアランさんとも仲良しですよね!お師匠様ったら安定のツンデレなんだから」
「……」
シーファは呆れたように口を開きかけて──苦笑に変えた。どうせ何を言っても、この能天気な弟子は良い方へ取るのだ。それは純粋な彼女の愛すべき美徳でもある。
しかし、くるりと背を向けたリティアが小さく漏らした呟きに、彼は頭を抱える羽目になった。
「これでフレイム・フレイア王国も安全になれば、兄様も安心よね」
彼女を溺愛している(とシーファは自覚している)恋人の前で、他の男の存在を口にするとは。しかも彼女は兄がシーファにとっての恋敵であることを、すっかり忘れているらしい。
師は思わず唸り声を上げながら、弟子の少女を引き寄せた。いきなり引っ張られたリティアは、「きゃあ」と悲鳴をあげながら彼の胸に飛び込む。
「な、なんですか、お師匠様!びっくりした!」
「私はお前の兄の為に阿呆退治をしたわけではないのだがな」
「え?だから、王子とアランさんの……」
言いながらも、彼が不機嫌になったことが分かったのだろう。リティアは言葉を途切れさせて、それからハッと気付いたように目を見開いた。
「……それだけじゃ、ないですよね」
フレイム・フレイアの、しかも反乱分子がフォルディアス城に滞在していたら、リティアは安心して城を訪れることが出来ない。セアラ姫や城の魔導師たちに教えを乞うている身としては、それはとても宜しくない。それにディアナやリルディカと過ごす時間も、リティアにとってはかけがえの無いもので。
『ラセインの心配などしていない』
つまりシーファは、最初から最後までずっと、リティアの為に動いてくれていたわけで──。
「やっと気付いたか、鈍感馬鹿弟子」
彼の低い声は、いくらか和らいでいて。思わず見上げれば、リティアに向けられている濃い青の瞳に、隠しきれない優しさが滲んでいるのに気付いてしまう。
「シーファ……っ、ありがとう、ございます……」
少女は彼に見惚れてしまってから、慌ててお礼を言って、辺りを見回した。シーファが彼女の赤く染まる頬に触れる前に、胸元を掴んで思い切り背伸びする。唇が触れてリティアの胸元が輝き、もう一度アルティスの秘石が現れた。
制御できなかったのではない──抑えなかったのだ。
「いいのか?」
秘石を隠さない彼女に、シーファは悪戯めいた顔で問う。その胸で、リティアはふんわりと微笑んだ。
「今だけはいいんです。だって──」
──秘石を現す魔法は、愛し愛された相手とのキス。
「私があなたをどれだけ好きなのか。ひとめで分かるでしょう、お師匠様」




