騎士は愛を乞う
イールに叩かれて、セイは仕方なくディアナから顔を離した。
「……ディアナ」
溢れ落ちたのは、彼女の名で。応えるように、ディアナの手がセイの胸元をギュッと握る。その様子に、彼は安堵の息を吐いた。ディアナの手はもう王子の首に掛かることも無く、剣を掴むことも無い。魔法の支配からは完全に解き放たれているようだ。
実は魔法を解く勝算が確実にあったわけではない。けれどただ愛おしくて、彼女を泣かせたくなくてしたことだ。途中からはもう周りのことなど完全に目に入っていなかった。
「ディアナ?大丈夫──」
続けて問いかけようとしたセイは、くたりと俯いた婚約者の顔を覗き込んで目を見開く。彼の言葉が途切れたことに気付いて、ディアナがふと顔を上げかけると、彼は珍しくも少しだけ慌てたように、彼女の頭を自分の胸に押し付けるようにして抱き込んだ。
ちらりと見えた彼の顔が、やや赤く染まっていたような気がするが、ディアナにはその理由がわからない。やっと支配から逃れて自由になったというのに、彼の顔さえ見せて貰えず、ディアナは慌ててその手から逃れようとするが。
「わ、っぷ。セイ、何?」
頭を抱え込まれて、もがきながらディアナはセイへと問う。彼女の耳に彼の小さな呟きが聴こえた。
「なんて顔してるんだ……もう一度僕の理性を吹っ飛ばすつもりか?」
おそらくはディアナに聞かせるつもりではなかったのだろう。耳に入ってしまった彼の本音とその言葉の意味するところに、ディアナは自分の顔が一気に真っ赤になるのを自覚する。
(……わ、私、今どんな顔してるの……!?)
聴こえていたはずがないのに、イールから冷たい言葉が浴びせられた。
「今それどころじゃないって、もちろんわかってるよね、キラキラ」
「ええ、ええ。本当はもう全部放って女神を僕の部屋に閉じ込めたいところですが。自分の冷静さが今は恨めしいですよ」
王子の返事にイールが面白くなさそうにフン、と呟いて、バサリと翼をはためかせて飛び上がる。セイは彼女に顔を上げさせないまま、女神を抱き上げて立ち上がった。アランへと目を向けた彼は、もういつも通りの冷静な王子で、側近へと頷く。アランは抱き締めていた姫君を自分の背後へと移動させ、ベルフェリウス公爵へと微笑んだ。
「形勢逆転ですねえ、公爵。我が主は誰の手にも落ちたりはしません。あなたの感傷を満たす人形にもならない。どうなさいますか、フレイム・フレイアのアルヴィオス王からは、あなたを裁く許可は頂いておりますが」
いつもの軽快な口調とは裏腹に、その瞳は笑っていない。彼もまた、婚約者と主を危険に晒されたことを怒っているのだから。しかしベルフェリウス公爵はただ口元を歪め、笑った。
「──私はセインティア王国の法に裁かれるつもりなどない」
まるで諦めていないかのような公爵の言葉に、ディアナが王子の胸から顔を上げる。その腕から降ろしてもらって、まっすぐに公爵を見た。紫水晶の瞳が神秘的に輝き、誰もが目を離せなくなる。
「あなたは──どうしたいの。セイを世界の王にしたいの?それとも絶望に沈めて殺したいの?……ライアフィリナ妃の代わりに、セイにあなたを赦して欲しいの?」
ベルフェリウス公爵は不意を突かれたような表情で、女神を見た。しかしゆるゆると首を横に振る。
「違う、私は……」
思ってもいなかった、という顔だった。そうなのだろう。けれど心の奥底の望みを暴かれたように彼は動揺し、手の内の懐中時計を取り落とす。視線で追いながらも動けない父の前で、レイジールがそれを拾い上げた。
「父の……我らのしたことは、セインティアで裁かれるべき罪です。あなたに従います、ラセイン王子」
今や彼は父に失望し、女神に向けた視線もあからさまな熱ではなく気まずげなものに変わっている。本来の生真面目な彼を取り戻したのだろう。もしかしたらレイジールでさえも暗示にかけられていたのかもしれない。彼の言葉に、王子は頷いた。
「もうすぐ父上が帰還する。彼らの処分は王に任せる」
セイははっきりと告げ、動けないベルフェリウス公爵とフレイム・フレイアの護衛、レイジールをセインティアの騎士たちに連行させた。彼らが部屋を出て行く瞬間、リルディカには魔導師が嗤ったように見えたが──どちらにしろ騎士達と精霊達によって捕縛されたのだ。もう何も出来ないだろう。
今やセインティアの一同だけが残った会議の間を見渡して、セイは溜息をつく。
「壊した扉と、机、椅子、アランの給料から引いておくからな」
「ええっ。椅子壊したの、ラセイン様じゃないっすか」
「……机は私ね。ごめんなさい、セイ」
反論するアランとは裏腹に素直に謝るディアナに、セイは蕩けるような微笑みを向ける。
「あなたはいいんですよ。償いならたっぷりしてもらうから……ね?」
途端に色気三割増になった婚約者に、女神は頬をひきつらせ、レイトとリルディカはもう勝手にしてと言わんばかりに天井を仰いだ。視線の先ではアランが指折り数えながら主に訴える。
「扉はーそりゃちょっと痛めたかもですけど、トドメさしたのはアレイルとイールさんでしょ?」
「ヘラヘラ近衛騎士。ボクに金銭を要求しようっての?鳥であるボクに」
「こんなときばっかり鳥ぶらないで下さいよ、隠れハイスペックな月の女神の相棒のくせに!」
ついにはイールとまで掛け合いを始めた彼に主は深く溜息をついて、片手で近衛騎士の首根っこを掴み、姉姫の方へと放った。「うわっ」と声を上げてアランはセアラ姫にぶつかりそうになり、慌ててその身体を抱き込んで二人で転倒するようなことにはならなかったが、何とも言えない顔でセイを見る。王子はひらひらと片手を振って、臣下へ呆れ顔を向け、口を開いた。
「──あれだけではないだろう?ちゃんと『本当のこと』を弁明してこい。わが姉上は根に持つと長いし、僕は姉上にそんな顔をさせる男を義兄と呼びたくはない」
言われた彼はへらり、と笑ったつもりなのか、けれど途中で真顔になって。アランは一度姿勢を正すと、胸に手を当てて騎士の礼を取り、主に向かって深く頭を下げた。セアラ姫はそれを黙って見つめていたが、向けられたアランの顔を見て眉を上げる。
「部屋まで、ご一緒して頂けますか?我が姫」
アランがセアラ姫を伴って入ったのは、王城に用意された自分の部屋だった。以前に彼女が訪れた王子の側近に与えられた小部屋ではなく、今は侯爵という身に相応の部屋を貰っている。彼自身は「税金の無駄ですよ!俺貧乏性だし、狭いとこ落ち着くし!」とごねたが、セインティアの貴族として賓客を応対しなくてはならないこともある。当然、応接間と書斎付きの続き部屋だ。けれど彼は迷わずにプライベートな彼の私室まで婚約者を招き入れ、彼女をソファに座らせるとその隣に座った。
「怪我はありませんか?」
セアラ姫が治癒魔法に長けた最高位の魔導師だと知っていて、それでもアランは彼女を確かめる。指先を、手の甲と手のひらを、腕を、そっとなぞりながら。頬に触れて、アクアマリンの瞳を覗き込んだ。
「……セアラ様?」
「今はふたりきりよ」
呼びかけた彼の声を遮って、セアラは不機嫌に言う。
ふたりきりになっても彼が未だに主従の距離を保っているのは、わざとなのだと分かっていた──後ろめたいことがあるのだ。
恋人であれば、やむを得ずに彼女が許してしまうことを、簡単に許して欲しくない。だからわざとこんな呼び方をして、主として断じろと。
「俺はラセイン様にもあなたにも謝らなきゃいけません。アディリス王国の王子殿下を襲撃したことです。俺は外交にヒビの入りかねない行いをしました」
「それは敵を油断させるために、操られているフリをしただけでしょう。レオンハルト殿下も分かって下さるわ」
結果的にあの襲撃があったことで、操りの魔法を掛ける者がいることを皆に意識させ、城の警備は強化されたのだ。意識すれば耐性もつく。ただでさえ魔法干渉を受けにくい近衛騎士達が、更に備えることが出来た。最初から王子を狙っていたら、対応は間に合わなかったかもしれない。
「もちろん、それを狙ってわざと起こした騒ぎでした。敵側に悟られずに、支配の範囲を逸脱しない命令違反。『セアラ姫を愛するあまり、嫉妬に狂って他の恋敵を狙う男』を演じるために、レオンハルト殿下は最適な囮だった。けれど──」
アランは軽く目を伏せた。エメラルドの瞳に陰が落ちる。
「──本当に、演技だったのか」
彼の口から囁くように溢れた言葉に、セアラは目を見開いた。未だ彼女の頬に添えられたままの指先が微かに揺れる。
「意識はあった。殺すつもりなんて無かった。手加減も充分にした。結果も、その先の手も、ちゃんと見えていた」
言葉を継ぐアランは、口調が崩れたことにも気付かずに、やや早口で言った。張りつめた糸のように硬質な彼の姿は、セアラの前で見せたことが無いもので。
「それでもわからなくなる、俺は──」
「演技よ」
セアラはきっぱりと言い放った。金の薔薇たる威厳を持って、アクアマリンの双眸で、アランのエメラルドの瞳を射抜く。
「誰が何と言おうと、あなた自身が何と言おうと、わたくしが断言してさしあげますわ。だいたいディアナが言ったのよ、あれはあなたならありえない襲撃だと」
おかしいところがあるんです。ディアナは、レオンハルト王子襲撃の際にそう言っていた。
「もちろんアランさんが好きでレオンハルト殿下を襲撃したりするわけがない。でも本当に彼が殿下を殺すつもりだったら、失敗したりしません。確実にやり遂げる。なのに闇に乗じて、しかも勝手知ったるフォルディアス城で、仕留められないうえに襲撃者が彼だと分かるような、わざわざ騎士達に見せたことのある身のこなしや、剣技をするはずがない」
戦いの女神らしいその意見に、セイもセアラも頷いたのだ。
「あなたは自分の務めを果たしたのよ。アラン・フォルニール」
頬に触れる彼の手が離れぬように、セアラはその上から自分の手を重ねた。そこに頬をすり寄せる。アランは深く息を吐いて愛おしい恋人を見つめた。
「……本当は、引け目に感じていたこともあるんです。レオンハルト殿下に指摘されたように。俺はあなたに相応しくないと。あなたは魔法大国の第一級魔導師、聖国の金の薔薇。至高の宝石。対して、俺は魔法感知能力なんて厄介な体質で、おまけにラセイン様に命を捧げている。きっとあなたを最期まで護りきれない。だから嫉妬してた。魔法にも造詣の深いレオンハルト殿下は、確かにあなたの力になれる人だから」
自嘲気味に呟かれた言葉に、セアラはもどかしげに彼を見る。
そんなことは全部承知の上だ。
彼の前で魔法を使うことに罪悪感を覚えたくない。彼に主と自分の命を天秤にかけさせたくはない。だからこそセアラは滅多に戦いの場に出ないのだ。アランが迷わずにラセインを護れるように。
しかしそれでも彼女はアランを選んだ。魔導師で王女たるセアラの矜持を誰よりも理解してくれる彼を。他の誰かの方がふさわしかったなどと、そんな言葉は聞きたくない──。
何も言えずに、セアラはただ息を吞んだ。言葉を間違えたくはない。彼女だってその強い魔力で、幼い頃からアランに無理をさせていることを自覚しているのだから。いつもなら心地よい沈黙が、今は痛い──怖い。
けれど、アランはセアラの手から自分の手を抜き取って、反対に姫君の手をそっと掴むと、その手のひらを自分の頬にたぐり寄せてキスを落とした。
「それでも、俺はもうあなたを手放せない。あなたの幸せだけを願っていた頃には戻れない。あなたを手に入れる喜びを知ってしまったら、もう誰にも渡せないんだ」
手のひらに、甲に、指先に、唇を落として。ふと見つめ合った一瞬後には唇を重ね合わせていた。婚約者になってから知った、彼の弱さと、それ以上の強さ。穏やかさと、それ以上の激しさ。唇で与えられる熱と、奪われる熱。
「愛してる、セアライリア。俺と結婚してほしい」
ただ姫君の愛を乞う騎士に、金の薔薇はゆったりと微笑んだ。
「ええ、わたくしの愛しい婚約者さん。わたくしとあなたにとっては、それだけが大事なことよ」
優しく撫でられる金色の巻き毛がソファに散らばるのを目の端に捉えながら、姫君はただ願う。
今だけは、彼の目に映るのは私だけ。あと少しだけ──この幸せを。




