愛情
そんな彼らをよそに、ベルフェリウス公爵は口元を歪めて笑った。父の表情に、レイジールが驚く。
公爵はもう息子を見てはいなかった。ただ目の前の王子に、かの姫君の面影を探す。
「……なるほど。あなたは本当に侮れない人だな、ラセイン王子。私は間違っていたようだ。あなたは間違いなく、ライアフィリナ様と同じ血を持つ高貴な方」
彼はそう言って、両手を広げた。
「セインティア王国だけに収まるのは惜しい。あなたならばドフェーロの皇帝にもなれる。否、この世界の王にさえも」
その声音に隠しきれない興奮が混じっているのを感じて、レイジールは一歩後ろに下がる。父は何を言っているのだ。これではまるで──。
彼の戸惑いを感じ取ったかのように、セイがベルフェリウス公爵に厳しい目を向けた。
「生憎僕はこの国を愛していますし、ここだけで充分です。あなたの言葉ではまるでフレイム・フレイアを含む全ての国を征服しろと言っているように聴こえます」
「そう、申し上げました」
公爵は躊躇いもせずに肯定する。セイの視線が向く前に、レイジールは父へと訴えた。
「父上……それはフレイム・フレイアへの反逆です。あなたはドフェーロにもフレイム・フレイアにも関心が無いのかもしれませんが、俺はあの熱砂の国で生まれた。アルヴィオス王に仕える臣下だ。俺が父上の言う通りにしたのは、国のためになるからだと思っていたのに」
父が母よりも想う女性が居たのは仕方が無い。元々両親の仲は良くなかった。母が強引に進めた結婚だったのは、レイジールも知っていたからだ。けれど。
ベルフェリウス公爵は息子に嘲るような笑みを向ける。
「お前は何もわかっていない。我らに必要なのは、世界を統べる王だ。ライアフィリナ様が望んだ、圧倒的な力」
『──わたくしが、もっと強かったら』
消えゆく命の中で望んだ、彼女の願い。
『わたくしに、もっと力があったら』
「私は、ライアフィリナ様の為に」
「あなたは彼女の望みを理解してなどいない」
セイは真っ直ぐに公爵を見つめ、言い放った。アクアマリンの瞳を怒りに染めて。
「わかっていないのはあなたの方だ。彼女が望んだのは、征服でも破壊でもない。ただ、愛して欲しかったんだ。認められたかったんだ。だから父上がいくら連れ戻そうとしても、彼女は自分の意思で皇国に残り、自我を失う最期まで諦めようとはしなかった」
セイの言葉に、公爵は目を見開いた。そんなはずはない、あんなに帰りたがっていたのに──。
「ラセイン王子、セインティア王の虫の良い言い訳でも聞かされたのか。やはりあなたには、多少強引な意識操作が必要だな。私に任せておけば、あなたを世界の王にして差し上げよう」
公爵が手を挙げると、魔導師が呪文を唱え始めた。アランに試みたように、操るつもりかと、レイトとリルディカはそれぞれの武器を構える。アランは剣を左手に持ち替えた。
「僕に魔法など効かない」
セイの言葉に、公爵が嗤う。
「月の女神を失うことになっても?」
ベルフェリウス公爵の言葉に、セイは眉を上げた。そしてゆっくりと口の端をあげる。浮かんだのは笑顔だが──その瞳は絶対零度の氷で公爵を射抜いた。
「あまり、僕を怒らせないで欲しいですね。ただでさえ、薔薇色の婚約期間を邪魔された上に、義兄にまでちょっかいを出されて気分が悪いと言うのに。あなたに女神をどうこうできるとでも?彼女は正直なひとですからね。アランのようにあなたのお遊びには付き合ってくれませんよ」
王子の言葉にアランが溜息を吐く。
「どうせ俺は大嘘つきの大根役者ですよー」
軽く言ってみせるものの、彼はちらりとリルディカを見やった。念のためにディアナの無事を確認させようと。視線を向けられた少女は頷いて、ディアナの傍にいるはずの精霊へと意識を繋げる。公爵を追いつめるこの場にディアナとイールが居ないのは、相手を油断させる為と、セアラ姫を護る為だ。今は姉姫の部屋に居るはずで──。
「……え?」
リルディカの怪訝な表情に、アランは目を見開いた。
「どうしました?」
「あの、お二人がこちらに向かっています。すぐそこに」
彼女の掴んだ反応は、すぐ傍から発せられているのだ。セアラ姫の部屋はここからだいぶ離れていて、姫君もディアナもそこを動いてはいけないと充分に理解しているのに。
セイは公爵を睨みつけた。
「ベルフェリウス公爵、何をしたんですか?」
美貌の王子の凍てつくような怒りにも、公爵は笑みを崩さない。
「そう。このセインティア王宮では、あなたや姫君は絶対的な力に護られている。月の女神も同じ。けれど」
「ごめんなさい、セイ」
アランが先程吹っ飛ばして半壊した扉の向こうに、彼女達が現れた。紫水晶の神秘的な瞳を持つ可憐な女神。輝く薔薇の如き美貌の王女。
「……なんてことを」
セイは婚約者と姉、そしてもう一人を見て、状況を把握した。二人の背後には表情を無くした侍女が立っていて、彼女は短剣を自分の喉元に当てていたのだ。
「侍女を操って、その者自身を人質にしたわけですか」
呻くように呟いた王子の言葉を、公爵は嗤いながら肯定した。
「お優しいことだな。侍女など捨て置けばよいものを」
セアラ姫の部屋に飛び込んで来た侍女は、まだ見習いの少女だった。その幼さ故に暗示にかかってしまい、「公爵がお呼びです。おとなしくついて来て頂かなければ、私は剣で喉を突きます」とだけ口にして姫君達をここに連れて来た。ディアナとセアラ姫がそれを放っておけるはずもなく、ただここまで大人しくついて来るしか出来なかったのだ。
彼女達は廊下からゆっくりとこちらへ向かって来て止まった。公爵とレイジールの傍に。
レイトは侍女の短剣を撃ち落とそうと狙いを定めるが、公爵側の魔導師も巧妙に侍女を姫君たちの背後に隠す。チッと舌打ちする彼に、リルディカが不安げな瞳を向けた。
「聖国の金の薔薇。あなたの婚約者にはしてやられましたよ。仕返しをするならあなたを傷つけるのが有効だが、あなたもまたライアフィリナ様と良く似ている。出来ればそのお顔に傷はつけたくない。もっともあなたの気質はセインティア王妃に良く似ているようですが」
公爵に言われて、セアラはアランを見る。
「公爵、わたくしを放して下さらない?アランへの仕返しならこのわたくし手ずから行ってさしあげてよ。あの馬鹿男を二、三十発殴ってやらないと気が済みませんの」
「……セアラ様、桁がすでに不穏なんすけど」
アランはボソリと呟いて、けれど複雑そうな笑みを浮かべた。
「あなたが俺の腕の中に戻って来たら、何発でも殴られますから」
その言葉に込められた想いを感じて、姫君は目を伏せる。「馬鹿……」と小さく呟いた声は、彼の耳にしっかりと届いた。二人のやり取りに、ディアナはベルフェリウス公爵を見上げ、口を開く。
「人質なら私だけで充分でしょう。セアラ姫と侍女は解放して」
「ディアナ」
セイの声音は彼女を止めようとするものだ。けれど彼女は止まらない。
「私があなたの要求を聞くわ。だから他の人は放して」
「ならば、あなたの加護を取り払ってくれませんか、月の女神」
ベルフェリウス公爵の言葉に、レイジールが父を見た。彼にとってはディアナは未だ可憐な伯爵令嬢にしか見えない。その女神を害するつもりなのか。しかし公爵は息子の視線には気付かない。女神を見下ろして嗤った。
ディアナは公爵をじっと見つめ、観念したように首元へ手を伸ばす。そこに下がる紫水晶のペンダントを外して──隣に立つセアラ姫へと手渡した。
「私を護るものは無くなったわ。これでいい?」
「いけません、ディアナ!」
セイの叫びと同じくして、公爵の魔導師がディアナへ杖を向けた。
「──月の女神よ。戦いの女神よ。青の王子を──討ち果たせ」
溢れた光に、紫水晶の瞳が見開かれ──魔導師の放った魔法がディアナを絡め取る。
「やめろ、ディアナに手を出すな!」
血相を変えた王子に、ベルフェリウス公爵は目を細めた。
「さすがのあなたも、婚約者を害されては冷静でいられないか。けれど、私があなたの弱みなど取り除いて差し上げよう。あなた自身の手で、彼女を排除すれば良い。できなければ、死ぬだけだ」
公爵の言葉に、魔導師がディアナへと支配の呪文を唱える。誘惑混じりの残酷な命令を下した。
「剣で王子の心臓を貫け。永遠にあなたのものにするがいい」
独占欲の究極の形。魔導師はそれを女神の身体へと刷り込んでいく。
『殺せ』
『永遠に、ラセイン王子を得る為に』
「嫌!やめて──」
「ディアナ!」
月の加護を失っても、ディアナは王太子妃になる娘だ。その身はセインティアの精霊によって護られている。完全に彼女の意識までは支配されない。けれど抵抗しても、魔導師の魔法は見えない蔦のように彼女に巻き付いた。公爵の笑みが深まり、その唇が女神を追い落とす。
「抵抗するな、女神よ。王女と侍女を助けたければ、我が支配を受け入れろ」
「──っ」
大きく見開かれたディアナの瞳がゆっくり閉じて──それがふたたび開いたとき、女神はもう自分の身体が戦いに備えて熱くなっているのを感じ取る。心臓がどくんどくんと大きな音を立てて、けれど頭は冴え渡っていた。戦いの女神の本能は、目の前にいる金色の髪の美しい王子が『強敵』だと認識している──殺すべき、相手だと。
ディアナは魔導師が魔法で形作った剣を掴んで、セイへと微笑みかけた。泣き出しそうな、彼女自身の笑みで。
「──ごめんなさい、セイ。身体が言うことをきかないみたい」
いっそ意識まで操られていたなら、まだ心の痛みなど感じなかったのに。
ディアナの意識のまま、けれど身体は魔法の命令に従って動き出す。剣を握り、誰よりも愛おしい婚約者へとその切っ先を向けて。
「でもね私、実は一度本気であなたとやり合ってみたかったの」
ディアナはそう言って、彼に剣を抜く理由を与えてやる。彼ならば何の抵抗もせずに、ディアナの為にその剣を身に受けてしまうだろうから。
「だからお願い、セイ。剣を抜いて」
ああ、アランさんも、こんな気分だったのかしら。どうか抵抗して。私を傷つけることを恐れないで、自分の身を守って。
ディアナの心が通じたのか、セイは愛おしげに彼女を見つめた。その鞘に手をかける。
「殺したいほど愛してるなんて……ぞくぞくしますね」
セイはそう言って──フォルレインを抜き放った。




