裏切りの巫女
レイトは王の部屋から出て来た幼い少女を見て、途端に表情を無くした。軍服の胸ポケットに引っ掛けていたサングラスを掛けて顔を隠す。くゆらせていた煙草を壁に押し付けて消した。リルディカは彼に気付いてビクリと足を止め、彼の腕に巻き付いている妖艶な女に微かに目を見開き──視線を逸らす。
「……レイト、ここに素性の知れない者を入れるのは感心しない」
固い声で言うリルディカに、レイトは唇を歪ませた。
「ああ、ごめんね?俺も溜まっちゃって。ついそこらで綺麗なおねーさん引っ掛けて来ちゃった」
彼の言葉にクスクスと笑う女。名前も知らない相手を引っぱりこむのはもう何度目か。視線を逸らしたままの小さな少女をどうにも傷つけたくて、彼はなおも刺のある言葉を重ねる。
「リルディカちゃん、ヤキモチ?でも俺はどこかの誰かさんみたいに幼女趣味もないし、王のお人形さんに欲求不満を解消してもらおうとは思わないから。──ああ、ヤキモチなんてありえないか。君は祖国を捨てて、公主に尻尾振って生きながらえたんだもんね?ヴァイス様のお膝で、のうのうと」
ハッと顔を上げた彼女の瞳が、酷く傷ついているのをみて、愉快なのに満足できない。
まだ足りない。もっともっと傷つけば良い。俺には彼女を傷つける権利がある。だって彼女は──裏切り者なのだから。
「ねえ、早く部屋に行きましょうよ」
豊満な身体を押し付けて囁く女に、噛み付くようにキスをしてやる。その腰を引き寄せて自分に密着させて。うふふ、と嬉しそうに笑う女の向こうに、蒼白になったリルディカが見えた。
けれど彼女は何も言わずにくるりと背を向けて、廊下の先へ歩き出すだけ。
泣きもしない。拒否もしない。動揺に走り去ることもない。
やはり自分は彼女にとって、取るに足らない存在なのだと、まざまざと思う。たった二人きり、生き残った同胞でも。
かつては誰よりも側にいた側近でも。
何をすれば、彼女を壊せるのだろう。泣かせて、憎まれて、蔑まれて、あの瞳にレイトを焼き付けさせるためには。
──見届けてやるよ、リルディカ。お前が破滅するまで。
その背を見送った彼の前で、王の間の扉が開いた。思わず舌打ちするレイトに気づき、中から出てきたヴァイスが眉を上げる。いきなり現れた覇王の視線に、女は流石に怯えた顔をして走り去っていった。
「またあんなものを連れ込んで。リンデルファの騎士だったお前が、堕ちたものだ」
ヴァイスの言葉に、レイトは憎しみの篭った視線を向ける。
「あんたがその名を口にするな。あんたのせいで、あんたとあの女のせいで我が国は」
「ああ、そのことだが」
公主はさらりと彼の言葉を遮った。その表情は読めない。
「西のセインティア王国に行くことにした。お前も来い」
いきなり変わった話題に、反応が遅れた。咄嗟にどこだそれは、と思ったほど遠方で、かつ国交もなかった国のはずだ。疑問を隠さないままに王に問いかけた。
「は?何で」
レイトの問いに、ヴァイスが低く笑う。
「魔法大国に降り立った月の女神を奪いに行く。次の巫女として」
その宣言に、彼は茫然として──それから瞬時に顔色を変えた。掴み掛かりそうな勢いで、覇王に訴える。
「次の巫女ってどういうことだ!リルディカは!?」
「あいつも承認済みだ。支度をしておけ」
「ちょっと待て、リルディカはあんたを!」
なおも訴えようとするレイトを、ヴァイスは正面から見据えた。射抜かれるような視線を向けられ、覇王たるその威圧感に彼は言葉を継げずに息を吞む。
「リルディカの本当の望みを知らぬお前に、俺を止めることなどできぬよ」
**
数日後、セインティア王国の応接間では、遥か東の国からの客人を迎えていた。
キャロッド大公ヴァイスが伴ったのは小さな少女と一人の軍人だけで、良く知らぬものなら無防備とも言えるが、大公も軍人も、隙のない立ち居振る舞いが、相当な手練であると周囲に伝えている。
「ようこそ我が国へ。キャロッド大公」
「ようこそ巫女様。まあ可愛らしいこと!お人形さんのようね」
セイは世継ぎの王子として、アランと姉姫セアライリアと共に彼らを迎えた。ヴァイスは歓迎の言葉を告げた王家の姉弟を見て目を見開き、それから豪快に笑う。
「いや、初めてお目にかかる、青の聖国の王子。噂に違わず、あなた方は国も含めて素晴らしく美しいな」
「お目にかかれて光栄です。東の覇王、キャロッド大公。お褒め頂きありがとうございます」
がっしりと握手を交わした二人だが、もちろんセイはその真意を探るべく彼を見据え、彼もまたセイが綺麗なだけの王子ではないと気付いたのか、微かに笑みを凍らせた。しかし動揺なども見せず、平然と笑う。
「──俺のことはヴァイスと。この度は、我が領地の魔竜がご迷惑をお掛けした。この巫女が少々躾を誤ったようでな」
「いいえ、我が国の優秀なる魔導士が早期に発見しましたから。ただ指示が行き届いておらず、少々乱暴な魔法になってしまったことをお許し願いたい。それにしても随分と遠くまで迷い込んだものですね。我が国に何か気を惹くものでもあったのでしょうか」
ヴァイスの簡潔な言葉に、セイは笑顔を向けたまま切り込んだ。駆け引きの中にも曖昧さなど許さない彼に、大公の背後にいた軍服の青年が密かに軽く口笛を吹く。アランが視線を向けると、彼はニヤリと笑った。
「お綺麗なだけの王子様じゃないわけだ」
亜麻色の髪にブルーグリーンの瞳の青年は、掛けているサングラスのせいもあって、酷くふざけているように見える。しかしアランが気にかかったのは、その警戒と緊張を含んだ視線がセインティアの面々ではなく──ヴァイスと、その巫女に対して向けられていることだ。
そして、事前に彼が掴んでいた情報によれば、巫女は──。
「そっちの大公こそ、まさかのロリコン?」
大公は王子に勧められるままにソファへと座り、その膝に幼い少女を乗せている。アランがぼそりと呟けば、青年──レイトは憎々しげな目を巫女に向け、ただ口を噤んだ。レイトにしか聞こえないように零したはずの近衛騎士の声に反応したのはヴァイスのほうだ。
「こちらはリルディカ。俺の巫女だ」
彼女はここにきてから一度として口を開かず、無表情で大公の傍らに居たのだが、その言葉にピクリと指を動かした。大公はアランの言葉に気分を害した様子も無く、ただ面白そうにセインティアの近衛騎士を見つめている。アランは視線で主に許可を取り、優雅に礼をした。
「これは失礼。下種な勘ぐりを致しました。お膝に乗せていらっしゃるので、大公の小さな恋人かと。でなければ隠し子ですか?」
丁重に、しかしとんでもない質問をした彼に、ヴァイスは笑い出した。
「聖国の騎士は面白いな。いや、恋人でも隠し子でも無い。大した理由など無いが、幼子は膝に乗せるものであろう?」
「……まさかの子供好き?」
思っていたのと違う。覇王違う。
ぽかんとしたアランの表情を見て、ますますヴァイスは笑った。セイがそれを見つめながら、穏やかな声で問う。
「そうですね。幼女趣味とはいえないでしょう。リルディカ殿がかつてのリンデルファ王国の王女なら、かの姫君は僕と同じ御歳20歳のはず」
一瞬にして、その場の空気が凍り付いた。
これこそがアランからラセイン王子に伝えられていた、リンデルファの情報。
「……ほう。さすがはセインティア王国の情報網だ。そこまで知っているのか」
沈黙を破ったのはヴァイスで。巫女は無表情だったその顔を怯えに染めて、蒼白な顔色で王子を見つめている。レイトは硬い表情で、寄りかかっていた壁から身体を起こした。彼が軍服の上着に滑らせた指先に気づき、アランが剣の柄に手を触れる。
「あら!じゃあ保護者と一緒に居る必要はありませんわね。巫女様、わたくしにおつきあい頂けますかしら?」
そんな緊迫感など掻き消すように、セアラ姫が高らかに言い、にっこりと笑ってリルディカの手を取った。咄嗟のことで少女は反応できずに戸惑いの目を向ける。セイもまた、にこりと美しい笑顔で言葉を継いだ。
「驚かせて申し訳ありません。我が姉姫は可愛い方を着飾らせるのが大好きなもので」
先程の発言など無かったかのように。そう言う弟王子に続いてセアラ姫がリルディカへ矢継ぎ早に告げた。
「お着替えいたしましょう?わたくしの子供時代の服がたーっくさんありますのよ。ぜひあなたに着て頂きたいわ!宜しいでしょう、大公殿?」
絶世の美女に無邪気を装って微笑まれ、ヴァイスは苦笑してリルディカを膝から降ろす。
「構わぬ。普段外に出ないものでな。麗しきセインティアを案内してやってくれ」
「ですって。行きましょう?」
セアラ姫はリルディカを部屋の外へ連れ出した。扉を出る一瞬に、アランと視線をかわして頷く。
リルディカは自分の手を放さずに足早に廊下を進む姫君に圧倒されて、なんとか彼女を止めようと声を上げた。
「あの、王女様」
「あなたが会いたかった人に、会わせて差し上げてよ、巫女様」
少女が彼女の言葉の意味を理解する前に。王女の部屋に押し込まれ、そこに居たのは──
「……月の女神」
繊細な細工の窓枠。上品な織りのカーテンが揺れて。柔らかな光を背にして窓辺に立つ、波打つ豊かな髪と紫水晶の瞳の神秘的な美しさの彼女。
少女というには滲む色香があり、女性というには可憐なその人。
──月の女神、ディアナ。
リルディカは息を吐く。
セアラ姫の部屋に居たのは、ディアナとイール、そして密かに扉を守るアレイル。ディアナは目の前に立つ少女に近づいて微笑みかけた。
「初めまして、でいいのかしら。私はディアナ。……あなたは私を知っているのでしょう?」
リルディカは目を見開いて彼女を見つめていたが、意を決したように近づいて。その小さな手で女神の手を取る。
「ええ。私はあなたを知っています、月の女神。あの時はごめんなさい。あなたを害するつもりなど無かった。ヴァイス様の命令に逆らわずに警告するには、ああするしかなかったのです」
「警告って?」
聞きとがめたイールが聞き返し、巫女は鳥が喋ることにも驚かずにディアナの肩にとまったイールに目を向けた。
「覇王は次代の巫女を探している。この地へは月の女神を奪いに来たのです。あなたがラセイン王子の婚約者ならば、ヴァイス様に囚われることを望まぬだろうと」
彼女の言葉も悲壮な表情も、到底幼い子供のものではなく。セアラ姫が巫女に問うた。
「あなたは本当に、リンデルファのリルディカ王女ですの?」
美姫の凛とした声と、月の女神の視線に嘘はつけずに。リルディカは小さく頷く。
「でしたら一体、その姿は──」
「裏切りの代償、だよなぁ。リルディカ」
突然響いた声に、巫女ははっきりと肩を震わせた。扉を開けてその言葉を投げつけたのは、軍服の青年──レイト。しかしアレイルに阻まれて部屋の中までは入ることなく、扉に寄りかかる。
「急に失礼ではありませんの?」
そう言ったセアラ姫は動じること無く微笑む。さすがは“聖国の金の薔薇”、その大輪の花のような姿に、レイトは目を細めた。彼女達を見回して、薄紫色の髪に隠れた俯く少女を睨む。
「魔法大国セインティア王国の情報網なら、とっくにご存知なのでは?その女は、祖国を見捨ててヴァイスに命乞いをして、その力を差し出して自分一人生きながらえたんだ。そしてリンデルファはあの男に滅ぼされた。そして裏切りの巫女は力の大半をあいつに売って、肉体の時間が10年近く巻き戻っちまったんだよな?」
ディアナは巫女を見つめた。
指先が真っ白になるほど強く握りしめた拳を胸元に抱えて、彼女は震えている。噛み締めた唇からは今にも血が滲みそうで、そっとその頬に触れた。
「リルディカ、彼の言っていることは本当?」
疑いでもなく、軽蔑でもない、ただ柔らかく落とされた言葉に。巫女はハッと顔を上げ、泣き出しそうな目で女神を見つめ返した。けれどその口からは、何の弁解も漏れず。
代わりにレイトが低い声で彼女に残酷な言葉を投げつける。
「お前は祖国を裏切った。お前のせいで皆が死んだ」
彼の憎しみをひしひしと感じて、ディアナは思わず少女を自分の背に隠し、彼の視線から遮った。
「リルディカだけではないでしょう。あなたも生きている」
彼女の言葉に、レイトは燃えるような瞳を向ける。
「覇王の気まぐれだろう。もしくはその女の嫌がらせか。俺は生き残りたくなんてなかったね」
はっと自嘲気味に嗤って。彼はディアナを上から下まで眺めた。その口を歪める。
「なるほど、ロリコン趣味に飽きた我が公主は、今度は出るとこ出た美人を見繕いに来たってわけか。いいね、月の女神。俺と遊ばない?」
「おい!お前」
血相を変えたアレイルを制して、ディアナは彼に近づいた。手を伸ばせば触れられる位置まで来て、そのサングラス越しの瞳を見つめる。
「……何?」
何もかも見透かすような紫水晶の瞳に、思わず揺らいでしまった彼に。
「あら、わたくしの弟はとっても嫉妬深くてよ。ディアナに手を出してご覧なさい、あなたが死にたいのならすぐに願いが叶うわ」
セアラ姫がくすくすと笑ってそう脅した。それを聞いたレイトは肩を竦めて、先程までの激しい感情など掻き消したような顔でへらりと笑う。
「ああ、それは怖い。じゃあ他で探してくるかな。セインティア王国は美人揃いだ。さぞかし美しい一夜の夢を見せてくれるでしょうね」
そして身を翻して、廊下へと出て行った。彼を見送るリルディカの瞳には、深い悲しみが湛えられていて。
「リルディカ、彼は……」
ディアナの問いに、巫女は力なく微笑もうとして──失敗した。ほろりと溢れた涙。
「お話しします、月の女神。私の罪を」




