プロローグ
*
青の王子は目を見開いて、自分に剣を向ける相手を見つめた。
それは誰よりも信頼し、彼の右腕として、側近として、幼馴染の兄として、彼以上に彼を知り尽くした男だ。
その、彼が。
エメラルドの瞳には冷たい色を浮かべ、その剣先を迷うこと無く、主であるはずの王子へ向けている。剣の模擬試合の構えではなく、本気の──殺す為の構えで。
「アラン……」
彼の名を呼ぶ王子に、青年は口元を歪めた。嗤っているのか、泣いているのかも分からない表情で。
ただ、静かに。殺気だけを放って。
「──死にたくなければ剣を抜いて下さい、我が君」
**
セインティア王国フォルディアス城のある一室で、きゃっきゃと楽しげな女性の声が漏れていた。
集まっているのは城の侍女たちと、ドレスデザイナーのリエンカとそのスタッフ、その中心に──この国の王女セアライリアと、王太子の婚約者であるディアナ・アルレイ伯爵令嬢。
ディアナは深い紫に銀の刺繍の煌びやかなドレスを身にまとっていて、それは彼女をより神秘的に美しく彩っている。広く、けれど上品に開いた胸元は白い鎖骨を綺麗に見せ、絞られた腰とそこから足元へ深紫が広がっていた。スカート部分に重ねられているのは、紫と濃紺のうっすらと透ける波打つ布で、繊細な色合いとそこに施された刺繍が見え隠れするデザインはまるで夜に踊る精霊。ベールには裾にいくにつれて小さな宝石がグラデーションを描いていて、それがドレスの上にふわりとかかるさまは、夜空に星が散るようだ。
着せた侍女達はうっとりとそれを見つめている。彼女達から離れた窓辺にはイールが居るが、女性のおしゃべりにくちばしを挟む愚かさを知っている彼は、ただ黙って羽を繕っていた。
「やっぱり素敵ですわ、ディアナ様」
「なんてお美しいんでしょう。それにさすがリエンカさん、ここのレースなんて溜息が漏れそうなほど繊細よ」
「あら、王子のお見立ても素晴らしいわ。ディアナ様にお似合いの色を良く分かってらっしゃるわね」
彼女達の賛辞に、恥ずかしそうに鏡に映る自分の姿を見ていたディアナだったが、愛する婚約者が選んだ花嫁衣裳は、彼女を一番魅力的に見せる素晴らしいものであるのは間違いない。彼自ら国一番のデザイナー、リエンカに作らせたのだと言うから、気後れ以上に嬉しくてたまらない。
ノックの音がして、取り次ぎの侍女が王子の来訪を告げる。セアラ姫がその美貌を楽しそうに緩ませて、口を開いた。
「あら、さすがラセインね。あなたがドレスの試着をすることを聞きつけたんですわ、きっと」
「ええ?まさか……」
姉姫は弟を揶揄し、姫付きの侍女が揃って頷いた。ディアナは思わず赤くなりながら反論し、扉へと向き直る。
「ディアナ、姉上、こちらでしたか……、っ」
扉が開いて、金色の髪の王子が部屋の中へ入ってきて、彼はそのアクアマリンの瞳を大きく見開いた。そして足早に婚約者の元へ来ると、その両頬を包み込む。
「──想像以上に、綺麗です。まさしく夜を照らす美しき月ですね。ああ、ずっと僕の腕に閉じ込めて、永遠にこの輝きを見つめていたくなる」
紫水晶の瞳がぱちりと見開かれ、更に真っ赤に染まった頬は王子の手の下で熱くなる。ディアナは必死で、自分に向けられる甘く蕩けそうな視線と言葉から逃げようと試みるが、彼は全く手を放す気配がない。
「は、恥ずかしいわ、セイ」
ディアナの恥じらう様子に、セイは深く深く微笑んで。
「仕方ないじゃありませんか。目の前にこんなに美しい僕の女神がいるんですから。しかも僕の為に、僕が選んだ婚礼衣裳を着てくれている。困ったな、式まで待てそうにない。今すぐあなたを婚礼の祭壇に立たせたい。叶わないなら、せめて僕の部屋に連れて行ってしまいたい」
「ちょ、ちょっとセイ、落ち着いて」
「……ラセイン様、壊れちゃってますよ!ディアナ様引いちゃってますよ!浮かれるのは分かりますが、ちょっと現実に戻ってきて下さーい」
ますます女神に迫る王子の後ろから呆れ声のアランが現れて、そう言う。気を利かせてリエンカとスタッフ、多くの侍女達はクスクス微笑みながら部屋を出て行った。
残ったセアラ姫とイールは顔を見合わせて。女神の相棒である白い鳥はつまらなそうに呟く。
「相変わらず安定のべったべたな甘ったるさだね、キラキラは。てゆーか、さらに斜め上方向に歪んでない?」
「そうですわね、さすがにわたくしもちょっと心配になってきましたわ」
旧リンデルファから帰国して数週間が経ち、セインティアの世継ぎの王子とその婚約者は、婚礼の準備を着々と進めていた。あの国で起こった衝撃的な出来事は、結果的に皆の絆をより強固なものとし、セイとディアナのお互いの想いは、ぴたりと重なるように一つになっていた。
月の女神を、王子の妻に。
それは今やセインティア国民全ての願望と憧れであり、二人の愛情ゆえの確固たる希望となっている。渋っていたはずのイールやディオリオ、アレイルまでもが、見守る姿勢になり始めた。世界各地へ視察に行っている王夫妻は新しくできる義理の娘のためにと珍しい品を見つけては送ってくれる。結婚式までには帰ってくるはずだ。
「ラセイン、あなたちょっと自重なさい。みっともなくてよ」
「……ならば二人きりにして下さいませんか、姉上。代わりにアランを貸して差し上げますよ」
「ちょ、ちょっと、我が君!?俺、一応セアラ様の正式な婚約者なんですけど!許可が要るんですか、そこ!?」
セアラ姫の言葉にセイが反論し、アランがツッコミを入れる。王子はドレス姿の愛しい婚約者を自分の膝の上に座らせようとして、イールが「そこまではさせないよ!」とその顔に飛び込み、真っ赤な顔をしたディアナに「もう!!」と逃げられた。
「わ、っと。何をするんです、イール」
「それこっちのセリフだよね、キラキラ!?ナチュラル爽やかにセクハラ行為をするな!」
「何を言うんです。愛する人への愛情表現です」
「……犯罪者な言い訳だよね。それ」
いつも通りの、平和な光景。それが崩れることなど、誰も思わなかった──。
*
リルディカは青いワンピースの上から水色のローブに袖を通した。
かつて子供の身体に退行し成長を止めていた巫女の外見は、今は14歳ほどの少女になっていて、城の侍女見習いでも通る年齢だ。しかし彼女は魔導士協会に正式に認められた、セインティアの魔導士となった──王太子妃付きの魔導士に。
ディアナは最初、他国の王女であった彼女が平民出身の自分の臣下になることに難色を示したが、他ならない巫女姫自身が強く希望した。
「リンデルファはもう無いもの。私は王女でも覇王の巫女でもない。セインティアで生きていきたい。今度はディアナの為にこの力を使いたいの」
そうしてリルディカはその感応能力──千里眼の力を示して、他の魔導士を目指す者達と同じように試験を受けて、採用された。そこまでの覚悟を見せられれば、もうディアナも反対できず、彼女は今は城の魔導師の指導を受けている。ディアナが結婚式を終えて城に住むようになったなら、リルディカは正式に月の女神に仕えることになるのだ。これにはレイトも賛成していて、彼は変わらず変人に囲まれながら広報部で働いていて、休憩時間に二人で仲良くお茶をしている様子が度々目撃されていた。
支給された魔導士の杖を持って、リルディカは部屋を出る。廊下に出れば、壁に寄りかかったレイトが顔を上げて微笑んだ。
「セインティアの魔導士としての初出勤、おめでとう。リルディカ」
「ありがとう、レイト」
柔らかく微笑むリルディカは、以前のような悲壮さはだいぶ無くなりつつあり、愛らしい彼女本来の笑顔が見られるようになってきて。幼かった外見もレイトの知るリルディカに近づきつつある。それが何だか嬉しいような、妙に気恥ずかしいような、罪悪感に似たような複雑な気分を彼にもたらしていた。
しかし廊下ですれ違う年若い使用人や兵士見習いがリルディカを見て、息を吞んだり頬を染める様を見てしまうと、彼はさりげなく他人の目から彼女を隠すように横に並んで歩く。未だ未発達の彼女に欲情を覚えることはないが、独占欲だけは間違いなくレイトの中に生まれていた。
「今日はこれから魔導師長のところで修行だろう?俺は残業無しで帰れそうだけど、そっちは?」
亜麻色の髪が窓からの光に照らされて、レイトの甘い端正な顔立ちがよりいっそう際立つ。リルディカはそれをまともに見てしまって、赤い顔で頷いた。
「多分、私も……今日は基礎魔法だけだから」
「じゃあ一緒に帰ろう。さっきの控えの部屋に迎えにいくから」
二人それぞれの部署への分かれ道まで来ると、彼はそう言って笑い、手を振って広報部へ向かっていく。リルディカはその背中を見つめ、ほうと息を吐いた。
「……なんだかレイトったら、私を甘やかしていないかしら」
リルディカも彼の自分に対する気持ちは、うすうす気付いている。恋情というよりは庇護欲の方が強いのではないか。この外見では仕方が無いが。それでも間違いなく、彼はもう一度リルディカと恋をしてくれるつもりで居るのは分かっている。リルディカはただ不安がること無く、彼を信じて大人になっていけばいい。
「彼より、私の方が待ちきれないかもしれない」
ぼそりと呟いてしまって。
自分が落とした言葉の意味に気付いて、リルディカは慌てて頭を振ってその想いを追い出した。
**
結婚式までふた月を切ると、各国から交流や視察目的で早めにセインティアへ入国し、滞在していく大使も増えはじめる。式の準備にはその賓客達の対応も含まれている為、ラセイン王子とセアラ姫は忙しく働いており、婚約者であるディアナも公式の場に出ることが多くなってきた。
そしてアランもまた、王太子の警備主任としての職務と、フォルニール侯爵としての責務に追われていた。今日は賓客の出迎えのために、特別に作られた転移門の前に立っていたのだが。
「ようこそいらっしゃいました。レオンハルト殿下」
目の前にはミルクティ色の髪と、エメラルドの瞳の精悍な若者が居る。
アディリス王国の王子、レオンハルト。一時はセアラ姫の婚約者候補だった青年。そしてディアナの亡き兄と親交の深かった人物でもある。
「歓迎いたみいる、フォルニール侯爵。……俺に殺気を振りまくな」
レオンハルトが形式上は改まった挨拶をし、引きつった笑みでぼそりと付け足すと、アランは主を見習った完璧な微笑みを浮かべる。
「何をおっしゃいます。神竜の国の王子殿下にあらせられましては、ますますご健勝のご様子。転移門で結ばれた同盟国ながらいち早くのご到着とは、それほどの我が主への祝いのお気持ち、僭越ながら私からも御礼申し上げます」
「……つまり、いつでも来られるくせに、わざわざこんなに早くから来るなと」
恋敵とも言える他国の王子は、慇懃な挨拶の中に正しくアランの本音を読み取って、低く唸った。アランはえ~と惚けてまるで無害そうに呟いてみせるが、目が笑っていない。それでもレオンハルトはめげずに食い下がる。
「聖国の太陽と金の薔薇に挨拶をしたいのだが」
「主にはすぐにお取り次ぎ致しましょう。申し訳ありませんが、俺の金の薔薇は体調不良で臥せっておりまして」
「嘘付け!さっきそっちの廊下で侍女と爆笑していたぞ!しかも今お前さりげなく“俺の”って言っただろう!」
「精霊が見せた幻でしょう。王子殿下、お疲れなんじゃありませんかー?」
「まさかの幻覚扱い!?お前、公私混同にもほどがあるぞ!」
なんだかんだとわいわい騒ぎながら、二人はバタバタと王宮の謁見の間まで来たのだが。
そこで宰相と話している他国の数人の使者を見つけて、口を噤む。さすがに他の国の大使の前で、みっともない喧嘩は出来ない。
しかし、アランはその使者を見て眉を顰めた。レオンハルトが気付いて視線を追う。
「──あれ、どこの誰だ?」
ひっそりと聞けば、アランは近衛騎士の顔で使者を見つめたまま答えた。
「フレイム・フレイア王国、ベルフェリウス公爵と、ご長男のレイジール様です」
なるほど、浅黒い肌は砂漠の国の民ならではだろう。公爵は壮年の紳士だが、砂漠を駆ける民だけあって大柄な鍛え上げられた身体をしている。実際の年よりも相当若々しく見えているに違いない。息子の方は端正な部類に入る顔立ちで、年はアランやレオンハルトとそう変わらないように見える。
フレイム・フレイア王国もまたセインティア王国の同盟国だ。だというのにアランが厳しい表情をするのは何故なのかと、レオンハルトは視線で問う。王子の近衛騎士は彼だけに聴こえる声で鋭く答えた。
「──ベルフェリウス公爵は婿養子なんです。若い頃にフレイム・フレイアへ留学に来て、当時公爵令嬢だった婦人に見初められたそうですよ」
それが何なんだ、と言いかけて、王子はアランの手元に気付く。近衛騎士は剣の柄に手を掛けていた──無意識なのか、かすかに指だけを。
「実家はドフェーロの貴族。ラセイン様とディアナ様を害した皇帝の──」
「フォルニール」
レオンハルトは思わず彼の肩に手を掛けた。彼の知るアランとは、何かが変わってしまったような気がして。
「──お前、大丈夫だよな?セアラ姫にも言えないような事態にはなるなよ」
レオンハルトの言葉に、彼はハッと顔を上げて──指先から力を抜いた。へらりといつものように笑ってみせる。
「いやだなあ、俺とセアラ様の間に秘密なんてありませんよ。そりゃもう全身すみずみまで──」
「お前は俺に喧嘩を売ってるんだな。よしいいだろう、言い値で買ってやる。表に出ろ」
神竜の王子が蹴りを入れようとして、ひらりと躱したアランが人差し指を口元に立てた。
「先程の話は、どうかご内密に。特に月の女神と、イールさんには」
「──馬鹿めが。また『皆のおにーさん』を気取って厄介事を抱え込むつもりか」
彼の飄々とした態度に苛ついて、ついそう言ってしまえば。アランは少しだけ、苦笑を含んだ表情でレオンハルトを見つめた。
「── 俺はただ、臣下として、主を守りたいだけですよ」




