エピローグ
それからエミルはディアナに向き直り、謝罪した。
『ごめんなさい、ディアナ』
「……私のことはもういいわ。けれどあなた達の間の問題は何も解決してない。ただ振り出しに戻っただけよ」
シルヴィンは精霊になることが出来ず、エミルは人間になることができなかった。二人の種族の違いという問題は未だに残っているのだ。
否、シルヴィンが魔力と記憶を失ってしまったから、むしろマイナスからのスタートだ。
『ええ、分かってる。それでも彼の心からの言葉が聞けたし、もう二度と魔法に頼ったりしないわ、約束する』
エミルは苦笑して月の女神に頷いた。彼女の隣で未だ複雑な表情のセイを見上げる。
『青の王子も、悪かったわ』
精霊の言葉に、彼は淡々と告げた。
「魔力を失ったシルヴィンには、今はエミルが見えても、じきに見えなくなるかもしれない。精霊と人では寿命も違う。長い時の中で同じ気持ちではいられないかもしれない。人間であるシルヴィンは心変わりをする可能性だってある。取り戻せないものも、変えられないものもある。この先困難だらけだ」
『言うわね、王子様』
苦々しい顔でエミルが返したが、厳しいはずの言葉を与える王子の表情はただ静かで、痛みを与えるためではないと気付く。セイは二人を見つめながら言葉を継いだ。
「それでも他人の器で偽りの人生を生きるよりマシなはずだ。……あなたには振り回されましたが、あなた達の幸せを願っていますよ」
そうしてそっと微笑む。彼の言葉にエミルはそうね、と呟いて、王子の言葉を刻み込むように、胸を押さえた。
別れの刻になると、彼女はおもむろに顔をあげ、ディアナの耳元に小さな声で何かを囁いた。
彼女達の内緒話はセイの耳には聞こえなかったが、彼の婚約者は見る見るうちに頬を赤く染めてセイを見たから、きっと彼のことなのだろう。
*
エミルとシルヴィンと別れ、キエルシュの街に戻ったディアナとセイだったが、そのまま預けている馬を引き取って王城へ帰るのかと思いきや、セイは昨日と同じ宿の部屋を一室だけ借りた。
やや遅い時間ではあるが帰城できないほどでは無いのに、宿泊の手続きをとるセイにディアナは怪訝な顔を向ける。
「セイ、帰らなくて良いの?もともと日帰りの予定を延長してるのよ。公務は大丈夫?」
彼の激務を知っているからこそのディアナの問い。これ以上帰るのが遅くなって、城での彼の仕事が増えてしまうのではないかと案じたのだが。
問われたセイは言葉少なに彼女を伴って部屋に入ると、その身体を引き寄せる。
「セイ……っ?」
「今はそれどころではありません。気分が悪い」
「え!?」
女神の肩に顔を埋めて、王子の口からボソリと漏らされた言葉に、ディアナはおろおろと彼を見上げた。
「体調が悪いの?水貰って来ましょうか?私どうしたらいい?」
優雅で冷静な彼が不調を訴えることなど珍しいから、よほど具合が悪いのかとその顔を覗き込んだが。
「エミルはあなたの姿で他の男に愛しているなどと言うし。僕はあなたに触れられないのに、あなたの身体はシルディンに抱きつくし、ベタベタ触らせるし。だから今、気分は最低最悪なんだ。あなたでなくちゃ癒せない、ディアナ」
言われた言葉を彼女が理解しきる前に、セイはディアナを強く抱き締めた。それでやっとディアナは気付く。
悪いのは体調ではなく──『機嫌』だ。
「ええと……ごめんなさい、セイ」
「あなたに非があるわけじゃない。……それでも強いて言うなら、お人好しが過ぎる」
思わず謝ってしまったディアナにセイは反論するが、小さく付け加えられた言葉に苦笑が漏れる。
珍しい。王子がふてくされるのも、ディアナへその態度を取り繕えないのも。
彼自身も自覚しているのか、セイはディアナの肩に額をつけたまま彼女へ顔を見せようとしない。
「……格好悪いですね、僕は」
「そんなこと、ない」
それだけ気を許してくれていると思えば、嬉しくてしょうがないのに。
ディアナは手を伸ばして、セイを抱き締め返す。どうにか伝えたくて、金色の絹糸のような髪を撫でて、彼の横顔に唇を触れさせる。
「私だってあなたが同じことをしてたら嫌だわ。もう何も感じないことなんてできない。あなたを知らなかった頃の私には戻れないわ」
恋も嫉妬も知らなかった日々は平穏だったけれど。それを知った今は、前よりずっと、喜びと幸せを感じているのだから。
ディアナは躊躇いつつ、2人きりの部屋の中だというのに、セイにひっそりと囁いた。
「……さっき、内緒話してたの、見てたでしょう?エミルがね、私に言ったの。『もっと王子に甘えれば良い。あなたから誘惑してごらんなさい、喜ぶから』って」
「……唯一、彼女から得た真理ですね」
ちらりと視線を向けて。そのまま沈黙が二人を包む。けれどそれは、嫌なものではなく、どちらかと言えば艶やかなものに変わりつつある。
ディアナの視線にセイが顔を上げた。その表情はもう、先程までの機嫌の悪さは浮かんでおらず、むしろひどく愉しげで──。
「……じゃあ、本当なの?」
悪戯と、期待と、恥ずかしさの入り交じった顔で、ディアナは恋人に囁く。彼は寝台に横たわって、手を差し伸べた。
「本当かどうか、試してみて」
色気に満ちた微笑みを向けられては、どちらから誘っているのか分からない。もう、と呟くディアナを、セイはクスクスと笑って言う。
「──僕はいつだって、あなたに惑わされているのに。僕の女神」
月の女神は深く微笑むと、その手を取って王子の腕の中へ滑り込んだ──。
*
「お帰りなさいませ、我が君。随分と遅いお帰りで」
翌日、フォルディアス城で主達を迎えた近衛騎士は、にっこりと笑ってはいるが、その顔にはっきりと“おにーさんちょっと怒ってますよ”と書いてある。
王子が居ない間の公務を、王子の補佐官でフォルニール侯爵である彼が、宰相と共になんとか調整していたのだ。
「ラセイン様、これとそれとあれ、今日中に決裁お願いしますね」
「……お前は主を遠慮なくこき使うな、アラン」
セイは溜息をつきながら、それでも愛しい婚約者にキスを落として。
「またデートをしましょう。今度は呪いの宝物など無しで」
片目をつぶって囁かれた言葉に、ディアナはクスクスと楽しそうに微笑んだ。彼女を引き寄せているセイの手に触れて、頷く。
「ええ。楽しみにしてる」
そうして離れていく女神を目で追いながら、アランはぼそっと口を開いた。
「……ラセイン様、なんか前よりラブラブ度が増してません?」
「もちろんだ。僕たちは愛し合ってるからな」
目ざとい側近に、王子は楽しげに返す。
くそう、ノロケか!と吐き出してから、アランはふと真顔になった。
「そう言えば、通信具で命じられた、遺跡に入った盗賊の追跡ですが」
セイはシルディンが作り、盗賊に盗まれたという、魂を抜き出す魔法石の行方を追わせていた。
あれが無くなったせいで転換の聖杯が必要になったのだから、騒ぎの一因として把握しておくべきだと考えて。しかし──。
「なんっか、妙なんですよね。ある山中でその盗賊らしき一味が全員始末されているのを発見しました。シルヴィンの魔法石も砕かれて打ち捨てられていて。犯人も目的も未だ不明です」
近衛騎士の報告は、王子に難しい顔をさせた。王宮の情報部は優秀だ。その精霊達も掴めないとは。
「引き続き調査しますけど……転換の聖杯は完成させちゃって良かったんですか?」
アランの問いに、セイは目を伏せる。金色の杯を思い出して。
「未完成でやたら暴走されるよりはマシだろう。完成していればとりあえず、呪文の詠唱無しには発動しないからな」
セインティア王宮で厳重に管理されていた時ならともかく、あれは既に暴走し、リルディカを転換させてしまった時点で仕舞い込めるものでは無くなった。ならばきちんと魔法具として完成させてしまった方が良いと思ったのだが。
「……なんだろう。何か、嫌な予感がする。まるで、何かの意思が働いているような」
──王子の心配は的中し。
転換の聖杯が何者かによって盗まれたと精霊が知らせてきたのは、それからすぐのことだった。
この後に起こる波乱を誰も予想することができず、月の女神を失うことになるのも──未だ王子は知る由も無い。
『転換の聖杯をお持ちしました』
「ご苦労」
一人の精霊が箱を掲げると、深い色のローブを被った男がそれを受け取った。
パチンと指を鳴らすと、精霊に掛けていた操りの魔法が解け、それは悲鳴を上げて王宮へと帰っていく。
魔法に守られたセインティア王宮の精霊を支配するのは、かなり骨が折れた。彼がハーフエルフという、精霊たちに近い存在だったから叶った技だ。
男は無理な魔法を行使したがゆえの疲労を抱えた身体で、しかしその顔はギラギラと強い力に満ちていた。
「全てはわが皇帝陛下のために」
そのローブの隙間から、朱金の髪が零れ落ち、赤い瞳が笑みを浮かべていた──。
ニ.五章「番外編・転換の聖杯」fin.




