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暁の巫女 -月の女神2-  作者: 実月アヤ
第二.五章 番外編・転換の聖杯
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取り戻せないもの、変わらないもの

 森の中をしばらく進むと、茂みから獣らしき低い唸り声がして、二人は剣を抜く。顔を見合わせて、お互いに視線だけで頷いた。

 彼らが動いた瞬間、茂みから飛び出してきたのは、燃えるようなオレンジ色の長い毛並みをした、長い爪と牙、赤い瞳を持つ馬ほどの大きさの──シルディンの魂が囚われた魔獣だ。

 魔獣は咆哮と共にその鋭い爪をディアナ狙って振りかぶる。ディアナは地面を蹴ってそれを避け、反対側からセイがフォルレインを振るって魔獣の足を払った。


「ガアッ!」


 魔獣が地面に横倒しになるのを、ディアナの剣が追い、その顎に柄を叩き込んで昏倒させる。わずかな間に、二人は見事に魔獣を取り押さえることに成功した。


「案外あっけなかったわね」


 魔獣の足を拘束具で押さえながらディアナが言えば、セイも同じように手を動かしながら頷く。


「まだ完全に意識が魔獣と同化してなかったんでしょう。幸いなことに」


 人間であった頃の動きを覚えているから、魔物としての動きは鈍いのだろうと。そう聞いて、ディアナはほっと息を吐いた。完全に魔獣になってしまっていたら、シルディンを元に戻せるか分からないからだ。

 身体に魂を戻したからと言って、その後も何事も無く人間として生きられるか。稀に魔物に憑かれた者は魔物が離れた後も、破壊や殺戮の衝動などを持ち続けてしまうことがある。そんなことになればきっと、エミルは哀しむ。

 ディアナの気持ちに気付いたのか、セイは目元を和らげて言った。


「では、儀式を始めましょう」




 夜中になってひと気が無くなると、セイが街で雇った者達に魔獣を運ばせ、二人は遺跡に入った。

 崩れた遺跡は天井が半分ほど落ちていて、頭上には満月が浮かんでいるのが見える。月明かりに祭壇が照らされ、幻想的な静けさに包まれていた。

 祭壇に魔獣を乗せて、他の者は帰してセイとディアナだけが残る。あらかじめエミルに聞いていた通りに隠し部屋を開けると、そこに若い男が横たわっていた。年の頃は20代半ばといった感じで、眠り続けている以外には外傷も無い。


『シルディン……』


 エミルが小さく呼ぶのを感じて、ディアナは胸を押さえた。


「今、助けるわ」


 彼も魔獣の傍に横たえて、王子は金色に光る杯を取り出す。呪いの宝物──転換の聖杯だ。

 一部だけに文様が入っていたそれは、完成した今は表面いっぱいに魔法の呪文が刻まれている。美しい模様に見えるが、身体から魂を抜き出し、他人の身体に乗り移って奪い取るという残酷な魔法だ。

 しかし、魔獣に入った哀れな男を助ける為に使えるのなら、“聖杯”という名称もやっと報われると言うものだろう。


「『闇に囚われし魂に平穏を。やがて新しい光に生まれ変わるまで。その魂が転じ換わるまで』」


 フォルレインを魔獣の前に置いて、セイは聖杯の呪文を読み上げていく。それは歌に似た不思議な旋律でディアナの耳に届き、聖杯が徐々に輝き始めた。発動呪文から先はもう、彼女の知らない言葉だ。けれど美しい歌のように心地よく、月明かりの廃墟に王子の玲瓏たる声が響く。

 魔法具はもともと魔法を使えない者のために生み出されたものだ。道具と呪文があれば発動するものがほとんどだが、それも一言で済むような簡単なものから、転換の聖杯のように長い呪文を唱えなくてはならないものもある。

 強い魔法ほど複雑で長い呪文が必要になるらしいから、セイが今行っているものは相当な高位魔法なのだろう。


 セインティア王国に王子の婚約者として迎え入れられてから、ディアナも魔法については勉強してきた。未来の王妃としての教育でもあるし、彼女自身が自らの月の一族について知りたかったというのもある。

 けれどやはりこんな場面を見せられると、セイの──ラセイン王子の知識と実力には驚かされた。

 ほとんど魔法を使えないとはいえ、彼は魔法については大魔導士ほどに精通しているし、こうやって魔法具を作り、使いこなすことも出来る。それだけでも、生まれた時から世継ぎの王子として彼が行ってきた努力が窺い知れる。


──支えたい。このひとを、守りたい。ずっと傍にいたい。


 聖杯の光に照らされたセイの顔を見つめながら、ディアナは強く思う。それだけで何故か泣きたくなるような、胸がきゅんと締め付けられるような気持ちになって、思わず胸元を押さえた。

 ふと呪文が止んで、セイがこちらを見る。ドキリとディアナの心臓が跳ねた。まるで彼女の考えていたことが伝わったかのようなタイミングで、彼の口元に浮かんだ微かな笑みに頬が熱くなるのを感じた。


 あぁ、好きだなあ、なんて。こんな瞬間に何度だって思う。彼の瞳が自分を映す度に。


 彼の手にした聖杯に金色の水が満ちていき、セイは中身を魔獣にかけて、シルディンの口へとひとくちだけ流し込む。魔獣の身体が輝き、ふわりとした光がその身体から抜け出て、青年の身体に吸い込まれていった。青年が身じろぎし、うっすらと目を開ける。


「う……ん?ここは……」

「シルディン!良かった」


 無事に魂が戻ったことに、ディアナは安堵し、辺りをきょろきょろと見回す青年は魔獣に気付いてわあっと叫ぶ。


「な、何なんだこれ。あなたたちは」

「あなたは自分が作った魔法のせいでその魔獣に取り込まれていたんです。僕たちはあなたの恋人の精霊に頼まれて、あなたを元に戻したんですよ」


 セイが説明したが、その瞳は雲っている──彼の予感は的中した。


「な、何のことだ?恋人って?俺は……何でこんなところに……あれ?」


 青年はエミルとのことを何もかも忘れていたのだ──。

 遺跡調査に来たことすらも曖昧で、精霊と恋に落ちたことも、自分が魔法を作ったことも、もちろん魔獣と化していたことも。そして──魔力も全て失っていた。


『そんな!』


 悲痛な声と共に、ディアナの表情が変わる。エミルが現れたのだ。


「私よ、エミルよ。分からないの、シルディン」

「え?ええと……ごめん」


 シルディンは美しい女神に迫られてやや頬を赤らめたものの、その表情に浮かぶのは困惑で。エミルの名を聞いても少しも心を動かされない。


「……魔獣でいた時間が、長過ぎたんだ」


 セイがポツリと呟く。魔獣になった後遺症として、シルヴィンは記憶の一部を失ってしまったのだと。それを聞いたエミルは、泣き出しそうな瞳で、けれど口元をつり上げた。


「ならば最初からやり直しましょう、シルディン。もう一度私と恋を始めるの。ほら、私はこんなに美しい身体を手に入れたんだもの」

『エミル!?』


 彼女の言葉に、封じ込まれたディアナは愕然と叫んだ。セイはまたしても悪い予感が的中したことに眉を吊り上げて、精霊を睨みつける。


「馬鹿を言うな。それはディアナの身体だ」


 王子の視線に、エミルは首を横に振って拒否した。


「嫌よ!精霊に戻ってしまったら、魔力を失ったシルディンには私が見えるかもわからないもの!彼を愛しているの!」


 シルディンは成り行きを茫然と見つめたまま、言葉も発せずに二人を見比べる。セイは咄嗟にフォルレインを掴むが、ぼろぼろと泣き出した彼女を見て息を吞んだ。

──中身は精霊でも、ディアナの姿がそうして哀しんでいるのを見るのは、彼にとっては辛いことだ。いくらエミルだと分かっていても、泣く彼女に剣を向けることに抵抗を覚えてしまう。


「あなたの気持ちは分かりますが、それは僕の大事なひとなんです。ディアナはあなたのためにシルディンを助けた。彼女の気持ちを踏みにじらないで欲しい。どうか──僕の女神を返して下さい」


 涙を流しながらディアナの姿をしたエミルは、昏い瞳で高らかに笑った。


「嫌よ……。この身体は、私のもの!」


 恋に狂った精霊はシルヴィンにしがみつき、事態を把握しきれていない青年はただそれを茫然と見ている。エミルの剣幕に、セイの手のうちにあるフォルレインが唸り声を上げた。


『我らが月の女神を奪わんとする愚か者め。ラセイン、この精霊を喰らっても良いか』


 主にしか聴こえぬ声に、けれど不穏な響きを察してエミルがますますシルヴィンに抱きつく。セイは額を押さえながら、退魔の剣に負けないほど不機嫌な声を漏らした。


「……煽らないでくれ、フォルレイン。思わず良いと言ってしまいそうだ」

『命じろ、主。女神の身体で他の男に抱きつくなど、ムカつくだろう!』


 主と同じく嫉妬深い剣の精霊は、ますます気色ばむ。怒りに満ちた剣の波動をまともに感じて、エミルは怖れを浮かべた。けれどその手はしっかりとシルヴィンを掴んでいる。

 抱き締められた青年は目を見開いて彼女を見つめ、つい反射的に彼女の背に手を回そうとし、自分を鋭く睨むセイの表情に気付いて、冷や汗混じりに手を止めた。


『クソ、あんな男に我らが女神を触れさせるなど──許さぬ!ホラ、我が主、ちょっと我を振るだけで良いからやらぬか。生意気にも調子に乗っている精霊の小娘など、掻き切ってやる。ついでに女神に触れたあの不届き者にも、ちょっくら雷撃魔法を落としてしまえ』

「フォルレイン、頼むから黙っていてくれないか。僕は今、自分の理性に自信が無くなってきたところなんだ」


はたから見れば冗談のようなやりとりだが、本人たちは至って本気だ。


『エミル。私に身体を返して。フォルレインがあなたを消滅させてしまう前に』


 ディアナの必死の呼びかけに、エミルは首を横に振る。涙が溢れてキラキラと落ちるが、彼女は構わずに叫んだ。


「嫌よ!あなたなら分かるでしょう、好きな人のそばに居たい気持ち!」

『分かるわよ、だけど──』

「ならこの身体を頂戴!心配しなくても、半分はあなたに代わってあげる。そうよ、一緒に生きましょうよ!」


 感情を高ぶらせて止まらなくなったエミルに、セイは眉根を上げる。


「……勝手なことを」


 憤りを浮かべて、王子は呟いた。


「半分?冗談じゃない。お前にディアナの人生を奪う権利など無い。それで僕が満足するとでも?シルヴィンが愛してくれるとでも?本気でそう思うなら、お前に人の愛を語る資格も無い」


 セイの言葉にエミルはショックを受けたように息を吞んで。真っ赤に染まった顔で彼を睨みつけた。


「あなたにはわからないわよ!何でも持っている王子様のくせに!」


『──それは違うわ』

「──それは違う」


 エミルの意識の底で、月の女神の声がした。彼女の声は聞こえないはずなのに、同じ言葉が王子の口からも発せられる。


『セイはずっと待っていてくれた』

「僕はずっと待ち望んでいた」


『彼にとっての唯一を』

「たった一人の、運命のひとを」


『だから私は』

「だから僕は」


『セイの傍にいなくちゃ駄目なの』

「ディアナが傍に居なければ、全てを失うのと同じだ」


 精霊は月の女神のものである、紫水晶の瞳を見開いた。シルディンから手を放しよろめいた彼女を、今度は彼が支える。不安に揺れる瞳に、青年は戸惑いながらそっと話しかけた。


「……事情は良く分からないけど……君は精霊で、その身体は別の人のものなんだろう?それなら返してあげてくれないか」


 シルディンの言葉に、エミルは「でも……」と心細げに言うが、青年はその瞳に真摯に囁く。


「精霊に戻った君が俺に見えるのか、やってみなくちゃわからない。また君に恋ができるかだって試してみなくちゃわからない。でも──」


 彼は言葉を切って、セイを見た。拳を握りしめて、退魔の剣を抑えつつこちらを見守っている美貌の青年。恋人のために必死になる、彼の姿を。


「一度君を愛したなら、きっとまた同じ気持ちになるんじゃないかと、俺は思う。君も──信じてくれないか」


 エミルが意を決したように王子を見た。セイは転換の聖杯を持って彼らに近づき──杯にほんの少し残っていた中身をエミルに振りかける。紫水晶の瞳に涙が溢れ、それが地面へと落ちる前に、彼女の身体が崩れ落ちた。


「ディアナ!」


 咄嗟にセイが手を伸ばし、シルヴィンが支える前にその身体を抱き締める。彼女から金色の光がふわりと浮かび上がって、シルヴィンの前にひとりの女の姿が現れた。

 ゆらゆらと揺らめく光で紡がれたような髪。尖った耳とうっすらと光る繊細な羽。開いた瞳は闇に光をちりばめたような、キラキラとしたラピスラズリの色。


『……シルディン』


 そっと発した言葉に、青年は笑った。


「ちゃんと君のことが見えるよ。初めまして、精霊のお嬢さん。星空のような瞳をしているんだな」


 彼の言葉に、エミルは涙を零しながら笑った。


『初めて逢った時も、あなたは私にそう言ったわ』



 セイの腕の中で目を開いたディアナは、エミルとシルディンの姿を見て微笑む。


「良かったわね、エミル」

「……全く、人騒がせな精霊ですね」


 セイからはぼそりと剣呑な言葉が漏れたが、無事に戻ったディアナの姿を見れば、苦笑に変わった。

 心配することなど無かったのだ。確かに魔力を失ったシルディンの目に精霊のエミルが映るかは一種の賭けではあったが、あの様子ならきっともともと一目惚れだったはずだ。ならば、失われた恋心を取り戻すことなど容易だろう。


「……あなたがもし、私を忘れてしまったならどうすると思う?」


 二人を見守っていたディアナが不意にそんな風に問いかけて、セイは女神の額へと唇を寄せる。


「──同じことですよ。あなたを一目見たら、僕は何度だって恋に落ちるんですから」


 彼の言葉にディアナが嬉しそうに微笑んで。


「私もよ」


 頬を染めて返された言葉に、セイは愛おしい女神を強く抱き締めた。

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