そのままで
翌日、宿に宿泊していた一人の若い男は、朝食を摂りに一階の食堂に降りた。
まだ朝早いというのに何故か店は賑わっていて、どの客もチラチラと、もしくは堂々と無遠慮に、ある一点を見つめている。彼はその視線を追って目を見開いた。
そこに居るのは、波打つ栗色の長い髪のとても美しい娘だったのだ。それまで周りを気にも留めずに食事をしていた彼女は、ふと目を上げる。男と視線が合って──魅惑的に微笑んだ。
「……っ」
男はついフラフラとそちらへ近づく。周りの牽制や好奇の目も気にせずに。娘の前に立った時には、嫉妬や詮索の視線も彼へと絡み付いていた。
声を掛けたいのならそうすりゃ良いじゃないか。早い者勝ちだろう。そう思いながら、彼は出来るだけ明るく爽やかに話しかけた。
「おはよう、お嬢さん。ここに泊っているのかな?昨日は見かけなかったけれど──」
娘はにっこりと微笑む。紫水晶の瞳が思わせぶりに細められた。
「ええ、ここに宿泊しているの。昨日の夜遅くに来たから、あなたとは初めまして、ね」
ゆっくりと向けられた視線に、男は“脈アリ”と思い込んだ。娘へと笑いかけながら、誘いかける。
「良かったら一緒に街を回らない?俺は遺跡の調査に来たんだけど、なんなら君に」
すると周りで見守っていた他の男達が一斉に立ち上がった。抜け駆けを阻止しようと、我も我もと娘へ声を掛ける。
「ちょっと待て!遺跡なら俺が案内するよ」
「いや、そんなものより珍しい市が」
娘はびっくりしたように目を見開いて、けれどまんざらでもなさそうに微笑んだ。唇に指を当てて、妖艶に一人一人を見回して。
「そうね、どれも素敵なお誘いだけど──」
「先約は僕ですよ。そしてこれから先もあなたの時間は僕のものでしょう?月の女神」
いつの間に近づいていたのか、騒ぐ男達の後ろから、朝の光差し込む爽やかなその場に相応しい、太陽のような美貌の金髪の青年がそう言った。彼の美しさに唖然とする一同に構わず、青年は娘の手を取ると、自分の胸に引き寄せて椅子から立ち上がらせ、その腰を抱く。寸分の隙もないスマートな動作。
けれど注意深く見た者が居たならば、彼のアクアマリンの瞳に昏い怒りが浮かんでいたことに気付いただろう。
「ちょ、ちょっと待てよ。その子は……」
そのまま宿の上階に娘を連れて行こうとする金髪の青年に、最初に彼女に声を掛けた男が慌てて止めようとした。けれど。
「何か?」
振り返った青年の、あまりに整い過ぎているのに瞳が笑っていない笑顔に、薄ら寒いものを覚えて言葉を失う。まるで氷結の魔法をかけられたように身体が動かない。その場に居た他の者達も同様で、結局は黙って二人を見送るしか無かった。
青年は優雅に、けれど足早に。黙ったまま彼女を連れ部屋へと戻って。扉を閉めた途端、腕の中の娘を睨みつけた。
「──どういうつもりです、エミル……!ディアナの身体で遊ぶなと言ったはず」
言われた彼女は、セイの腕から逃れ、うっとりと自分の身体を眺めた。
「ディアナったら、もの凄くモテるのね。皆が私を取り合ってるんだもの、いい気分だったわ」
「あなたを、じゃない。ディアナを、だ」
セイは彼女の言葉を訂正して。その顔を見たエミルが笑いだす。
「あら、あなたでもそんな顔するのね。女神のことになると、いつもの余裕が崩れるなんて可愛いところがあるじゃない」
全く反省の色も無い彼女に、セイはフォルレインの柄に手をかける。それを見て、エミルはパッと彼から距離を取った。
「ちょっと、ムキにならないでよ。ちょっとした出来心じゃない。本気であいつらについていく気なんてなかったわ」
「……お前が入っているのは、僕の最愛の婚約者の身体だ。彼女の名誉、心、身体、何一つ傷つけることは許さない。ついでに言えば僕は嫉妬深い。ディアナの姿で他の男を誘うような真似をするな」
「あら、他の男にするなってことは、あなたを誘惑するのは良いわけ?」
「これ以上余計な真似をするなら、寝台に縛り付けてやる。お前が入っていなくてもそうしたいくらいなんだからな」
「結構な変態発言なのに、許されちゃうのは美形王子様だからかしら。美人て得よね。それともそれって遠回しなお誘い?」
「お前に対しては、残念ながらそのままの意味だ。──身体も心もディアナでなければ、意味が無い」
もはや丁寧語など使う相手ではないと判断したのか、王子の口調も言葉の内容もだんだん剣呑さを帯びてくる。
エミルは呆れ顔でセイを眺めた。
「わーかったわよ」
ひらりと手を振って、エミルは唐突に引っ込んだ。残されたのは、真っ赤な顔で立ち尽くすディアナで。
その顔を見て、セイはエミルに対しての自分の発言が、全て意識下の彼女にまで聴こえているのだと思い出した。かといって口にしたのは全て彼の本音なのだから、今更取り繕うつもりも無い。
「……ディアナ」
セイの声に安堵か疲れか分からない物憂げさが混じって、彼女はパッと顔を上げる。困ったように首を傾げて。
「……エミルはあなたの本音を私に聞かせてくれようとしたみたい」
──王子様はどこまでもあなたじゃなきゃ駄目みたいよ?ディアナ。
ディアナと意識を交代する直前に、そう言っていた彼女を思い出して女神は言う。けれど王子はばたりと小さな寝台へ倒れ込んだ。
(いいえ。あの精霊は、ただ人間ライフを満喫して、面白がっているんですよ)
そう言えたらどんなに良いか。あんな悪ふざけが過ぎる精霊など捨て置いて、王都に戻ってひたすらディアナと共に居たい。
寝台の上で頭を抱えるセイへ、おろおろとディアナが寄ってきてその横に座った。セイがその膝へ頭を乗せてくるのをそのまま受け入れ、艶々の金髪を優しく撫でて。
「こうなったら一分一秒でも早く、エミルにあなたの身体から出ていってもらいましょう」
切実に呟く王子に、ちょっと笑ってしまった。
セイは夜を徹して転換の聖杯を完成させていた。あとはシルディンを連れてきて魔法を発動するのみだが。
『魔物になってしまった彼には私の言葉も届かないわ』
ディアナの中のエミルはそう言って、早々に引っ込んでしまった。セイは溜息をつきたくなるのを何とか飲み込んで、魔獣の目撃情報からだいたいの位置を割り出す。そして彼を探しに、二人は街道近くの森に来ていた。
「今のシルヴィンは大型の魔獣、退治より生け捕りの方が難しいですね。町中ではパニックになりますから、捕まえて遺跡に運び込みましょう」
「シルヴィンの魂を魔獣から抜き出したらどうするの?彼のもともとの身体は今どうなっているのかしら」
ディアナは眠り続けていたリルディカの状態を思い出す。彼女の問いに、セイが頷いた。
「シルヴィンの身体も巫女姫と同じように眠っているそうですよ。エミルが精霊の魔法で、あの遺跡に隠しているそうです。ですからシルヴィンの魂を元の身体へ、エミルをあなたの身体から精霊へ、転換して戻しましょう」
彼の言葉に、ディアナはふと引っかかりを覚えて聞き返す。
「エミルは自分の意志で私から出て行けるんでしょう?シルヴィンだけを転換すれば良いんじゃないの?」
彼女のきょとんとした表情に、王子は口元を歪めて小さく呟いた。
「……大人しく出て行ってくれればいいんですけどね」
険しい顔をした彼を覗き込んで、ディアナは慰めるように口を開く。なるべく明るく穏やかに、微笑んだ。
「とんだ休暇になっちゃったわね。せっかくここまで来たのに」
気分を変えようとしてくれている彼女の想いに気付いて、セイは苦笑して。
「せっかく二人きりになれたかと思ったんですが」
女神の肩を抱こうとして、ディアナが顔を強ばらせたのに気付く。昨夜は彼女から口づけてくれたし、今朝は膝枕までは許してくれた彼女だったが、それでもやはりエミルを気にしているのだろうと、セイは彼女に触れるのを止めてその手を下ろした。ディアナはハッと彼の顔を見て、ゆっくりと首を横に振る。
「……エミルは、悪い精霊じゃないわ。振り回されてはいるけれど、気付いてる?セイが私に触れている時には、彼女は現れないの。私が眠っていたり、あなたと離れている時に入れ替わるのよ」
彼女の指摘に、セイはエミルの行動を思い返す。
そう、エミルはセイに、ディアナを乗っ取る瞬間は見せない。エミルからディアナに代わる瞬間は見せるのに。だからこそ王子はいつもエミルの最初の一動作に不意を突かれてしまうのだ。
「なんのために、でしょうか」
「試してるのよ。あなたが私とエミルを間違えないか、エミルの誘惑に乗らないか、他の男性に言いよられる私を見てどうするのか。……これって全部、私にあなたの気持ちを確認させるためだと思う」
ほんのり頬を染めて、申し訳なさそうに言うディアナに、セイは目を見開く。精霊のあのふざけた行為は、恋におせっかい焼きの女友達のような行動だというのか。
「エミルが私に入り込んだ時、願いを叶えてあげるって言ったの。私は……その、あなたに積極的に出来なくて、ちょっと悩んでたから」
恥ずかしさに熱くなる頬を押さえながらディアナは告白する。
もしエミルの行動が彼女の為なら、セイにちゃんと話しておかなければと思ったのだ。このままだとセイはフォルレインを抜きそうなほど、エミルにうんざりしていたし、ディアナがきちんと彼と話し合うことで、エミルが少しでも行動を抑えてくれたらと思って。
「……ディアナ」
セイは表情を無くして、足を止めた。彼女へと向きなおる。一瞬躊躇ったものの、ディアナの手を両手で包み込んだ。
「あなたは強くて、でも脆くて、優しくて、聡明で、警戒心が強くて、でも僕を信じてくれていて、恥ずかしがり屋で慎ましくて、なのにたまにすごく大胆で」
「ちょ、ちょっと、待って何の……」
セイの口から飛び出した自分への表現に、ディアナは更に真っ赤になって慌てる。けれど王子は真剣そのものの表情で、ふざけているわけでもからかっているわけでも無い。セイは意識して口調を緩めて続けた。
「僕は、そのままのあなたを好きになったんだ。夜の野原を鳥と共に駆け回るようなあなたを。剣を持って戦うあなたを。僕の隣で微笑んでくれるあなたを」
セイの言葉に、ディアナは瞬きをする。みるみるうちに紫水晶の瞳が潤んで、木漏れ日にキラキラと煌めいた。幻想的なまでに美しいそれに見惚れながら、セイは言葉を継ぐ。
「あなたが寄せてくれる信頼が、僕のキスに応えてくれることが、なによりも僕にとってはあなたの愛情を感じさせてくれる。無理はしなくていい。傍にいて、笑っていてくれたらそれでいいんだ」
ディアナは思わず包まれた両手に力を込めて、セイの手を握り返した。そう思っていてくれると知っていたのに──自分だけ不安になっていたのが酷く申し訳なくて。けれど何度だって言葉にして伝えてくれる、彼の優しさが嬉しかった。
「いくら積極的に迫られたって、中身が別じゃ意味が無いように。あなたの気持ちが追いつかないなら、ゆっくりでいい。焦らないで。僕はどこにも行かないし、あなたを離したりはしない」
彼は女神の手を掬い上げて、指先にキスを落とす。
精霊の入り込んだディアナへ出来る、精一杯のキス。けれど彼は満足そうに、幸せそうに微笑む。
ディアナはそれを見て、同じように満ち足りた微笑みを返した。嬉しさでぽろりと溢れた一粒の涙を、セイは困ったように指先で拭って見つめる。
「ああ、泣かれてしまうとキスして慰めたくなるな。エミルを早く追い出したいと、心から思ってしまいます」
「エミルが怒るわよ」
クスクスと笑いながら。けれどディアナもちょっとだけ、エミルが自分の中に居ることを残念に思ってしまったのだった。




