プロローグ
2章と3章の間のお話
「デートしませんか」
セインティア王国フォルディアス城、王子の執務室にて。
口にしたのは“聖国の太陽”たる美貌の王子様。もちろん、視線の先は彼の婚約者、“月の女神”ディアナである。
「……でーと」
思わずおうむ返ししながら、彼女は首を傾げた。別に彼と出かけるのは構わないが、目の前に差し出された書類は、そんな単語がそぐわない。
「転換の聖杯の回収?」
先日の巫女姫の聖杯騒ぎの際に、銀の魔導士によって王城から遠ざけられた聖杯。書面にはそのありかと、近隣への調査報告が載っていたのだ。
「キエルシュ?あんなところまで行ってたの?」
もとより聖杯を飛ばしたシーファ本人から場所は聞いていたものの、キエルシュは王都から馬で数時間といった場所だ。よくも魔法のとはいえ、杖の一撃でそこまで遠くまでやったものだ。ディアナは感心して目を丸くする。
けれど、これと先程の『デート』とは?
ディアナの視線に、セイは笑って答えた。アクアマリンの瞳に、悪戯めいた光が浮かぶ。
「転換の聖杯の影響を受けない僕が、直接行って回収して来ようと思いまして。……一緒に行きませんか?前みたいに、二人で」
アディリス王国で二人で魔物退治屋をしていた頃のことを思い出す。二人きりでの毎日は、贅沢は全く無いが、距離が近くてとても楽しかった。
「行くわ」
考える間もなく、答えた。
「でも、二人でっていいの?護衛は?」
「ヘタに騎士達を引き連れて、聖杯の影響を受けても困りますから。あなたなら月の加護もあるし、腕も確かですしね」
世継ぎの王子がほいほいと出歩いてもいいのかとも思うが、もともと他国で護衛もつけずに暮らしていた王子だ。ましてや国内で、戦いの女神と一緒ならば、誰が止められると言うのか。
「でも──アランさんくらいは」
忠実なる王子の側近を挙げれば、セイは座るディアナを囲い込むように、ソファの背に手をついた。
「たまには二人きりで。だから──こっそり、ね」
なんのことはない、小煩い小舅を撒いてふたりきりでいちゃつこうという意味だ。彼の言葉の意味を読み取って、ディアナは頬を赤らめて婚約者を睨むが、セイは彼女に楽しげに囁く。
「誰の目も気にせずに思いっきり馬で駆けたり、草の上でお弁当を広げたり。僕ならあなたに小言も言いませんよ。どうですか?」
──確かに伯爵令嬢として王都に住んでいる以上、以前のように自由にできる機会は減った。セイはフォルディアス湖と広大な森の領地を与えてくれたが、毎日森で走り回るわけにもいかず、確かに彼の言葉はとても魅力的で。
「ずるいわ、セイ。私の一番の弱みを握ってる」
女神が陥落するのも、当然のことである。
*
次の日、二人はアルレイ領地で待ち合わせ、そこから馬でキエルシュへ向かった。道中はセイの言った通り、二人はちょっとしたピクニック気分を満喫していた。もちろん目的は聖杯の回収だが、報告では聖杯は余人の目に触れない結界を張られていて、特に大した影響も出ていないとのことだから、特に切迫しているわけでもない。銀の魔導士さまさまだ。
「でもシーファも大胆だったわよね?彼、魔法に関しては慎重だからびっくりしたわ」
木陰で休憩しながらディアナが魔導士の話題を出し、それを受けて王子は苦笑する。
「あれ実は、わざとだったんじゃないかと思ってるんです」
「え?」
セイの金色の髪が木陰から漏れる光に煌めき、爽やかな風に揺れた。長い睫毛をそっと伏せる彼の表情は穏やかで、城の執務室での彼とはやはりどこか違う。
「シーファはこうなることを見越してたんじゃないかと。つまり、僕があなたと回収に赴くことを」
転換の聖杯は精霊にさえ影響を及ぼす。王家の魔法に守られた王子であれば、王家の宝物庫に入っていたものに影響されることはない。となれば、回収適任者はおのずと限られてくるし、セイの性格を考えれば、女神を同行させるのは予想できる。
「骨休み、させているつもりなんじゃないでしょうか。キャロッド公国がらみでは色々ありましたから。彼なりに、僕を気遣ってくれてるんですよ」
王宮にいれば、嫌でも世継ぎの王子として振る舞わなくてはならない。気を抜くことなど無い。無理矢理にでも、『聖杯の回収』という公務を口実につけてでも、城から出してやろうという、魔導士の優しい企みだったのではないかと。
「ついでに言えば、アランもですね。彼が本気になったら、撒くことなど出来ないから」
『皆のお兄さん』もわざと二人きりにしてくれたのだと。それを聞いて、ディアナはクスクス漏れてしまう笑いを止めることが出来なかった。
「やっぱりあなたは愛されてるわね、王子様」
「あなたは?」
木漏れ日にキラキラと輝く髪に目を奪われていたら、気がつけばアクアマリンの瞳はすぐ傍にあって。ディアナが彼をどう思っているかなんて、答えなど確信しているくせに、聞いてくる意地悪な王子様がそこにいた。じわりと赤くなる頬に、なんとか彼に一矢報いたくて、ディアナは言葉を探す。
「──私も」
揺れる視線がたまらなく可愛いなどと、彼が思っていることも知らずに。
「私も、愛されてるわよ。イールとアレイルと父さんを説得するの、大変だったんだから」
わざと的を外した答えに、セイは噴き出した。
「──あはは……っ。かわし方が上手になりましたね、ディアナ」
「おかげさまで!!」
もはや耳まで真っ赤になっていることを自覚しながら、ディアナは頬を膨らませて答える。そっぽをむいた彼女の横顔──耳に柔らかな唇の感触が触れて。
「そういうところも、好きですよ」
やはり敏腕王子からは、逃れられなかった。
キエルシュはそれほど大きくはない街だが、街道と街道を結ぶ中継地にあり、旅商人が多く、たくさんの商店で賑わっている。近くに古い遺跡があるため、ちょっとした観光地にもなっているらしい。ただ街から外れると山と森に囲まれている為に、盗賊が多いのが難点だ。
「この辺りまできたのは初めてね」
旅人や異国人は珍しくないはずだが、少なくない視線を感じてディアナは周りを見回す。頬を染める者、目を見開いてこちらを凝視する者。娘ばかりではなく、老若男女見惚れているのは、間違いなく自分の隣を歩く金髪の王子にだろう。
「ねえ、王子様なのにこんな風に出歩いて大丈夫?」
セイは上等すぎない軽装だが、腰にはフォルレインを挿していて、一見騎士団の若者にも見える。けれどその美貌と上品すぎるたたずまいは、どう見ても貴族のそれだし、セインティアは王族の支持も高い。国民に大人気の王子様の顔は知れ渡っているだろうし、すぐにバレてしまうのでは無いだろうか。
公務なのだから王子だと明かしても問題は無いかもしれないが、なにせディアナと二人きりなのだ。世継ぎの王子の身の安全の為に、身分を隠しておいた方が良いのは当然だろう。
「堂々としていれば却ってバレないものですよ」
にっこりと微笑んだセイに、商店の親父が目を丸くして彼の顔を見つめた。ディアナはバレたかとひやりとしたが、親父はからりと笑って言う。
「お兄さん、えらい色男だねえ!ほらあれだ、王子様に似てるよ」
「ありがとう、よく言われます」
セイはさらりと返し、彼から果物を買うとディアナに差し出した。リトリという小さな赤い実が連なった甘酸っぱいそれは、彼女のお気に入りだ。
「ね?」
きっと慣れたものなのだろう。なんたってラセイン王子はお忍びに関してはプロの家出常習者なのだ。ディアナは苦笑してリトリを受け取る。一つ取って口に運べば、瑞々しい香りが口の中に広がった。
「でもあなた目立つもの。いずれバレちゃうわよ」
誰もがセイを見れば目を見張る。
完璧に整った造作。鍛え上げられ、すらりと引き締まったバランスの良い長身の体躯。首の後ろでひとまとめにされた金色の髪は、緩く波打って背中に流れ、キラキラと光が溢れているよう。磨かれたアクアマリンの叡智的な瞳。落ち着いた穏やかな表情で、はっきりとよどみなく話す澄んだ優しい声は、聞いていて安心できる。
まさに絵に描いたような『王子様』で、事実、魔法大国セインティアの世継ぎの王太子である彼。年頃の女の子の夢と理想を具現化したような存在なのだから、多くの視線に晒されるのも無理は無い。
「皆あなたを見てる」
クスリと笑ってそう言ったディアナに、セイは苦笑を返した。
「半分は、あなたへの視線ですよ」
セイの隣に居れば、羨望や嫉妬の視線を向けられるのは慣れているが──そう言う意味ではなかったらしい。そっと婚約者を見れば、彼女の姿を彼がじっと眺めていた。城を出てから彼は、こうして暇があればディアナの様子を飽きずに見つめている。少しドキドキして落ち着けなくなりそうだ。彼女の心中も知らずに、セイは女神を愛でる。
栗色のふわふわと波打つ、長い髪。見つめれば吸い込まれてしまいそうな紫水晶の瞳。華奢なのにしなやかな手足、程よく膨らんだ形良い胸とくびれた腰。凛として可憐だった容姿は、最近ではどこか艶めいてきて、そのアンバランスさが神秘的な美しさを与えている。
ディアナは自分の容姿については無頓着だ。彼女の義父ディオリオが娘を巧妙に森に隠していたのもあるし、セインティアに来てからはセイやセアラ姫、シーファのような桁違いの美形がまわりにゴロゴロいるせいもある。道行く男性が自分を見て、顔を真っ赤に染めて口を開けたことなど気づいていない様子だった。
「まったく、無自覚にも困ったものですね」
そちらを視線だけで牽制して、独占欲の強い王子は女神を引き寄せる。どちらにしろ注目を浴びている二人で、情報収集をしようとすれば、話をしたがる相手に苦労せず。
また、可憐な女神に下心を持ってあれこれと近づく者には、いつも通り王子の『害虫退治』の腕が揮われることとなったのである。




