帰還
セイと共に隣の部屋への扉を開ければ、そこに全員が揃っていた。
「ディアナ!」
ディアナの姿を見て、イールがもの凄い勢いで彼女の胸に飛び込む。それを両手で受け止めて、ディアナは彼をそっと抱き締めた。
「ディアナの馬鹿!キミがホントに死んじゃったかと思ったんだからね!」
「うん。ごめんね、イール」
うわああん、と子供のように泣く相棒に女神は柔らかな笑顔を向ける。
彼がどんなに心配して、心を痛めたか。ディアナにはよく分かっていた。何年も傍にいた、親友で家族で。ディアナでさえたまにわからなくなる彼女自身をずっと見守ってきてくれた相棒。どんなに怖かったか、辛かったか。
何度もごめんね、と囁いて。イールの羽を撫でて頬を当てる。柔らかな感触は昔と変わらずにディアナを安心させてくれた。
「ディアナさん……良かったああ」
ぼろぼろと涙を零すリティアにも抱きつかれて、彼女へも腕を回して抱き締めた。
「ありがとう、リティア」
レイトとリルディカも安堵の表情で彼女を見つめていて。銀の魔導士も優しく微笑んだ。
「……よく戻ったな、月の女神」
「ただいま、シーファ。あなたも色々手を尽くしてくれてありがとう」
ふわりと笑みを向けた彼女は、彼らの後ろに立つ近衛騎士に気付いて軽く目を見張る。
「アランさん……」
今にも泣き出しそうな、けれど厳しい表情で。近衛騎士はまっすぐに歩み寄り、女神の前に膝をつく。
「御身を守れず、申し訳ありません」
ディアナの隣で、セイがもの言いたげな顔をしたが、彼が口を開く前にディアナはアランの前にしゃがみ込んだ。
「あなたがいてくれなかったら、セイは壊れてしまっていたかもしれない。私が彼を壊していたかもしれない。だからアランさん──セイと私を助けてくれてありがとう」
今までにもディアナの破滅はセイの破滅だと知らされてきた。そして本当にそんな事態に直面してしまった。もし彼女が失われたあの場にアランがいなければ、きっとセイも命を落としていた。そのあとも、セイを立ち上がらせてくれたのはアランだ。
セイを護りたいという一点では、ディアナはアランに同志のような絆を感じている。彼の主への、絶対的な忠誠と親愛を信じている。そしてそれを自分へも向けてくれることが誇らしい。
ディアナの言葉にアランは目を見開いて。赤く潤んだ瞳を隠すように俯いた。
「──もったいないお言葉です」
彼の前にすっと差し出された手は、主のもので。それを追って視線を上げれば、王子は困ったように微笑んでいた。
「僕も相当情けなかった自覚があるからな。お互い様だ」
「──ラセイン様……」
自分を責めるよりも、素直に女神の帰還を喜ぼうと。そう言ってくれているのが分かる。
アランは目元を弛め、セイの手を掴んで立ち上がった。そのまま王子はその手を引いて幼馴染を引き寄せる。その肩に額を乗せた。
「……お前に恥じぬ主君でいたいのに、なかなか道は遠いな」
「……あなたがこれ以上出来た主になってしまったら、俺は追いつけなくなっちゃいますよ、我が君……」
側近としての顔を保てずに。アランは弟にするように、セイの頭をポンポンと撫でた。
ふたりのやり取りを見届けたディアナは、朱金の髪のハーフエルフへと近寄る。黙って彼女を見つめていたアレイルの腕に触れた。
「アレイル。ごめんなさい、私──」
「どうして君が謝る?アランと同じく護衛魔導士の責任を果たせなかったのは俺の方だ。それに俺の兄が君を──」
ふと言葉を切った彼に、ディアナは首を横に振る。穏やかな笑みで彼を見つめ返した。
「リエイルは、私を助けてくれたのよね。皇帝がしたことは受け入れられないけれど、それでも彼にとって唯一の主だったのは分かるわ。そして、リエイルはあなたに生きて欲しいと願っていたのも、私は知っている。だから、アレイル。私と一緒に背負いましょう?リエイルを想って、懐かしく語ったり、泣いたり。あなたは一人じゃないわ、私も一緒にそうするから」
月の光のように。ただ穏やかに優しく包み込む女神の言葉。差し伸べられた手。
アレイルは彼女の手を取って、俯いた。
──リエイル。お前にもこの温かさを与えてやりたかったよ。
「ディアナ、月の女神。君に忠誠を誓う。君は俺の愛おしく尊い、ただ一人の主だ」
ディアナへの恋心は、崇拝と敬愛が入り混じって、もう彼の中には消えない光となっている。確かに彼女は青の王子のもので、恋としては叶わないだろう。けれど、彼女はアレイルを受け止めてくれる。女神へ全ての想いを捧げることはできる。それを幸せだと、思える。
──リエイル、俺はディアナの傍で生きるよ。
**
暁の城から、セインティア王国の転移の部屋に戻った瞬間、ディアナは大きく息を吐いた。
──戻って来た。
ここから旅立った時には、まさか自分があんな目に遭うとは思っていなかった。多少の危険はもちろん覚悟の上だったが、皇帝の策略はその遥か先にあったのだから。
けれどそれももう、大丈夫。彼の側にいれば。
隣を見上げると、セイはまっすぐに前を向いたまま。ディアナの視線に気付いているはずなのに、彼女の方を見ようとはしない。いつもなら視線を合わせて微笑んでくれるのに。
「セイ……?」
小さく呼びかけても、王子は答えない。けれどディアナがそれを不安に思う前に、彼女の手を握りしめていた彼の指に、痛くはないが振りほどけないほどの力が込められた。
こんな顔は前にも見たことがある。感情を抑え込むような──。
「お帰りなさいませ、殿下」
「おかえりなさい、ラセイン」
彼らの前に揃って迎えたのはセアラ姫と重臣達で、王子は臣下に向かって、淡々と口を開く。
「ドフェーロの皇帝は自らの側近によって命を絶たれた。残党はキャロッド公国軍に任せてきたから、事務処理もそちらに。我が国は干渉を控え、皇国の反応を待て。宰相、王に報告を頼む。警備隊と魔法兵団は国境付近と王都の守りを強化しておけ。明日の夕方まで誰も僕を呼ぶな。部屋にも近寄るな」
矢継ぎ早に飛ばされる指示に、その場の全員が神妙にしていたが──けれど最後に発せられた命令を聞き取って、怪訝な顔をした。
「「「……は?」」」
誰かがそれを聞き返す前に──セイはディアナを抱き上げた。
「え、セ、セイ!?」
慌てる女神に構わず、彼は足早に転移の部屋を出て行ってしまう。まるで嵐のような一瞬に、残された者達はぽかんと口を開けてそれを見守っていたが──。
「……とてもじゃないけど、明日の夕方になっても戻ってきそうにないっすね」
ぼそりと呟いたアランの言葉に、意味の分かった者達は赤い顔で気まずげに咳払いし(シーファは平然としていたが)、セイに不意を突かれてしまったイールは「ズルい!キラキラばっかり独り占め!!」と叫んでアレイルに八つ当たりをしていた。
アランは苦笑するセアラ姫の傍に寄って、その手の甲にキスを落とす。
「ただいま戻りました、セアラ様」
「……ご苦労だったわね、アラン」
あの暁の地で起こったことは全て、精霊によって彼女へ届けられている。
アランがラセイン王子の為にその手を汚そうとしたことも、セアラ姫は知っていた。弟王子の為に、彼が身も心も削ることなど厭わないと。
そしてセアラ姫は決めている。誰がそれを非難したとしても──自分だけはしないと。
アランが彼女を信じているように、姫君もまた自分の婚約者を信じているのだから。
「本当に、良くやってくれたわ」
セアラ姫が口にした様々な想いを込めた言葉に、彼は目を見開いて、それから泣きそうに笑った。けれどそれは一瞬のことで。
「主がお休みなら、俺も休暇もらっちゃいましょうかね」
冗談混じりの口調で、けれどその瞳に艶やかな色を浮かべて婚約者を引き寄せる。彼女にだけ見せる表情で、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「──頑張ったご褒美をくれる?俺の金の薔薇」
男を意識させる声にどきりとしながら、セアラ姫は腰に回されたアランの手をつねる。
「あの鬼畜皇帝に遅れをとったお仕置きがまだでしたわね!わたくしが鍛え直してさしあげてよ」
「イタタタタ!すみませんごめんなさい、セアラ様~」
軽口に紛れて、けれど深く微笑み合った二人は、連れ立って部屋を出て行った。
**
転移魔法を終えて、白い杖の先を床についた師が、そこにわずかに力を込めたことに気付いて、リティアはシーファの顔を見上げた。銀色の長い髪の間から覗く、深いブルーサファイアの瞳がわずかに陰っているように見える。
一行が全員それぞれの部屋へ引き上げ始めても、シーファはそこに留まっていた。やがて護衛兵も全て部屋から出して、彼は弟子の少女を見下ろす。
「先に、戻っていろ」
その声音に滲んだ微かな色は、ずっと傍に居たリティアだからこそ分かる。
「シーファ、私には隠さないで。大丈夫ですから」
生意気だ、と呟いた彼は、けれど杖に寄りかかるようにして深い息を吐いた。
──高位魔法の使い過ぎだ。
大魔導士と言われて桁違いの魔法を操る彼だが、決して不死身でもなければ疲労しないわけでもない。通常ならセインティア王国の魔導師が、数人掛かりで何日か掛けて構成するような魔法もシーファはたった一人で、しかも数分で発動させる。イールがどん引きしたような、追尾転移魔法のような、高度な魔法も独自に編み出す。当然、発明したところで他に使える者などいないのだから、彼がやるしかない。
しかも今回は対大勢の軍勢相手の戦闘で、魔法の発動時間を短縮する為に簡易呪文を多用し、自身も剣術や体術まで使って戦っていた。リティアは彼女達へ敵兵の手が及ばないように、師がより魔力を消費するような、派手な魔法を使っていたことも知っている。無理をすればその分、魔導士本人の負担になるのに、誰にもそれを見せずに毅然と立っていたことも。
常より蒼白い師の顔色に胸を痛めながら、なるべく軽く響くように、リティアが口を開く。
「あんな大きな魔法まで『お仕置きタイムだ、馬鹿者め』で済ませようとするからですよ」
「……68節3部構成の呪文などいちいち唱えていられるか。面倒臭い」
そうやって嘯く彼の背を支えるように、リティアは手を回す。シーファは弟子と一緒に部屋の片隅に置かれた長椅子に座って、彼女の肩に寄りかかった。彼の体調が心配ではあるけれど、弱みを見せない師が彼女に身体を預けてくれるのが嬉しくて、リティアはそっと彼に寄り添う。
「……私がラセインに受けた恩は、まだまだこんなものじゃ返せない」
ポツリと落とされたシーファの言葉。
魔導士になるのを拒んでいた少年の頃に、彼はセアラ姫とラセイン王子に救われたと聞いている。具体的に彼らの間にどんなことがあったのかは知らないが──リティア自身もその力と出生のことでは、王子が心も手も尽くしてくれた。自身のことは厳しすぎるくらいに律しているラセインだが、大事に想う相手には甘い。
否──正しくは。
王子は甘えさせてくれるけれど、甘やかしたりはしない。
例えば彼の前で誰かが歩けなくなったとしても、ただすぐに背負うのではなく、手を伸ばせばいつでも届く距離で、見守っていてくれるような。
自分自身を信じて一人で立ってきた師が、彼をかけがえのない友人だと思うのは、良く分かる。そして今は、その婚約者ディアナに対しても。
「ラセイン王子もディアナさんも、私達をただまっすぐに信頼してくれるから、応えたくなっちゃうのは分かりますけれど。ここに心配性の弟子がいるってことも、忘れないで下さいね」
リティアがそっと囁いた言葉に、師はずるずると彼女の肩から滑り落ち、その膝の上にぱたりと頭を乗せた。いきなりの師の行動に、思わず固まる少女の顔を見上げて、真っ赤に染まった頬に触れてくる。
「……その心配性の弟子がいるからこそ、お師匠様が無敵かつ素敵でいられるってことも、忘れないでもらいたいものだがな」
──っ、ズルい!と。
叫びそうになった彼女の言葉は、頭を引き寄せた手と合わされた唇に塞がれて、溢れることなく。深い青が自分を見つめて微笑めば、もう抗議の言葉は口の中で消えてしまった。
「それに」
艶やかな声が、少しだけ切なげな色を帯びる。
「私もお前も、大事な相手を失いかける怖さはよく知っているだろう?その時に救ってくれたのも、ラセインだった」
リティアが師との別れを決意し、異国に去ったとき、シーファに肩を貸し、アランという腹心をつけて送り出してくれたのも。シーファが負傷、海中に行方不明になったとき、魔力を暴走させそうになったリティアを叱咤し、立ち上がらせたのも。
「彼は良い王になる。月の女神が傍にいれば、なおさらだ。だから私はそれを見守りたい。さしあたって我らが出来ることはただひとつ──」
シーファは言葉を切って、一転。その目に悪戯な光を浮かべた。
「明日の夕方まで、彼らをそっとしておこう。──俺も今は、お前以外を構う余裕がない」
そしてまた、頭を引き寄せる彼の手の重みを感じて。
虹色に溢れたアルティスの秘石の光の向こうに、今度こそリティアはズルい、と呟いたのだった。




