一条の光
レイトはリルディカの手を握りしめたまま、寝台の傍に座っていた。リティアは巫女を引き留めることに成功し、今は小さな巫女は穏やかに眠っていたのだが。
ふとその睫毛が震え、指に力が入るのを見て、レイトがハッと彼女に呼びかける。
「リルディカ」
「リルディカ?目が覚めたの?」
リティアが身を起こして彼女へと走り寄り、その顔を覗き込んだ。リルディカは薄紫の瞳を物憂げに彷徨わせて、レイトとリティアに気付くと安心したように息を吐く。
「レイト……私」
「無理をするな、リルディカ」
身を起こそうとした彼女をレイトが止めた。さらりと頬の横で揺れた、短くなってしまった髪に気付いて、リルディカはわずかに動揺したものの、自分の姿が今まで以上に幼くはならなかっただけでも幸運だ。魔力を奪われた事を思い出し、彼女はハッと一同を見回す。
「月の女神は?」
問われた言葉に、リティアが息を吞んで、そのまま言葉を継げずに。レイトが彼女を見て目を伏せる。
「──皇帝に、殺された」
「そんな……。だってディアナはとても強くて──まさか、私の魔力を使われたの?」
リルディカの動揺に、レイトが眉を寄せた。その表情に巫女は図星なのだと気付いて、息を吞む。
「私が、捕まったりしたから──」
「巫女のせいではない。誰にも防げなかったことだ」
銀の魔導士がリルディカの言葉を遮って言う。深い青色の瞳をまっすぐに向けて。
奪われた巫女の力、月の指輪、害されるはずがないと思っていた月の女神の死。何もかも本来なら起こりえない事態だった。リルディカのせいでも、セイやアランの力が足りなかったわけでも無い。ただ異質過ぎる偶然が重なっていることに、酷く違和感を感じてはいるが。
「仕方ない。ドフェーロの皇帝があれほど月の力と精霊魔法に通じているとは──」
言いかけて、シーファはふと言葉を切った。自分の言葉の中の何かに気付いたように。そしてリルディカを見て──王子の居る部屋の扉を振り返る。
──偶然、なのか?
暁の巫女と関わってから、イレギュラーな事ばかりだとは思っていたが──巫女の力が異質だからこそ、皇帝が手を伸ばしたのだとすれば。
「まさか」
「シーファ?」
リティアの訝しげな呼びかけに、アランも異変に気付いて、隣で身を起こした彼を凝視した。銀色の髪を揺らし、美貌の魔導士は立ち上がる。ブルーサファイアの瞳を叡智に煌めかせて、その手を差し伸べた。
「アラン、絶望するにはまだ早いかもしれないぞ」
***
イールはリンデルファの城のまわりをめちゃくちゃに飛び回っていた。
木々の間、空高く、崖から海面すれすれへ。魔物に遭おうが、ドフェーロ兵に遭おうが、今は何もかも構わない。
「ディアナ、ディアナ……っ」
心を占めるのは大事な相棒のことだけ。
ずっと傍に居た。ディアナがディオリオに引き取られた時から。
14歳の少女は、今からは想像もつかないほど怯え、心細げにディオリオに手を引かれてセレーネの家にやってきて、義父の後ろからそっとイールを見つめていた。
クレスはディアナの為にイールを作り、動けぬ自分の代わりに彼女の傍へと命じたけれど。それでも、それまで人と──ましてや少女と接したことの無かったイールには、最初は彼女への対応はとても戸惑った。
『初めまして、ディアナ。ボクはイールっていうんだ。キミのアイボウ、だよ』
その頃は人間の言葉を覚えたてで、友達、という単語が思いつかなくて。ディオリオが使うような言葉を選んでしまった。けれどディアナがその言葉に、ぱあっと笑顔になって頷いてくれたのを覚えている。花が綻ぶような、見てるこちらまでつられてしまうような、そんな笑顔で。
クレスが死んで、その記憶と意識がイールに受け継がれてからも、兄としての意識を奥深く閉じ込めていたのは、必要無かったからだ──もうイール自身がディアナを大好きで、大事だったから。
『どうしてディアナが死ななきゃならない!キミが、キミたちがついててどうして!』
数分前に叫んでしまった自分の言葉を思い出して、罪悪感と後悔に苛まれる。
精霊であるイールは、人間よりも直情型だ。血が上れば思ったことを口にしてしまう。
──そんなこと、彼ら自身が一番思っていたに違いないのに。
全身を血に染めて、魔力を失い、だらりと下がる動かない腕で。絶望して、ただディアナを抱き締めることしか出来ない王子の姿も。そんな主と、彼の一番大事な存在、両方を守れず、いつもの快活さをかけらも取り繕うことさえできない、思い詰めた瞳の近衛騎士も──これ以上無いくらいに、傷ついていたのに。
分かっている。八つ当たりだ。本当は誰よりも、相棒の傍に居たかったのに、叶わなかったから。
本当は信頼していた。ずっと軽口と文句に紛らわせていたけれど。
いつの間にかイールの小さな相棒は美しい少女になっていて、森の中に囲われているだけでは足りずに広い世界へ出て行ってしまって。月の女神の力に目覚めてからは特に、ディアナが自分自身を、イールを忘れてしまうことが怖かった。人の体を持たないイールにできることは少なくて、寂しくもなったし、彼女を連れ出す人間たちに嫉妬もした。
けれどいつだって、彼女の手は青の王子がしっかりと握りしめていたから。あの近衛騎士が主と認めて守っていてくれたから──いつのまにか頼ってしまっていたのだ。彼らがいればディアナは幸せに生きていけるのだと。
優しくて可愛い、イールの相棒。あんなふうに、一方的に、蹂躙されていいわけがない。
「──クソッ」
悪態をついて、翼をはためかせる。島を半周して、結局行き着いたのは元のリンデルファ城。いっそこのまま、遠くへ行ってしまいたかった。けれど、ディアナから離れることなどできない。たとえ、二度とイールに笑いかけてくれなくたって。彼女の元へ戻ろうとしたその時。
“ドオンッ!”
突然、目の前の崩れかけた壁が吹っ飛んで、その土煙の向こうに朱金の髪が見え、イールは目を見開く。
「アレイル!!」
ハーフエルフは兄と戦って、満身創痍でそこに立っていた。彼の前に立つもう一人のハーフエルフを見た瞬間、イールは思わず二人の間に割り込む。
「リエイル!お前と皇帝のせいで、ディアナは、ディアナは──!!」
イールの尋常ではない様子に、アレイルはハッと兄を見た。リエイルは弟の魔法によってか、焦げたローブの裾を払って目を細める。
「我が皇帝陛下は、女神の時を止めたか」
彼の淡々とした声に、イールは怒りを爆発させて。
「あいつがディアナを殺した!どうしてだよ、女神の力が欲しかったんだろう!?命まで奪うこと──……え?」
激情に任せて言葉を叩き付けていた白い鳥は、ハーフエルフの言葉にふと気になるものを見つけて勢いを失った。
「今……なんて?」
リエイルは答えない。しかし女神の相棒である白い鳥には、聞き流せない言葉で──。
「待って……ちょっと、待って。そういうことなの?リルディカを攫ったのは、その為?」
月の力で作られたイールは、与えられた一つの可能性に思い当たって息を吞む。
アレイルはイールと兄の言葉で状況を理解したようだ。ディアナが殺された、と聞いて凍り付いたものの、兄の表情にふと眉を上げる。弟の視線に、リエイルは淡々と、感情のこもらない声で呟いた。
「闇に囚われし魂に平穏を。──やがて新しい光に生まれ変わるまで」
祈りの言葉のようだが、彼ら兄弟には祈る神など存在しない。ならばこれはきっと、兄から弟へのメッセージで──
「──その魂が、転じ、換わるまで」
──この言葉を知っている。
アレイルは目を見開いた。つい最近、知ったばかりの言葉だ。否、これは言葉ではなく──。
振り返ったアレイルは、混乱するイールへ手を差し伸べる。
「行こう、イール。ディアナに逢いに」
「あ、ああ」
イールはアレイルの傍をすり抜けて、扉へと飛んでいく。リエイルは攻撃することも無く、追うことも無く、ただ弟を見送っているだけだった。アレイルは兄を振り返って、そっと視線を交わす。
きっと今の情報は、兄なりの弟への激励だ。本来ならば、アレイル達に皇帝の思惑を知らせてしまうのは、彼への反逆にも等しいはず。
別れの言葉はお互いに必要無い。再会の約束も出来ないけれど。もう歩く道は違うから、ただお互い前に進むだけ。
「──ありがとう、リエイル」
そっと呟いた言葉に、兄が微笑んだ気がした。
****
「ラセイン様!」
「「ラセイン王子!」」
隣室の扉が開かれるのと、廊下側の扉が開かれるのは同時だった。
なだれ込むように入ってきた、アレイルとイール。足早に入ってきたアランとシーファ。その後ろから、レイトとリルディカ、リティアが続く。──全員が目指すのは、青の王子。
「ラセイン様」
アランが呼んでも、主は虚ろな瞳で腕の中の女神を見つめ続けている。彼の声が聴こえているのかも分からない。いつもなら美しく輝いていたはずのアクアマリンの瞳が、今はガラスのようにただ目の前を映しているのみ。
「ラセイン様、お話が」
主に触れようとして、アランはその手を止めた。今の王子に触れてはいけない気がして。
寝台の上に背を預け、もの言わぬ婚約者を抱えたままの王子へと、アランはその眼前に片膝をついた。
「恐れながら我が君。銀の魔導士の話をお聞き下さい」
改まった家臣としての言葉は、心を凍らせた主君へと届けるための苦肉の策。
この方は悲しいほどに“セインティア王国の世継ぎの王子”なのだ。幼馴染の兄代わりの優しい言葉よりもよほど、事務的な進言の方が条件反射で耳に届いてしまう。その責任感から。義務感から。
──けれど今は何でも良い。この言葉を聞いて、立ち上がりさえしてくれれば。俺の手をとるのではなく、自分の足で。
「──ディアナ様を取り戻せる可能性がございます」
アランは胸に手を当てて、騎士として跪き、願う。
「そしてどうかご命令を、我が君。この命に代えて、私はあなたの剣となり、盾となります。我らの次代の王と王妃の為に」




