魔力をなくした王子
──紫水晶の瞳から光が失われた瞬間。
彼を呼ぼうとしていた開いた唇は、わずかに震えて音を発せないまま。
黒い刃は女神の胸を刺しつらぬき、その身体に吸い込まれるように消える。
魔法の剣はディアナの身体に傷をつけることも、彼女の血を流すことも無く。女神は長い栗色の波打つ髪を揺らし、魂が抜けた人形のように、ただ音も無く崩れ落ちた。
閉じられた瞳と、だらりと垂れた白い腕がセイの目に焼き付いて離れない。
同時に身体を貫いた喪失感──フォルレインが急に重みを増して、精霊の声も意識も届かなくなった。
常に自分の一部だったはずのそれが、今や酷く異質なものになって彼の手の中に残る。
それが、意味するものを。
知りたくない。
「ディアナ……」
応えを望んで、呼びかける。いつものように可憐な微笑みで、紫水晶を煌めかせてくれると信じて。
「女神は死の底に堕ちた。──そなたが魔力を失ったのが証」
うるさい。
「嘘だ」
彼女の元へ行かなくては。
抱き締めて、口づけて、そして──
「女神は死んだ」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……!!」
──愛していると。
セイは傷が更に開くのも構わずに、身を起こした。自分の肩に刺さる剣を掴んで、一気に引き抜く。ごふりとせり上がってくる鉄の匂いと共に、大量の血を吐いた。それでも激情は止まらない。
「──うあぁぁあッ!」
叫び声は傷の痛みの為ではなく。未だに彼の愛しい女神をその腕に抱えている皇帝への怒りだ。
王子の肩から吹き出した鮮血に、茫然と事態を見つめていたアランが正気に戻って叫ぶ。
「ラセイン様!!無茶です!」
引きつるように痛む喉で無理矢理に主を呼んで、彼もまた女神へとひた走る。主同様に、目の前で起こったことが信じられず、けれど女神を王子の腕へと取り返さなくてはという一心で。立ちはだかる敵に、剣を振り上げた。
「邪魔だ、どけぇえッ!」
取り囲むドフェーロ兵をなぎ倒して、ただ彼らの元へ。
皇帝は自分に迫る王子と瞳を合わせ、愉しそうに嗤う。そして──その腕から無造作に、女神を放り投げた。
「──っ!」
使い物にならなくなった片腕と反対の手を伸ばし、セイは愛おしい恋人の身体を受け止める。血まみれの自分の手が視界に入って、ああ、ディアナを汚してしまう、などと妙に冴えた思考で考えて。けれど迷わずに彼女を抱き締め、その顔を覗き込んだ。
自分の意志とは別に指先が震えているのをどこか不思議に思いながら、彼女の髪をかきあげてその頬に触れる。
「ディアナ」
ただ眠っているような、美しいその顔に囁く。
「ディアナ、目を覚まして下さい。起きて。フォルレイン、治癒魔法を──」
傍らの剣は答えない。精霊の波動も、自分の魔力も何も感じない。
同じように、主の元へ駆け寄ったアランも、王子から一切の魔力が失われていることに気づき、息を吞んだ。
「ディアナ。お願いだ、目を開けて。僕から離れないで。あなたは僕の妻に、セインティアの王妃になるんだ。ずっと傍で、一緒に」
言い募るアクアマリンの瞳は、ただ愛おしいたった一人を映し続けて。けれど彼の抱く少女の身体は、鼓動も熱も失われてそこに在るだけ。ただ美しいだけの──躯。
他に何一つ目に入らない王子へ、剣を拾い上げた皇帝がその首を狙って振り下ろした。
「ラセイン様!」
アランが自分の剣で受け止めるが、凄まじい力に歯を食いしばる。
まだ広間には兵士が残っている。自分だけでこの皇帝と兵士達の相手をするのは無理だ。
王子の近衛騎士は状況を判断して、皇帝の剣を受け止めたまま、セイへと呼びかけた。
「ラセイン様!しっかりして下さい!」
ちらりと見やれば──血に染まった髪の間から覗くアクアマリンの瞳が、虚ろな光を浮かべてアランを見上げていたことにぞっとする。滴り落ちた血が涙のように頬を伝って、狂気すれすれの──否、壊れてしまったかのような、主。
腕を振って皇帝の剣を弾き後退させると、アランは王子を振り返った。
「ご無礼を」
思いっきり、その頬をひっぱたく。瞼が熱い。涙が滲みそうになるのをこらえて、わざと感情を抑え込んで低く呟いた。
「どうか今は御身をお護り下さい。我らの王子」
「……ああ」
返事が返ってきたことにホッとしながら、アランは立ち上がる主に手を貸して、彼を背に庇う。
主以外を受け付けない退魔の剣に、一瞬怯みながらも掴めば、拒絶されること無く彼の手に握られたため、それを主の腰の鞘に戻した。
セイは片腕が使えない。もう片方はディアナを抱えていて、実質的には両手が塞がっている。アランも少なからず傷を負っていて、ここからどうやって逃げようかと見回していたが。
「アラン、お前だけでも……」
王子が彼の背後で呟いた。この状況なのに、それが酷く無防備な色に聞こえて、思わず振り返れば。彼の主は蒼白な顔で、床に片膝をついたところだった。
──失血し過ぎてる。このままでは王子の命も危ない。
「こんなときこそ出番だろうが、陰険魔導士──」
「──呼んだか?」
思わず毒づいたアランの声に被せるように響いた、低い艶のある声と、視界に広がった銀色の長い髪に。この時ばかりは安堵し、感謝した。アランの思いを読んだかの様に、その場に現れたシーファは口の端を上げかけて──セイの様子に眉を上げる。魔導士の彼には、すぐに状況がつかめたのだろう──王子の身体から失われた魔力と、動かない女神の意味するそれ。
シーファは一気に厳しい表情になって、白い杖を大きく振りかざした。
「お仕置きタイムだ、馬鹿者共め!我が前の敵を蹴散らせ、召喚──地竜!」
銀の魔導士の魔法によって現れた地竜が、その咆哮で広間を寸断し、ドフェーロ兵達を瓦礫の下に埋めていく。
セイは夢のように現実味の無い視界でそれを見つめていた。漆黒の鎧は見失ったが、皇帝を一瞬でも探そうとしたのは、ただ自分の意識のどこかが反応しただけのこと。
ずっとずっと、彼の心を占めているのは、ただ一人。
「ディアナ……」
彼女に寄り添うように。セイは意識を失った。
**
元は客室であった場所は、他より荒廃が進んでおらず、しばしの休息場所としてレイトが見つけた場所だった。
シーファの魔法で運び込まれ、意識を取り戻してからも女神の亡骸を離そうとしない王子に、皆痛ましげな視線を向けて。けれど誰一人、無理に引き離そうとするものは居なかった。
クレスからイールに戻った女神の相棒は、彼女の変わり果てた姿に酷く取り乱し、逃げるように窓から飛び去ってしまった。隣の部屋の奥の寝台には眠っているリルディカと、彼女に付き添うレイトとリティアが居るが、開いたままの扉からは時折彼女のすすり泣きが聞こえてくる。
腕を組んで壁にもたれかかったままのアランは、俯いて一言も言葉を発しない。
寝台に積まれたクッションに身を預けたセイの傍らでは、魔導士の友人が魔法を掛け続けていた。
「よし、血は止まったな。肩の治療をする。本当に無茶だな、君は」
シーファがセイの動かない肩に手を触れた。血でべっとりと汚れたそこを、治癒魔法の輝きが包み込んでいく。それをぼんやりと見ながら、セイは友人へと乞い願う。
「シーファ……ディアナを、助けて下さい」
聖国の太陽と呼ばれた美貌を、今や絶望に染めて呟いた王子の言葉に、魔導士は悲痛な表情を返した。銀色の髪を魔法の光が青く照らし出す。
「ラセイン……人を生き返らせる魔法は無いんだ。すまない」
──知っている。
以前にディオリオに自分が言った言葉を思い出す。
『死者を蘇らせる魔法などない。喪った命は取り戻すことなど出来ない。だからこそ尊いのだと知っているはずだ』
──よくも言えたものだ。
自嘲気味にかすれた頭で考える。
今のセイならば決して言えないだろう。縋るものがあるなら、きっとディオリオと同じ真似をする。ディアナを取り戻すためなら、悪魔とだって手を組む。
魔法を帯びたシーファの手は温かくて、嫌でも腕の中のディアナの冷たさを感じてしまう。彼女のその身体を引き寄せて、柔らかな髪に顔を埋めた。
誰よりも大事なひと。なぜ護れなかった。
セイは自分を責め続ける。何度も何度も、あの瞬間が瞼の奥に繰り返されて、涙さえ出ない。時間を戻せるならと、何度願ったか分からない。命を取り戻すのと同じく、叶わない願いを。
寝台の側に置かれた退魔の剣はやはり何の反応もなく、これほどにフォルレインを遠く感じた事はない。
魔法大国の王子として生まれ、フォルレインの主であったことが、彼の誇りだった。
──今は、それも失った。
治療が終わると、シーファは黙って立ち上がった。アランに視線を向けると、彼は目だけで頷き、二人は隣の部屋へと移って扉を閉める。王子に気を遣ったのだ。今だけは──二人きりにしておいてやりたかった。
彼らの気配が無くなると、王子はディアナの肩を引き寄せて髪を撫でる。恋人と二人きりの時にそうするように。
「……実は最近、本格的に結婚式の準備を進めてたんですよ。驚かせたくて、あなたには黙ってましたけど」
ポツリと呟いたセイは、腕の中の女神の額に唇を押し当てる。
「花嫁姿のあなたは、綺麗だろうな。姉上は絶対に赤いドレスだって言うんですけど、母上は緑推し。僕はその瞳の紫も良いなと思ってるんです。ああでも、あなたは何でも似合いますから、いっそ全部順番に着てしまいましょうか」
思い出すのは、満天の星空の下でフォルディアス湖を見下ろす、ディアナの微笑み。
自分に向ける、優しい柔らかな笑顔。
剣を取る、凛々しく美しい燃えるような表情。
頬を染めて、けれど嬉しそうに彼を見つめる瞳。
──紫水晶の瞳から零れ落ちる、涙。
「思い出すあなたの最期の顔が、泣いている顔だなんて──」
言葉を詰まらせた彼は、恋人を強く抱き締めた。
「もう一度、あなたの可愛い声を聞かせて。その綺麗な瞳で僕を見て。ディアナ──僕を愛していると、言って。僕も何度だって伝えるから。あなたが恥ずかしがって怒るくらい、ずっと」
そっと、その唇にキスを落として。祈るように、囁いた。
「愛している、ディアナ。僕の月の女神」
**
隣室に入った途端、寝台の前で跳ね上がるように弟子の少女が顔を上げる。椅子から立ち上がって師へと縋り付いた。そのまま彼の胸で泣く少女の頭を抱え込んで、シーファは彼女の背を宥めるように撫でる。
アランは片手で顔を覆って壁に背を付き、そのままズルズルと座り込んだ。
「また、俺は……守れなかった……」
呻くように落とされた言葉に、シーファは苦々しい思いで彼を見下ろす。
王子の怪我と様子を見ただけでも、皇帝とラセインの戦いは壮絶だったのだとわかる。その一部始終を、傍で見ていながら何も出来なかった彼の悔しさと哀しみは計り知れないほどだろう。
ラセイン王子ならきっとアランの肩を抱いて、寄り添って慰めるかもしれない。けれど幼馴染で一番の理解者同士のはずである彼らは、今は誰よりも傷ついてお互いに寄り添えない。
銀の魔導士はリティアを抱きしめたまま、黙ってアランの隣に腰を降ろす。彼には何も慰めることなどできない。伝えるのはわずかに触れた肩の熱だけ。
──アランの肩が震えていたのには、気付かないフリをした。




