プロローグ
キャロッド公国を突然襲った災厄は、漆黒の鎧を纏った男の姿をしていた。
「──これは何のつもりだ、なぜ貴様が我らの国を襲う」
キャロッド大公ヴァイスは玉座にもたれかかって歯を食いしばる。その身体は決して浅くは無い傷と血に塗れ、荒い息をつくその表情は苦悶を浮かべていた。彼の目の前に鎧の男が立ち、それを無感動に見下ろす。
「気に入らぬのだ。お前とこの国から、女神の残り香がする。あれは私のものだ」
漆黒に見えた瞳に赤い光が走り、男はその手に握った剣を振り下ろした。ヴァイスは身体を捻ってかろうじてそれを避けるが、剣圧に吹っ飛ばされて壁に背中をしたたかに打つ。痛みに呻いて、揺らぐ視界の向こうで、漆黒の男にローブの魔導士が近寄ってきた。ちらりと見えた魔導士は人ではない。ローブから溢れる朱金の髪と、長い尖った耳は、エルフだろうか。
「──月の女神は、暁の巫女を拾ったか」
愉しげに細められた瞳。漆黒の男はヴァイスを眺め、手の中の魔弾銃を弄ぶ。
もともとはこの武器の引き渡しを要求されたのだ──彼の国に一方的に。それを拒んだ途端の襲撃だった。
「これは貰っていくぞ、キャロッド大公。面白い玩具を造ってくれた礼に命は助けてやろう」
男の言葉に、お前の為に造ったわけではない、と言いたかったが、ヴァイスの口から漏れたのは血とわずかな息だけ。それにもう見向きもせず男は身を翻し──魔導士と共に消えた。
──リルディカ、ディアナ。
ヴァイスは自らも負傷しながら自分を助けに来ようとする兵士達の足音を聞き、その中の一人の腕を掴む。
「セインティア王国に警告を──ドフェーロの皇帝が月の女神と巫女を狙っていると!魔弾銃と設計図を奪われたと知らせろ……!」
キャロッド公国軍はその日、一夜にして壊滅状態まで追いつめられた。
青の聖国がその知らせを受け、王宮に激震が走るのは──この数刻後のことだった。
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「キャロッド公国がドフェーロ皇国に陥とされました」
セインティア王国王子の執務室。
リルディカとレイト、ディアナを前に、王子はその美貌を曇らせて厳しい声で告げた。彼の言葉を補足するように、アランが口を開く。
「ヴァイス大公は命はとりとめたものの、重体。皇国は魔弾銃を奪っていったそうです」
リルディカが息を吞み、悲痛な声を漏らす。
「ヴァイス様……!」
「皇帝はディアナとリルディカ嬢を狙っています。ヴァイス殿の容態は気になるでしょうが、今は聖国から出ないように。レイトはリルディカの護衛に、アレイルはディアナの護衛について下さい。全員、しばらく王城に滞在を」
セイの指示に、レイトはしっかりと頷き、返事が返らないハーフエルフにアランが視線を向けた。アレイルは青い顔をして、心ここにあらずと言った様子で立ち尽くしている。
──もともと、彼はドフェーロの皇帝に仕えていたハーフエルフだ。皇帝の命でディアナを手に入れようとしているうちに、彼女を深く想うようになって迷い、あげく皇帝に見放された。彼の兄リエイルは安否は不明だが、生きていればきっと今も皇帝の傍に居るのだろう。
「アレイル。皇帝と兄に刃を向けられないのなら、君は外れなさい」
アランはやんわりと、けれど近衛騎士として揺るぎない口調で命じる。アレイルはハッと顔を上げて、ディアナを見つめた。彼女はまっすぐにアレイルを見つめ返して、けれど何も言わない。ただ、その目に疑いの陰りなど欠片もない。朱金の髪のハーフエルフは、何かを思う前にただ、それに応えたいと口を開いた。
「──俺は、ディアナを護る」
女神から王子へと視線を移せば。彼はアクアマリンの瞳にただ淡々とアレイルを捉えていて。もし少しでもアレイルの迷いを感じ取れば、きっとそれはアレイルを貫く氷になる。背筋にぞくりとするものを感じて、ハーフエルフは口を引き結んだ。
リルディカとレイトは侍女と護衛兵に連れられて執務室を下がり、アランはそれとなくアレイルを続き部屋に連れ出す。セイとディアナ二人きりになると、王子はソファに座る女神の前に来て──その膝を着いた。
「セイ」
驚いたように彼を見るディアナの両手を取って。彼はやや下から覗き込むように視線を合わせる。
「不安ならそう言って。我慢しないで僕に頼って。あなたの涙ひとつ、見逃したくはありませんから」
彼女がたとえ俯いてしまっても、その顔が見えるように。女神の前に跪く王子に、ディアナは声を失った。
ドフェーロ皇帝の圧倒的な闇と力。ディアナに大きな傷をもたらした、彼。ディアナの両親を殺し、兄を死なせて形見の指輪を奪ったままの皇帝。セイの従兄弟にあたるというのに、血族など何とも思わない冷徹な男。
──できればもう二度と会いたくないと、そう思っていたのに。
「怖い……」
ポツリと言葉にしてしまえば、止まらなかった。
あの時とはもう違うと。セイの隣に迷い無く立てる自分になったと思っていたのに。
「皇帝が怖い。あの人を前にしたらきっと、暴走せずにはいられない」
「僕が護ります、ディアナ。僕の愛しい女神。あなたを彼の前に独りで立たせたりはしない。たとえ暴走しても、僕が止めてみせる」
ディアナと視線を合わせて。セイは決して逸らさない。強い意志と愛情を込めたそれに、次第に彼女は落ち着いていく。両手を絡めたまま、二人は額を合わせて。そうして寄り添って静かに夜を迎えた。
月の女神も青の王子も知っていた──それが嵐の前のひとときだと。
王子の執務室から自分に与えられた部屋に入ったリルディカは、蒼白になったまま窓際に駆け寄る。窓を開けて見つめるのは──東。キャロッド公国の方角だ。そして両手を組んで額に当て、目を閉じた。
ヴァイスの気配を辿って意識を飛ばす──
「リルディカ!無茶をするな」
レイトがそれを遮った。彼女の肩を掴んで、沈みかけた意識を浮上させ、巫女の魔力を使おうとする彼女を止める。
「ヘタに力を使ったら命に関わる」
「でも、ヴァイス様が」
リルディカの悲鳴混じりの声に、レイトは彼女を抱き締めた。ポンポンとその頭を撫でて、落ち着かせようと微笑む。
「あの方なら殺しても死なない。だろ?」
「ええ。ええ、そうね」
動揺はいくらか治まった。巫女はレイトへと頷いて、軽く首を傾ける。
「少しだけ──無事を確認するだけ。それならいいでしょう?」
彼女の願いに彼は戸惑うが、それでリルディカが安心するのなら、と息を吐いた。
「無理はするなよ」
レイトの許しを得て、リルディカは再び瞼を閉じる。その意識が鳥のように、光のように、飛んでいく。
光の先に、ヴァイスの波動を掴みかけて──
突如、漆黒の闇が、彼女の目の前に広がる。まるで蜘蛛の巣の様に。
『こんなところまで散歩か、巫女姫。独り歩きは悪い狼に捕まると教わらなかったかな』
重低音の響きに気付いた時には、彼女の意識は赤い光に絡め取られていた。
「──きゃああ!」
リルディカの意識と同じく、現実の身体も悲鳴を上げて。纏わり付く闇から逃れようと必死にもがく。
「リルディカ!どうした!?」
急に様子の変わったリルディカを、レイトが覗き込むが──
『捕らえし意識を糸とし、鎖とし、我が元へ』
聞き慣れない魔法の呪文が聞こえ、リルディカの身体を囲むように光が現れた。それは光で描かれた魔法陣だ。突然現れたそれが、彼女の体を閉じ込めたまま光を強めていく。
「っ、レイト、離れて!“召喚”される──!」
ハッと顔を上げたリルディカの叫びに、レイトは逆に彼女をしっかりと抱え込んだ。光は二人を無理矢理に中心へと引きずり込む。必死で抵抗しても全く逃れられず、彼らの身体はどんどんと沈んでいく。
「くッ──」
レイトが片手でホルスターから魔弾銃を引き抜いた。壁に向かって撃つと、銃痕と共にその周りを炎が焼く。一瞬の火は火事になるようなものではないし、すぐに精霊が消し止めるだろう。何より、きっとアランが異常を感知してくれるはずだ。
薄れていく意識の中で、それでも彼はしっかりとリルディカを腕に抱き締めた。




