失い続ける
「な、に?」
リルディカは辺りを見回す。人ではない、魔法の気配を交えた言葉は、誰にでも届くものではない。王宮を飛び回る精霊の姿は珍しくも無いが、意志を持って話しかけて来るのは初めてだ。けれどその姿が見えず、彼女は声を追って歩き出した。
『失われし王国の王女、失った恋を嘆く巫女。あなたは無くしてばかり』
声は彼女を慰めるように、優しく囁く。だからつい、フラフラと誘われるままについて行ってしまう。廊下の奥へ、奥へ。
リルディカが入った事の無い離宮までたどり着き、声はそこで途切れた。気付けば目の前に重厚な扉がある。繊細な美しい細工で飾られているように見えるが、刻まれているのは魔法の文字だ。指先でそれに触れるとぱちりと音がして、開いた扉の向こうにはたくさんの魔法の道具が並んでいた。中に進むと、精霊達の声がリルディカを取り囲む。
『可哀想な巫女。子供の姿が嫌なのね?』
『ならば大人の姿をあげよう』
『美しくて素敵な女の姿を』
『崩れかけのそんな身体は捨ててしまえばいい』
掛けられた言葉に、ハッと気付いた。いけない。この言葉を聞いては。優しいそれは、じわじわと彼女に染みる甘美な毒だ。精霊達は善悪の意識などない。リルディカのためだと純粋に思い、呼びかけているが、これは──。
「やめて……違うの。私は」
光の渦に囲まれて、リルディカは悲鳴を上げた。咄嗟に伸ばした手の先に──何かが触れて。掴んだ瞬間に、それが間違いだったと気付く。
「嫌、助けて──」
名を呼ぼうとして。
だれを、呼ぶの。
『あなたは失い続けている』
精霊の声がまた聞こえる。リルディカは耳を覆った。
知っている。もう何一つ、この手には残らないのだと。誰の名も、呼べないのだと。脳裏に浮かんだ姿はすぐに掻き消え、その名の音でさえ口にできずに。
躊躇ってしまった瞬間に、光が彼女を包み込んだ。
*
「──ラセイン様、第四魔導宝物庫の扉が開きました」
王子の執務室で、アランがハッと顔を上げた。
近衛騎士が感知したそれに、セイは怪訝な顔をする。魔法の掛かった品物を保管している部屋の扉には魔法の鍵が掛かっていて、王族の許可無く開ける事は出来ないはずだ。しかもその場所は──
「第四……たしか呪いの道具を納めてある部屋だな。誰が許可を?」
王と王妃が諸外国へ視察に行っている今、その許可を出すのはラセイン王子だけだ。セアラ姫でさえ勝手には開けられない。アランは中空に向かって命じる。
「第四宝物庫について報告を」
『ラセイン王子、フォルニール隊長、申し訳ありません』
現れたのは城の警備をしている高位精霊だ。ふわりと光る虹色の身体を揺らめかせて、ふたりへと礼をする。
『時を歪めし巫女に、我らの同胞が扉を開いたそうです。巫女は人よりも我らに近いために、精霊達は仲間とみなしてしまったようで』
「……何?」
セイは眉を上げて聞きとがめた。
魔力を奪われ身体の時が歪んだリルディカは、人間よりも精霊に近い存在だとアレイルが言っていたのを思い出す。けれど王に支配されている城の精霊までもが惑わされてしまうとは、よほど彼女の生命力は希薄なのだろうか。
しかし今はそれを考えている場合ではない。
「で、精霊達がリルディカ嬢に与えた魔法は?」
『“転換の聖杯”を』
精霊の言葉に、セイは顔色を変えた。側近を見やれば、アランが頷いて精霊に命じる。
「転換対象を探せ!見つけたら直ちに報告しろ」
精霊は頷いて消え、アランは主を振り返った。
「転換の聖杯って……確か」
「あれは未完成品だ。制作者が完成させられずにそのまま死んで、王家で引き取った」
セイは答えながら、執務机から宝物についてのリストを探す。いくつかあるファイルから一つを抜き出して、目的のページを迷いも無く開いた。
「ラセイン様、まさか何千とあるリストを全部覚えておいでで?」
それを見たアランの若干引き気味の問いに、美貌の王子はさらりと答える。
「当然だろう。僕を誰だと思っている」
「……魔法大国セインティアの、世継ぎの君にございます。ついでに我らの自慢の、強くてかっちょえー美人王子様でございます」
余計な形容詞と共に騎士の礼をとるアランに、セイはファイルのページを示した。そこに描かれていたのは金の聖杯。表面に刻まれた花のような紋様は全て魔法の術式だが、それは杯の半分ほどを埋めているだけだ。
「転換の聖杯がなぜ呪いの宝物と区分されているか、分かるな?転換の魔法は、“他人の身体に自分の魂を乗り移らせる魔法”だ。つまりは──肉体の乗り換え」
王子はアクアマリンの瞳を煌めかせて、言葉を継ぐ。
「他人の身体を奪って生きる、醜悪な魔法だ」
*
リルディカが目を開けると、そこは王宮の一室だった。といっても彼女が居た部屋ではない。応接間だ。絨毯の上に倒れていたことに気づき、起き上がろうとして、見下ろした自分の手がいつもより大きいことに気付く。
「え」
その袖口は白いフリルのついた紺色のワンピース。膝の上は白いエプロン──侍女の服だ。両手を見下ろし、やはりそれが幼いそれではないと気付くと、慌てて自分の顔に触れる。いつもとは違う感触に、ざっと顔が青ざめたのがわかった。立ち上がって、鏡の前に走る。そこに映ったのは──。
「だ、れ……」
まとめられた金髪にキャラメル色の瞳。健康そうにふっくら色づいた頬と唇。それは幼い巫女ではなく、リルディカの本来の年頃の若い娘だった。
直接の知り合いではないが、見覚えがある。セアラ姫の侍女の一人だったような気がする。
「そんな……」
彼女は意識を失う前に精霊達が言った言葉を覚えていた。
自分の姿を捨てて、新しい身体を手に入れろと。それは、他人の身体を乗っ取ることを意味していたのだ。
リルディカは、息を飲む。
──とうとう、自分の身体まで失った。
「精霊達!お願い、戻して!私はこんなこと望んでない!」
リルディカは叫んだが、精霊の言葉は聞こえない。なんの応答もなく、いつも城内を飛び回っている小精霊すら現れない。彼女は慌てて部屋を飛び出して、先程の離宮へと向かった。
「あらどうしたのマリアベル、そんなに急いで」
途中、この身体の同僚らしき侍女に声をかけられた。どうやらこの身体の持ち主はマリアベルというらしい。それに返事もできずにリルディカは先を急ぐ。あの部屋へ近づけば、何人かの警備兵がざわざわとそこを取り囲んでいた。
「こら、立ち入り禁止だ」
「あの、でも」
廊下の先へ近寄らせてもらえずに、隙間から必死で覗くと、部屋から何人かの兵士と、レイトが出てくる。リルディカの幼い身体はぐったりと意識を失ったまま、彼に抱えられていた。
「リルディカ!おい、しっかりしろ」
呼びかけるレイトの声が聞こえて、リルディカは思わず叫ぶ。
「レイト!私はここよ!」
彼は一瞬顔を上げたが、廊下の先に集まる者の中に知った顔がないと気づき、すぐに腕の中に視線を戻した。そのまま魔導師と兵士と共に、奥へと行ってしまう。
「レイト!」
リルディカは声をあげるが、兵士に阻まれて進む事が出来ずに、仕方なくそこから離れた。
王子かアランか、ディアナかセアラ姫、イールかアレイルでもいい。誰かに伝えなければ。
走り出しかけて、窓に映った自分の姿に気付く。
若く美しい娘。幼い子供ではなく、レイトの隣に居てもおかしくはない、年頃の──
『その姿ならきっと、恋が叶う』
意識を失う前に聞いた、精霊の声が耳に蘇って。
──リルディカの足を止めさせた。
**
騒ぎを聞きつけた王子によってリルディカの身体は王宮の客室に通され、今はレイトがその傍に付き添っている。セイは、リルディカの受けた魔法は一時的に身体から魂が離れてしまうものだと説明した。
未完成の『転換の聖杯』が正しく機能したか分からない状態で、迂闊に他人の身体を乗っ取ってしまったとは言いづらい。事情を知るのはセイとアラン、聖杯の存在を知るセアラ姫に留めておき、リルディカの意識を探すことにしたのだが。
セイは近衛騎士に問う。
「アラン、お前感知できないか」
「……巫女姫の魔力、今ほんっと少ないんすよ。で、もしこれが本気で他人の身体に転換されてたら、巫女姫が魔法でも使わない限り、まず辿れません」
主の問いに彼は難しい顔をして答えた。しかしすぐにぽん、と手を叩いて顔を上げる。
「こういう時はイールさんかアレイルじゃないっすか」
アランの言葉にセイはこめかみを押さえた。その二人を使うことは、つまりディアナに話が行ってしまうという事だ。
なるべくならリルディカ絡みのことで彼女に心配はかけたく無かったが、どちらにしろ隠し通す事は出来ないし、彼女の月の力も必要になるかもしれない。
「仕方ないか……まずは二人に探して貰おう。未完成の魔法だから放っておいても元に戻るだろうが、リルディカ嬢の状態を考えると危険だ」
セイはそう言って、それから自分の婚約者を呼ぶように侍従に命じた。
*
侍女の姿をしたリルディカが客室に入ると、レイトは寝台に眠るリルディカの身体の傍に座ったまま、俯いていた。サングラスは外されて、彼の胸ポケットに差し込まれている。いつもは隠されたブルーグリーンの瞳が揺れた。
「ごめん、リルディカ。俺が一人にしたせいで。……守らせてくれって、言ったのにな」
微かな呟きは、彼女に気付かずに落とされたもので。聞いてしまったリルディカは息を吞んだ。組んだ両手を額に当てて眉根を寄せるレイトの姿に、複雑な気持ちになる。自分のために彼が苦悩している罪悪感と、心配してくれている、という喜び。
つい、そっとその肩に触れて。昔のように指先でそっと撫で──
「……っ!?」
急にバッと振り返ったレイトに驚いて、リルディカは咄嗟に手を引っ込めた。彼はひどく驚いた顔をして、瞬きをしてから、その表情が見る見るうちに曇る。
「……誰?」
その硬い声に、リルディカは今の自分の姿を思い出した。
彼女とレイトは面識が無いらしい。
リルディカもこの姿の持ち主のことは良く知らないので、彼女になりすますのは無理がある。ひとまず知り合いではなかったことにホッとしながら、先程呼ばれた名を必死で思い浮かべた。
「……マリアベルといいます。セアラ姫の侍女です」
「あ、ああ、そう……びっくりした。……かと」
それを聞いたレイトが何かを言いかけたが、言葉の最後は彼女には聞こえない。
寝台に眠る自分自身の身体を覗き込めば、鏡で見る自分とは少し違う。更に小さく細く見えるのは、魂が抜けている身体だからだろうか。それとも──それほどに弱っているからなのか。その小さな手をじっと見下ろしているレイトの横顔は、リルディカ以上に顔色が悪い。
「……あなたのせいではないわ。自分を責めないで」
硬く強ばった彼の顔を何とかしたくて、リルディカはそっと囁いた。
レイトの責任ではない。精霊に縋ってしまったのはリルディカ自身の弱さだ。けれど彼は首を横に振り続ける。だからもう一度、その背に宥めるように触れた。
「私、彼女を良く知っているの。リルディカはあなたに感謝している。遠い魔法の国までついて来てくれたこと、今も傍に居てくれること」
リルディカの姿では言えなかった言葉が、知らない誰かだと思えばすんなり口に出来た。
そう、ずっと感謝している。そして──今でも想っている。だから、レイト。苦しまないで。
「リルディカは、あなたのことをとても──大事に想っているの」
真実と、ほんの少しのごまかし。けれど、小さな少女ではそれすら言えなかった。
レイトは顔を上げて、金髪の侍女を振り返る。何かを探すように、じっと彼女を見つめて──やがて微かに微笑んだ。先程よりはよほど穏やかな顔をして口を開く。
「ありがとう」
リルディカもつられて微笑みかけて──
「──マリアベル」
彼の呼んだ名に、凍り付いた。
それからは良く覚えていない。
いくらかレイトと話をした。昔のように対等に、普通に。彼の話はリルディカには聞けなかったことばかりで、楽しかった。
キャロッド公国に居た頃には憎しみばかりを、セインティア王国に来てからは遠慮ばかりを向けていたレイトが、リルディカを普通の娘として、大人の女性として扱ってくれる。
ふとした時に向けられる彼の瞳が、揺れる亜麻色の髪が、声が、リルディカの心臓を叩く。いつの間にか、リンデルファでそうしていたように、レイトに微笑みかけていた。リルディカの言葉に彼が視線を合わせて頷くのを見つめて。
だんだんと彼の表情が和らいでいくのが嬉しくて、けれど彼がリルディカではない女性の名を優しく呼ぶ度に胸が痛んだ。
「マリアベル、出身は?」
少しずつ重なっていく痛みに耐えられなくなったのは、レイトにそうやって身体の持ち主のことを聞かれた時だった。
リルディカは知らない。マリアベルが何歳なのかも、兄妹がいるのか、好きな食べ物は何か。今、身体から追い出された彼女がどうしているのか。だから慌てて立ち上がった。
「わ、私、もう戻らなきゃ」
急にそそくさと出て行こうとする彼女に、レイトは怪訝な顔をして見送るが、けれどリルディカが扉を開ける直前に彼女を呼び止めた。
「あの、良かったらまた来てくれるかな」
指が震えた。
彼のこんな声を──知っている。
かつてはリルディカにも向けられた、甘い熱を込めた声。
「……話せて楽しかったよ。だから、また来てくれないか」
返事は出来ずに。ただ一つ頷いた。廊下に出て、足早に進む。使用人棟の場所は分かる。マリアベルの部屋も誰かに聞けばすぐに見つかるだろう。泣き出しそうになるのを必死で堪えた。
私よ、リルディカなのよ、そう言いたいけれど、きっと言ったらレイトの笑顔は二度と見られない。
彼のあの顔は、リルディカではなく、マリアベルに向けたものなのだ。
「あ、マリアベル!どこに居たのよ、ちょっとこれお願い」
廊下を曲がったところで、年かさの侍女に押し付けられたワゴンに、リルディカは咄嗟に受け取ってしまって、それがお茶のワゴンだと気付く。
「ラセイン王子のお部屋よ、急いでね」
断る間もなく、侍女は行ってしまった。いつもならセアラ姫の侍女に王子へのお茶など頼まないはずだが、リルディカが起こした騒ぎで色々とばたばたしているのだろう。夕食の支度で忙しい時間に、何もせずに一人で泣く暇など、侍女には無かった。




