覇王と巫女
気を失ったのは、一瞬だけだった。ぴちゃん、と頬に触れる水滴で女神は目を覚ます。
「ここは」
「気がついたか」
すぐ耳元で聞こえた声に、ディアナは思わず身を捩った。岩の上に座り込んだ覇王に背中から羽交い締めにされているのだと気づき、逃れようとするが、びくともしない。
「暴れるな。そこら中岩だらけで足場が悪い。ヘタに動くと水の中に落ちるぞ」
そう言えば彼女たちが居たのは入り江だったと思い出す。岩場の地下があるとは思ってもみなかったが──そこにヴァイスと共に落ちたのだ。上を見上げると、結構な高さに穴が見える。そこから届く光で、かろうじて周りの様子が確認できた。
「この高さを落ちたの……よく無事だったわね。もしかして、あなたが庇ってくれた?」
抱え込まれているのは、落下の衝撃から護ってくれたのかと。そう問えば、ヴァイスは低く笑った。その手に力を込めて。
「おめでたいな、月の女神。俺はわざと落ちたんだ。あの地竜が追いつめられるとどうするか知っていて」
彼の言葉に、ディアナは目を見開いた。
「どうして?」
「あなたと二人きりになりたかったから、と言ったら?」
背後から回された腕が、ディアナの肩を撫でる。彼女の髪を掻き分けてその白い首筋を露わにした手が止まった。
「青の王子は独占欲も強いな。見せつけてくれるものだ」
つ、と触れたのは先程セイが噛み付いたところで。ディアナ自身には見えないが、きっと彼の痕が残されているのだろう。ゆっくりとそれを確認するように撫でられて、その感触に女神は身を竦めてヴァイスを睨みつけた。
「私はリルディカとは違うわよ。膝に乗せられて大人しくあなたのために祈るとでも?私は戦いの女神なの。剣を取り、セイの隣に立つ。それが私よ」
覇王は楽しそうにそれを聞いて、呟く。
「ああ、そうだろうな。戦うあなたは美しい。誰よりも強い。あのラセイン王子があなたに溺れるのもわかる」
彼の手がディアナの手を絡めとった。
「この手は、剣のためにある。あなたは自分のために戦い、自分のために生きる人だ。だからこそあなたを俺の巫女にしたい。月の女神ならばリルディカのようにはならないだろう?誰かのためだけに流され、滅ぶようなことはしないだろう?──ずっと俺の隣に居てくれる」
その複雑な声音に、ディアナはヴァイスの顔を見つめた。
「あなた……」
その口を開きかけたとき──
「ヴァイス様。月の女神を解放して下さい。あなたの巫女は私です」
透き通るような高い声が響き、薄暗い地の底に現れた巫女に。ディアナが驚いて目を見張った。
「リルディカ!どうしてここに」
「ヴァイス様と私はまだ繋がっているから。私には彼の考えも居場所も分かるのです」
薄紫の髪を揺らして、小さな巫女は覇王に近づく。イールが一緒に居たはずだが、彼を撒いてきたのだろうか。ディアナの視線も構わず、リルディカは彼女達の目の前まで歩み寄った。
「我が覇王。私が傍にいる」
「お前にはもう用はない、リルディカ。地竜も今頃はラセイン王子達が退治してくれているだろう。これからはレイトと生きれば良い。お前の真の望みだろう?」
ヴァイスは目を細めて嗤い、ディアナをますます強く抱き込んだ。胸を圧迫されて、思わず苦しげに咳き込む彼女を、巫女が気遣わしげに見る。
「俺は女神が欲しい。消えゆく巫女などではなく」
「私はどこにも行きません。もう、どこにも行けません。あなたの巫女になったときから、帰る場所も待つ人も居ないのです」
レイトがもう、彼女を前と同じように愛してくれるはずもない。小さな子供の姿はもう戻らない。この先止まっていた成長が進むとしても、リルディカの身体は脆い。いつ崩れ去るかわからないこの身を、誰かにゆだねることなど出来はしない。
「だから、良いのです。あなたの傍で消滅を待ちます」
ヴァイスとリルディカとの間には恋愛感情など無い──が、他人には理解できない絆は確かにある。
覇王と巫女はどちらも孤独だった。
ヴァイスは確かに列島を統べる大公だが、力こそ全ての海賊だ。そのために情など捨て、周りを切り捨てて、歯向かうものを滅ぼして、這い上がってきた。唯一で最強の覇王でありたいと。
そうやって2人は、誰とも分かち合えない望みを、お互いの力で叶えていた。依存なのか、共存なのか、同族意識なのかはわからないが──。
だからこそリルディカには、ヴァイスから離れることなど考えていない。いまさら、彼を独りにはしない。
「リルディカ……そんなのダメよ。誰も救えない。あなたも」
呟くディアナに、巫女は哀しげに笑う。
「私は、レイトが生きていてくれさえすればいい。望みは叶いました。だから、私がヴァイス様の望みを叶える番なの。あなたは国を統べることでもなく、覇王たることでもなく──傍に居てくれる存在が欲しいのでしょう?私が居ます。この身が滅んだなら、精霊となってでも」
小さな手が伸ばされて、覇王の腕に触れようとした、瞬間。
「お前はいつだって、そうやって何もかも独りで決める。勝手な事ばかり言うな」
その声と、風に乗って届いた覚えのある煙草の香りに、リルディカはぎくりと手を止めた。彼に続いて王子の声も響く。
「ヴァイス殿、僕は言いましたよ。僕の女神を害すれば、容赦しないと」
そこに居たのは、魔弾銃を構えたレイトと、剣を構えたセイとアラン。その後ろに居たシーファは剣を杖に戻して、その先に光を灯して地下を広く照らす。
「さあ、返してもらいましょうか。僕の愛しい人を」
セイがフォルレインに稲妻を纏わり付かせてヴァイスに向けると、覇王は口元を苦笑に歪め、溜息と共に両手を挙げた。その腕から抜け出したディアナは、まっすぐに婚約者の元へ駆けて行く。
「──セイ」
「良かった、ディアナ」
飛び込んで来た女神をしっかりと抱き締めて、王子はその髪に頬を埋めた。
けれどリルディカは動かない──動けない。レイトは銃を降ろして、彼女を見つめる。
「リルディカ。勝手に俺を諦めるな。俺にお前を許すチャンスも与えないつもりか」
彼女はハッと息を吞んだ。震える肩に、ヴァイスの手が乗る。
「──行け、リルディカ」
覇王の静かな琥珀色の瞳に、巫女は顔を歪めた。泣き出しそうに反論する。
「でも、ヴァイス様」
「──いい。もう……充分だ」
肩から滑り落ちた手のひらは、そっと巫女の背中を押した。
**
それからの彼らの行動は素早かった。
列島の強大な災厄であり守り神でもあった魔竜を失った混乱が、巫女やセインティア一行に向かないうちに、セイは自国の仲間と共にセインティアに戻ることにした。それは皆も賛成だ。キャロッド公国の今後は大公であるヴァイスが決めることだ。いつまでも他国の王子が居ては政治への過干渉と言われる可能性もある。
しかし、セイは帰還の一行に巫女と軍人の青年も含めていた。いつの間にヴァイスと話をつけていたのか、リルディカとレイトを青の聖国でしばらく預かることになったと告げ、アラン以外の面々を驚かせたのだ。
「私は……」
異を唱えようとしたリルディカだったが、ヴァイスは首を横に振ってそれを止めて。
「もう巫女の力は必要ない。失われた国の王女が存在意義無しにここに居ることは、要らぬ火種を招く」
素っ気ない言葉だったが、リルディカは彼の瞳に慈しみに似た光を見つけて、感謝と罪悪感に入り交じった顔で頭を下げた。ヴァイスはそのやり取りを眺めていたレイトに視線を向ける。
「レイト。リルディカをお前に返すが──本当の意味で王女を取り戻すのは難しいだろう。あとはお前次第だ」
言われた彼はちらりと巫女を見て、公主へと了承の代わりに視線を落とした。ヴァイスはその様子に苦笑を漏らし、セインティア王国の王子と月の女神へと向き直る。
「二人を頼む。青の王子、月の女神」
「我が名にかけて」
セイは言葉少なに、けれど真摯な表情で頷いた。婚約者を一時的にとはいえ狙われた彼からすれば、過ぎるほど誠実な態度で、アランは密かに主の忍耐力に感心する。が、その王子の手ががっちりとディアナの腰に回ったまま放さない様子に気づくと、「もうウチの王子様苦労症なんだから」などと溜息をついた。当の彼女はそんな不穏な様子にも全く動じずに、大公を見上げて口を開く。
「必ず、二人には幸せになってもらう。私達が見届けるわ」
「なんならあなただけは残っても良いのだぞ」
ヴァイスの言葉は、堪えきれなくなったフォルレインから漏れだした光と、青の王子の冷たい一睨みに遮られた。
もはや真夜中をとうに過ぎて、真っ暗な闇の中。キャロッド公国城の広い塔の上に一同は集まる。
転移魔法を発動させるために、銀の魔導士と弟子の少女の間ではまた一悶着あったようだが、結局はリティアが「秘石は自分で出します!!」と言い切った。弟子の勝利かと思いきや、師であるシーファは上機嫌だ。
「……シーファ、それどうするつもりですか」
ヴァイス達に聞こえ無いようにぼそりと問うた王子に、美貌の魔導士は隙のない最上級の笑顔を向ける。
「何のことだ?」
「しらばっくれるな!お前、一匹ちょろまかしただろ!」
アランも小声で悪友を糾弾した。
どうやら銀の魔導士は、魔竜のうちの最後の一頭を自分の使い魔として封じてしまったようで。魔法感知能力者である近衛騎士には、彼からじわじわ滲む強い魔物の気配が見えて気が気でない。セイは溜息まじりに友人へと呟いた。
「……ちゃんとあなたが責任もって世話して下さいね」
「ラセイン様!そんな、拾った犬猫みたいに!!相手は列島を滅ぼす暴走魔竜ですよ!?元の所に戻してらっしゃい!!」
「今更どこかに捨てるわけにもいくまい。これほどの魔物はなかなか居ないからな、召喚獣として仕込むことにする」
アランの悲鳴も全く異に介さず、最強の大魔導士は楽しそうに転移魔法の準備をし始める。王子はもはや諦めて、婚約者であるディアナを見下ろした。
彼らの会話の間、彼女は大人しくセイの腕の中でそれを聞いていたが、少し離れた場所でアレイルとイールと話しているリルディカを見てシーファに問う。
「地竜を残していることで、リルディカに負担になったりはしない?」
銀の魔導士は不敵に笑った。
「大丈夫だ。さすがに4体は危険だが、1体ならリティアが浄化できるからな。あなたが気に病むような事態にはするなとラセインに言われている。あなたの願い通り巫女は自由だ、ディアナ」
それを聞いてやっと女神は表情を和らげる。ぱっと恋人を見上げた。
「セイ、リルディカの為に色々考えてくれていたのね、ありがとう」
ところが、彼は困ったようにディアナを見つめ返す。珍しく迷いを含んだ口調で。
「僕はそんなに聖人君子ではありません。二人を迎えるのも彼らのことを思ってじゃない……ヴァイス殿に恩を売るのも、リンデルファの生き残りを我が国に囲うのも、政治的に有利だと思ったからです」
王子としての考えだと。そう言う彼の瞳が、かすかに傷ついているように見えて。ディアナは微笑んで彼の胸に額を付けた。
「うそつき」
彼女の言葉にセイは面食らったように目を見開いて──それから苦笑する。
「じゃあ、本当のことを言うと、僕はあなたのことしか考えていないんです。あなたに嫌われないためなら、なんでもしますよ」
そうしてその額に唇を落とす彼に。月の女神は微笑んだ。
転移魔法が発動し始めると、リルディカは光の向こうに見えるヴァイスを見つめ続ける。
強き覇王。孤独な王。私の望みを叶えてくれた人。
「……我が覇王」
呟いた言葉は彼に届いたのか。不敵な笑みに隠された彼の痛みを推し量ることすら出来ずに。
ヴァイス様。私はレイトを愛しているけれど──あなたが、大切でした。
そう想いを込めて。
瞳から涙が溢れた瞬間、リルディカの小さな手を包み込んだのは大きな男の手だった。隣を見れば、レイトが亜麻色の髪を揺らして彼女を見下ろしている。安堵したような、怒っているような、複雑さの入り混じった表情に、理由も分からずに心臓が大きな音を立てた。彼が口を開く。
「リルディカ、俺は──」
言葉は魔法の光に溶けて。
彼女が見たのは、失った故郷の最後の光景と同じ、暁の光が差し込む空だった。




