ある日の盲目的な想像。要は妄想。
中学の時、憂鬱な月曜日の一番憂鬱な6時間目にある総合の時間。
朝方までブルーライトを浴び続けた俺の体はすでにボロボロで今にも意識を手放してしまいそうだった。
そんな極限の状況下で、教壇に立つ我らが先導者は疲れを滲ませた声でこう言った。
――いじめが起きないようにするにはどうしたらいいと思いますか?5分時間を取るのでグループで話し合ってください、と。
もはや瞼に力を入れることは諦めたが無駄にまじめな我が性分は俺を楽な方向へと進ませない。
周りではやれ「友達を作る」、やれ「そもそもいじめられるような奴が悪い」など、中学生にしては皆真面目に話し合っているみたいだ。この45分が終われば解放されるという気持ちが萎んだ心に活力を与えているのだろうか。
――○○君はなんかあるー?
校則ギリギリ違反の髪色をした女子がそう聞いてくる。大は小を兼ねるというがクラスでもカースト上位のやつは当然のように小さいグループでも仕切り役になるらしい。適当さが隠せないほどに滲み出た義務感あふれる質問にはもはや笑みがこぼれてしまう。
正直、自分の意見を言うのはためらわれるのだ。理由は誰もが抱いたことのある幼稚なものなだけになおさら。自分がすでにクラスで浮いていることぐらいは自覚しているが、自ら笑いものになりに行くほど天高く上昇したいわけでもない。
そんな中途半端な協調性を織り交ぜた俺の言葉はひどくつまらないものだった。
この言葉の半分が協調性ならもう半分は自分ではない誰かだ。自分の言葉に自分が入ってない、なんて、
陳腐ななぞなぞでもやってるのだろうか。「自分」とは何か、なんてきっと過去未来を含めても答えれる人はいない。誰かの名前を付けられた証明を解くことよりも難解だ。
だから、言えるはずなどなかった。俺がつまらないと評した言葉よりも俺の脳内でキラキラと輝いていた言葉の方が面白いなどと思えるはずもなかったから。