シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
『シュリニヴァーサ・ラマヌジャン』 一八八七~一九二〇 三二歳
インドの魔術師と呼ばれた天才数学者ラマヌジャンは、怪しい香りの漂う公式を次々と発見した。それらは歴史的、論理的必然性がなく、突発的に編み出されたものがほとんどであった。そのためラマヌジャンがいなければ未来永劫誰にも発見されることはなかった公式も多かったかもしれない。普通の数学者とは明らかに一線を画していた。
ラマヌジャンはヒンドゥー教のカースト最上位であるバラモンの家系に生まれる。しかし身分は貧富に関係がなく、一家の生活は極めて貧しかった。
幼いラマヌジャンは母のコマラタマールから正統派バラモンとしての誇りと戒律を徹底的にたたき込まれた。
一五歳のときに『純粋数学要覧』という本に出会う。この本は大学初等レベルまでの公式や定理が羅列されているだけのつまらない本だった。この本に書かれている公式や定理はどのように導き出されたのか。ノートや鉛筆が買えないラマヌジャンは石板と蝋石を使って自分で導出を考える。その過程で数学の発見の喜びに魅せられる。優等生だったラマヌジャンは数学以外の教科に興味を持たなくなり、学校をドロップアウトする。
両親は二二歳になっても働かず、軒先で数学に没頭し続ける息子を心配し、幼妻のジャーナキを嫁に迎えさせる。ジャーナキは当時九歳だった。そしてラマヌジャンが二四の時に港湾局の経理部に就職させる。
職場でも数学が頭から離れないラマヌジャンに対して、彼の非凡さを感じ取った上司のイーヤーは、仕事をせずに数学を考えていていいと告げた。ラマヌジャンは周囲の目を気にせず数学に邁進した。
ラマヌジャンにはどれほどの才能があるのか? もし真の天才ならば、決して眠らせてはいけない。そう考えた周囲のバラモンたちは発見した定理を手紙に書きイギリスに送ることを勧めた。最初ラマヌジャンは三通の手紙をしたためるもすべて黙殺される。イギリスの教授達はインドの高卒の事務員から送られてきた手紙をまともに取り合わなかった。彼はめげずにもう一通したためた。この手紙がケンブリッジ大学の一流数学者ハーディーに届く。
ラマヌジャンの手紙は百以上の定理や公式の羅列ばかりで証明が一切なかった。しかもその内容は数学者であれば当然知っているような初歩的なものから、当時にしてみれば高度すぎる難解なものまで雑多であった。しかしその公式の息をのむような美しさに気付き興奮したハーディーは、すぐにケンブリッジ大学にラマヌジャンを招くことを決める。そしてラマヌジャンへ「証明を送ってくれ」と手紙の返事を出す。
ハーディーから返事をもらったラマヌジャンもまた興奮していた。しかしラマヌジャンは証明の必要性をまったく理解していなかった。自分にとって自明であるものになぜ証明が必要なのかが分からなかったのだ。証明を用意していなかったラマヌジャンは代わりに新たな公式の数々をハーディーに送りつけるのだった……。
証明がないという不安は残ったものの、ラマヌジャンの才能に確信を深めたハーディーはラマヌジャンの招聘をさらに勧めた。
しかし意外にもラマヌジャンはハーディーの誘いを断る。バラモンの戒律では海を渡ることは身が汚れるとされ固く禁じられていたのだ。
このままインドの英知を埋もれさせる訳にはいかないと考えたイーヤーは、ラマヌジャンを連れて巡礼に出かける。三日三晩神殿に泊まり神のお告げを待った二人はついに神の声を聞く。
「戒律を冒して海を渡れ」
ラマヌジャン二六歳、単身での渡英であった。
ラマヌジャンは毎朝一時間ほど祈りを捧げたあと、ハーディーに六個の新しい定理を持っていく日々を送った。(一般的には一年に一、二個がせいぜいとされる)
どのようにして発見したのかとハーディーが問いただしても「寝ている間に神様が教えてくれた」などと答えるばかりであったという。
ラマヌジャンは自らの定理を証明することができなかったため、証明を与え論文を書くことはハーディーの仕事となった。この名コンビが生み出す論文は数学界で賞賛された。
そのころ第一次世界大戦が始まっていた。食料危機に陥っていたイギリスで、ヒンドゥー教徒のラマヌジャンが食べられるものはほとんどなかった。ご飯にレモンを絞り塩をまぶして食べるというような食事をしていた。また、三〇時間ぶっ続けで数学の研究をして、二〇時間ぶっ続けで寝るというような不規則な生活をするようになった。そしてついにラマヌジャンは病魔に襲われる。
ラマヌジャンが衰弱しているころ、妻からの手紙も途絶える。実は妻に宛てた手紙は母にすべて捨てられており、見捨てられたと勘違いした妻は家出してしまっていたのだ。当然その事実を知らないラマヌジャンは妻から見放されたと勘違いする。
悪いことは重なる。トリニティーのフェローに推薦されていたラマヌジャンは人種差別により却下される。
鬱になったラマヌジャンはロンドンの地下鉄に飛び込むが、寸前で電車が停止したため未遂に終わる。
ラマヌジャンの自殺未遂を知ったハーディーは、慌ててラマヌジャンを王立協会のフェローに推薦する大運動を起こし、ラマヌジャンは無事王立協会のフェローとなる。この地位はイギリスの学者の憧れのポジションであり、高卒のインド人フェロー誕生は前代未聞だった。
病気の進行が止まらなかったラマヌジャンはインドへ帰国する。
病床では母と妻が常に罵り合いの口げんかを繰り広げており心安まることはなかった。
それでもラマヌジャンは最後の力を振り絞り『擬ゼータ関数』の発見という偉業を成し遂げ力尽きる。死の四日前まで石板を抱えていたという。
夭折した孤独の天才が残した三千以上の定理や公式の証明は残された数学者たちの仕事となった。
そしてラマヌジャンの死後数十年を経た現在、宇宙論などの分野で応用され始めている。