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婚前旅行は異世界ですか

作者: みずたに

短編を書きたかったのに、あれやこれや詰め込んだら長くなりました。


 目の前に広がる鮮やかな緑、緑、緑。目に優しいと言われる緑でも、周囲を背の高い草木で囲まれたらそうは思えない。正直不気味。鬱蒼と茂る樹々を見回して、隣で腰を抜かしたように座り込む男性に視線を向けた。男はあんぐり口を開けて、天高く聳え立つ樹木を見上げている。震える唇から、これまた震えた声が絞り出された。「どこだ、ここ」

 ほんとそれ。私はため息を吐いて、男に倣う様に顔を上げる。立派に育った樹々が静かにこちらを見下ろしていた。青々と茂った葉の隙間から覗く陽光は明るく、日暮れまで時間がありそうだ。この場所に留まっていても仕方がない。この森から出なければ。だがしかし、ここがどこだかわからない。私は眉間を揉みながら、これまでの経緯を思い出すことにした。どうしてこうなった。



*******



 平凡な毎日に変化があったのは、ほんの一週間前。

 祖母の一周忌を無事終えた翌日、私は数日後に控えた引っ越しの為、片付けと荷造りに励んでいた。長年、祖母と共に過ごした家から離れるのはとても悲しかったが、祖母が亡くなって一年。一年間頑張ってみたけれど、祖母の生前、季節ごとに美しい植物が咲き誇っていた庭は、かつての華々しさはなく、寂しいものとなってしまった。自分なりに頑張ったつもりだった。植物図鑑や祖母の園芸仲間の方々から指示を仰いだりもしたが、蕾はつけども花開くことはなく、そのまま枯れてしまった。お世話の甲斐なく萎れていった植物を見るたびに、祖母を失った自身のようだと思った。


 祖母がとても好きだった。母親を早くに亡くし、仕事が激務だった父に代わって私を育ててくれた祖母。私よりもずっと夢見がちでロマンティックな愛らしい女性だった。

 10年以上前、幼少の私に絵本を読んでくれているときに祖母が言ったことがある。

「あなたにも、王子様がいるのよ。大人になったら、迎えにきてくれるわ」

 祖母はとても愛らしい笑顔を浮かべていた。まるで、物語のお姫様のように。


 祖母が亡くなったのは一年前の冬。私が17歳の時だった。あまりにも突然のことで、目の前が真っ暗になったことを覚えている。眠るように、静かに祖母は逝ってしまった。

 祖母の訃報に、一年に数回しか家に戻ってこない父も飛んで帰ってきた。死化粧を施された祖母はとても美しく、また、少女のようにあどけなかった。父は祖母の冷たくなった手を取り、背を丸めて嗚咽を漏らしていた。父の涙を見たのはその時が初めてで、そこでようやく、私の瞳からも、熱い涙がとめどなく流れたのだ。


 祖母の葬儀を終え、父とこれからのことを話し合った。父は仕事で日本各地を飛び回っていて、祖母の家に定住は出来ない。私は進学が決まっていたし、祖母と過ごしたこの家から離れたくなかった。けれど、私一人が住むにはこの家は広すぎる。父は、私に条件を出した。これから一年、大学に進学する春まで、この家で一人暮らしをするようにと。一年間、家の管理に家事その他諸々を恙無くこなせ、これからもやっていけると胸を張って言えるのならば、進学後も祖母の家で過ごす許可を出すと。できなければ、大学近くのアパートに引っ越すこと、と。

 結果は散々だった。祖母が甲斐甲斐しく世話をしていた庭は寂寥感が漂い、家の管理も万全とは言い難い。自身の無力さに打ちひしがれ、祖母の一周忌を終えたあと、入学式までにこの家から引っ越すことを決めたのだ。


 祖母の死から一年。私は高校を卒業し、一周忌も無事終えることができた。いっぱいに中身の詰まった段ボール箱に封をし、油性マジックで大きく「本」と書く。次は何に手を付けようかと思った時だ、玄関の呼び鈴が鳴ったのは。扉を開けると、背の高い男性二人が立っていた。一人は白髪の目立つ痩せた年配の男性だった。眼窩は落ちくぼみ、顔色も悪い。付き添った男性と手中の杖に支えられ、ようやく立っていられる様子だった。付き添いの男性は若く、上背のある老人をしっかりと支えている。その瞳は老人を映し、案じるように細められていた。二人とも、見知らぬ顔だった。誰だろう。私の戸惑いに気付いたのか、老人が口を開く。「突然お邪魔して申し訳ない。五十鈴さんに、ご挨拶をさせて頂けないだろうか」

 老人は、祖母の昔馴染みなのだと悲し気に瞳を伏せた。


 老人は仏壇の前で背を丸め、長らくじっとしていた。その姿は祖母と昔話をしているように見えた。私は二人にお茶を出した後、和室から出て縁側に腰を下ろした。寂しい庭にそよそよと春の風が舞う。花に埋め尽くされた、かつての庭を思い出していると、障子戸の開く音が聞こえた。振り返ると、若い男が私に頭を下げた。「お待たせしました」和室に入り腰を下ろすと、老人が私を見る。目が赤い。泣いていたのだろうか。

「突然の訪問、驚かれただろう。初対面だというのに五十鈴さんに会わせてくれてありがとう。君は…お孫さんだね?」頷くと「五十鈴さんの若い頃によく似ている」と老人は笑った。

「さて…実は今日お邪魔した目的は、五十鈴さんと挨拶するだけではないんだ。私は昔、五十鈴さんと約束したことがあってね。それを、果たしにきたんだよ」

 そして、老人は静かに語りだした。昔を思い出すように、瞳を優しく細めて。


 老人は、祖母の幼馴染だったそうな。家が隣同士で、祖母が家を出るまでずっと一緒だったと笑った。何をするにも一緒で、自然と恋仲になったそうな。結婚の約束もしたのだという。だが、祖母の両親、私にとっては曾祖父母に猛反対された。祖母はすぐさま見合いを組まれ、嫁いでいったのだという。

 祖母が嫁ぐ前、祖母の両親に邪魔されながらも、なんとか祖母と逢えた老人は約束したそうだ。自分達は結ばれないが、子供達に願いを託そうと。果たせなかった自分達の代わりに、家族になってもらおうと。

 互いの子供が異性であれば、婚約させよう。けれど、それは子供達が互いに望んだ場合のみ。他に愛する人がいるのならば、解消しても構わない、強制力のないものだと。

 残念ながら、互いに子供は男児のみだった。自然と、婚約の約束は孫に委ねられることになったのだという。

 そういえば、祖母は幼い私に言っことがある。「あなたにも、王子様がいるのよ」と。それはこのことだったのか。


「五十鈴さんの孫は、女性。そして私の孫は男ばかりだ。できれば、生前の五十鈴さんと共にこの話を君にしたかったが…私も、長らく病床に伏していてね。最近、ようやく退院できたんだ。五十鈴さんにお別れを言えなかったのが悔やまれる。彼女は、君にこの話をすることを本当に楽しみにしていたんだ」

 老人は、隣に座る男の肩を叩いた。それが合図のように、伏せていた瞳を上げて、男の黒い瞳が私を映す。力強い瞳だと思った。それと、綺麗だとも。男はゆっくりと頭を下げた。落ち着いた声音で名を告げ、よろしくお願いしますと言う。ああ、この人が婚約者というわけか。私は、こちらこそと頭を下げた。

 挨拶を交わす私達を見て、老人は喜色満面。頬を紅潮させて「うまくいくよう、願っとるよ」と笑った。


 私に想い人はいない。であれば、強制力のない婚約者が出来たとしても何の問題もなかった。何よりも、祖母の願いを叶えてあげたかった。夢見がちで少女のようだった祖母は、かつての想い人の孫と私が婚約者になったことをとても喜んだだろうから。

 こうして、18の春。私に形だけの婚約者が出来た。


 そして、その週末の今日。無事引っ越しを終えた私は生活用品や食品の買い出しをしていた。そこで偶然、婚約者となった男と会ったのだ。土曜日だというのに仕事だったのか、スーツ姿の彼は私を見るなり荷物の多さに驚き、手伝うと言ってくれたのだ。結構重かったので、その申し出を有難く受けて引っ越したばかりのアパートへと向かった。その道中、行きに発見した近道の細い路地を通ったのだ。

 路地を通り抜けたと思ったら、何故か私と婚約者は草木の生い茂った緑あふるるこの場所に座り込んでいたのである。



*******



「どうしてこうなった」

 これまでの経緯を思い出してみた。が、アパートに向かっていたのに、何故森の中で座っているのかわからなかった。有名な小説の一節『国境の長いトンネルを抜けると――』じゃあるまいし。「細い路地を抜けると、森でした」そんな馬鹿な。

 眉間をこりこりと揉んで、私は草に埋もれている大きな鞄を引き寄せた。ボストンバッグには、購入した物がぎゅうぎゅうに詰まっている。そのサイドポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認した。13時12分。確か、婚約者の男と出会ったのが13時頃だったはず。そして少し話をして、アパートへと歩き出したので時間はそんなに経っていない。日付も今日で間違いない。圏外だが、操作できるのでスマートフォンは壊れていないようだ。ということは、私は婚約者と路地を通った直後にこの場所に移動したのか。

 まるで、物語のよう。

 私はよいしょと腰を上げて、全身を確認した。怪我はないようだ。そして、隣に座り込む婚約者を見る。彼は未だ呆然としていた。私は本で得た知識を思い出しながら、ボストンバッグを抱える。

「ここに居ても仕方ないし、とりあえず移動しませんか。明るいうちに」

 婚約者ははっとしたように振り返った。私が居ることに今気づいたのかもしれない。彼の瞳は驚きに見開かれ、戸惑う様に揺れていた。状況が理解できてないのだろう。わかる。私も驚いたのだから。

 婚約者は慌てて腰を上げ、近くに投げ出されていた革製の黒いビジネスバッグを拾い上げた。私に歩み寄り「怪我はないですか」と尋ねる。頷くと、彼の強張っていた顔が少し緩んだ。

 すっと手を差し出される。なんだろう。困惑して見上げると、婚約者は微かに口角を上げた。「荷物、持ちますよ」

 ありがとうございますとお礼を言い、お言葉に甘えることにした。鞄を受け取った婚約者は周囲を見回し、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。画面を見て、困惑顔になる。じっと観察している私に気付いたのか、こちらを見て苦笑を浮かべた。

 まだまだ混乱しているだろうに、私を安心させるため微笑んでいるようだ。額に汗が浮かんでいるが、慌てず騒がず、落ち着いているように見えた。私は婚約者を見つめたまま口を開く。

「とりあえず、移動しましょうか。ここがどこかわかりませんけど、山で遭難した場合は、上に向かって歩くのがいいと本で見ました。川を下るのは危険だったはず。といっても、見た感じ山と言うより森ですからあてにならないかも。目印を付けながら行きましょう。道もないですしね」

 スマートフォンを操作していた手を止めて、婚約者は私を見た。目を丸くしてぼそり呟く。「詳しいな」

「俺のスマフォは圏外で通話は出来ませんけど、方位磁石は使えます。GPSは…位置情報が取得できない、か。…ここは、どこなんだろうな」

 気を取り直したように、婚約者はしっかりと話し出した。「どこでしょうね」そう返して、私は周囲を見回す。耳を澄ますが、車の走行音や水の音も聞こえない。森だ。どこかの森の中としか言いようがない。婚約者と顔を見合わせて、とりあえず北に向かおうと話し、歩き出した。

 1時間ほど歩いただろうか。危険だからと先を歩く婚約者が足を止めたのだ。

 先導する彼は荷物を持っているのに、私が歩きやすいよう、茂った草を踏み潰して道を作ってくれていた。会話はほぼなかったが、不満はなかった。婚約者と言っても結構年上のようだし、私は話し上手な方ではなく、むしろ苦手だった。まだ2回しか会ったことのない年上男性と言葉のキャッチボールが出来るような話術などない。私は彼の後ろを歩きながら、目印には心もとないが、ポケットティッシュを丸めた物を地に残していた。

「水音が聞こえる」

 婚約者の呟きに、私も耳を澄ませる。確かに、水音が聞こえた。今まで歩き続けてきたが、迷ってはいないはずなのにずっと同じ景色が続いていたのだ。ようやく変化が起こった。私は婚約者を見上げると、彼も私を見ていた。頷き合い、慎重に足を進めていく。冷静さを欠いてはいけない。崖があるかもしれないのだから。水音を頼りにしばらく歩くと、視界が開けて小さな川が見えた。

 陽光を受けて、水面がキラキラと照り返している。ぱしゃんと水の跳ねる音も聞こえた。魚か。それとも、岩に水が跳ねた音か。「ここで、少し休憩しようか」婚約者の言葉に頷いて、川岸へ腰を下ろした。

 はあ。どちらともなく大きなため息を吐いて、婚約者と顔を見合わす。「疲れましたね」私が言うと、婚約者は苦笑して頷いた。視線を川へ戻し、婚約者が言う。

「この水が飲めたらいいんだけどな」

「あ、それでしたら」

 私はボストンバッグを引き寄せて、手を突っ込んだ。確かここにあるはず。あった、これだ。不思議そうにこちらを見ている婚約者に、たったいま見つけた物を差し出した。水だ。2リットルペットボトルの。

「喉が渇いているのなら飲んで下さい。あ、これもどうぞ」鞄から紙コップを取り出し、水と共に彼に手渡す。

 婚約者は、手渡された物と私を交互に見て、目を丸くしていた。水が欲しいのではなかったのか。

「いりませんでしたか?」

「い、いや、ありがとう。重いと思っていたが、まさか水が入ってるとは思わなかったよ」

「そうですか?」

 他にも色々と入ってますけど。そう言うと、婚約者はすごいなと笑った。

 二つの紙コップに水を注ぎ、喉を潤しながら黙って水面を見る。水は美しく澄んでいて、水面に魚の影が見えた。私はちびちびと水を飲みながら、ぼんやりと思った。

「魚釣り…竿の材料は、竹、テグス、釣り針…」

「え」

「え」

 あれ、私いま口に出してました? 思わず口を押さえて隣を見ると、婚約者はぽかんと私を見ていた。

「きみは釣りをするのか…いや、するんですか?」

「いえ、したことないです」

 きっぱり言うと、婚約者が困惑顔になる。聞かれてしまったのなら仕方ない。私は川へ視線を戻した。

「本で読んだことがあるんです。手作りの竿で、魚を釣る内容の本を。そこらに転がっているような物を材料にして釣り竿を作って、大物を釣り上げる話です。主人公の釣り技術もすごいですが、魚が掛かるたびに描かれる魚との心理戦がとても見応えがあって大好きな作品なんですよ」

 もちろん新居にも持ってきた。釣り人の熱き魂の物語。全61巻。語り終え、ちらりと横目で婚約者を見ると、彼はまだぽかんとしている。なんだ。漫画が好きで悪いか。むうと口を尖らせると、婚約者は我に返ったようだった。ごくりと喉を鳴らして、彼は声を潜めた。

「その本はもしかして…『釣り☆エブリデイ』だったり…」

「知ってるんですか!?」

「知ってるとも!」

 まさかあの漫画を知っている人と出会えるなんて。あまりの驚きに、大きな声を出してしまった。『釣り☆エブリデイ』は私が生まれるずっと前に完結して、既に絶版になっている作品なのだ。今はもうプレミアム価格でしか手に入らない。幼少時、父の本棚にあるのを読んで以来、大好きな作品なのだ。まさか、婚約者がこの作品を知っているだなんて…。私の身体は、同士を見つけた喜びに震える。

「ち、ちなみにこの作品、お好きなんですか…?」

「ああ、大好きだ! 魚との心理戦がたまらない! 釣りは付き合いで数回しかやっていないが、釣り竿を持つとあの漫画を思い出すんだ…!」

「心理戦! いいですよね…! 私、全巻持っているんです。正確には父が持っていたのですが、譲ってもらいました!」

「そうなのか羨ましい…! 俺が『釣りエブ』を知ったのは数年前で、中古しかなくて…まだ半分ほどしか集まってないんだ。それに…君は知っているのかな。噂で聞いたんだが、あの漫画、幻の12,5巻があるって」

「持ってます!! 作者が同人誌即売会で発行したものですよね!!」

「なん…だって…!」

 婚約者の手から紙コップがぼとりと落ちる。よかった、水は飲みほしているようだ。足元に転がってきた紙コップを拾い、同士の手にそっと握らせる。そして、彼の手をぎゅっと両手で包み込んだ。

「貸します」

「ありがとう!!!!!」

 この日この瞬間、私の婚約者は『釣り☆エブリデイ』同士兼婚約者となった。


 西の空が茜色に染まる頃、これからのことを話し合った結果、今夜は小川の近くで野宿することに決めた。周囲は鬱蒼とした森。小川の周辺は開けていて見通しがいいからだ。

 付近から乾いた落ち葉を集め、積み重ねてアルミシートを敷く。これで寝床の完成だ。買ってて良かった防災セット。アルミシートは2枚も入っており、寝る際に身体に掛ければ寒さは凌げるだろう。食料は、箱買いしたブロックタイプのバランス栄養食がある。カロリーは友達。うん、買ってて良かった。

 箱買いといっても10箱なので、もって数日。食料や飲料が尽きるまでにここから脱出しなければ。私は鞄から食料を取り出して顔を上げた。背後で、婚約者が膝をついて何か作業をしている。ちらり覗き見ると、コの字型に積まれた石の中心部に枯れ枝を放り込んでいた。なるほど、火を熾すつもりなのか。小さな懐中電灯は防災グッズに入っていたが、日の暮れた闇の中で周囲を警戒するなら焚火の方がいいのだろう。火種はあるのだろうか。私は婚約者に近寄り、作業の邪魔にならない場所に腰を下ろした。こちらに気付いた彼は微笑み、ビジネスバッグからコピー用紙を取り出した。くしゃっと丸めて手作りかまどに投げ入れる。

「何が役に立つかわからないものですね。まさか職場以外でコピー紙を使うことがあるとは思わなかったよ」

 言いながら、彼はバッグから何か取り出し、かまどに手を伸ばした。すると、紙が燃え始めて小さな炎が生まれる。ライターだ。婚約者は小さな炎に顔を向けたまま苦笑を浮かべた。

「このオイルライター、初任給で買ったんですよ。ずっとライターに憧れててね。なんか格好いいだろう? だから、煙草も吸わないのにいつも持ち歩いてたんだ。傷まないようメンテしていたけど、まさか使う日が来るなんてね」

 鼻を掻いて、照れたように笑う。炎を見る彼を見つめて、私はずっと気になっていたことを口にすることにした。彼は私に対して、敬語だったり砕けた口調になったりしているのだ。

「あの、お兄さん。どうぞ話しやすい方で話してください。お兄さんは私より年上ですよね? 敬語で話す必要はないです。その方が話しやすのなら、それで構いませんけど。ちなみに、私は敬語の方が話しやすいので、口調は改めません」

「あ、ああ。ありがとう。ではお言葉に甘えさせてもらうよ。そういえば年齢は話してなかったか…俺は今年で26だから、きみより8つも年上のおじさんになるね」

「そうなんですか」私はかまどの前に跪く婚約者の全身を眺めた。森の中、先導して歩き回ったからか、ワイシャツはくたびれている。腕まくりして露出した肌部分は擦り傷がいくつかあり、土で汚れていた。額に浮かぶ汗もすべて、彼が懸命に動いてくれた結果だ。私は自身の恰好を見た。それなりに薄汚れてはいたが、彼ほどではなかった。何よりも、私は擦り傷ひとつ負っていない。

「おじさんなんかじゃないですよ。頼りになる、お兄さんです」

 私は膝を抱えて微笑んだ。「ありがとうございます。一緒に居るのが、お兄さんでよかった」

「はは、そうかな。明日にはここから抜け出せるよう頑張るよ」

「漫画読まなきゃですしね」

「それだよ! すごく楽しみだ」

 ぱっと瞳を輝かせて婚約者が笑う。その少年みたいな顔を見て、私も笑った。


 簡易な食事を済ませ、日暮れ前に、交代で小川で汗を流した。婚約者も私も着替えを持っていたので新しい衣類に袖を通す。防災グッズに足す予定で購入した、水のいらないシャンプーもあったので野外だというのに割と快適に過ごすことが出来ている。「きみは何でも持っているな」婚約者の言葉に、たまたまだと答えた。すると彼は「俺も、一緒に遭難した相手がきみで良かったよ」そう言って笑った。


 焚火の見張りは4時間ごとに交代と決めて、私は先に寝床に入った。ぱちぱちと焚火の爆ぜる音。さらさらと流れる小川のせせらぎ。視界いっぱいに広がる、満天の星空。視線を横に移せば、炎に照らされた婚約者の背中。体は疲れているはずなのに、眠れない。身動ぐと、シートがかしゃりと鳴く。

「眠れないのか?」

 婚約者が振り返り、こちらを見ていたが暗くてその表情は見えない。だが声音はとても優しいものだった。私は素直に「はい」と答え、ごろりと体を婚約者の方に向けた。「少し、話をしても?」尋ねると、彼は「構わないよ」と言う。お言葉に甘えて、私は彼の背中を見つめながら口を開いた。

「あなたはどうして私と婚約を? お兄さんは、出会って数日の私でもわかるくらい、しっかりした大人だと思います。きっと、彼女もいたでしょう? なのに、なぜ未成年の私を婚約者にすることを了承したんです? まあ、婚約といっても強制力のない口約束ですけど」

 結婚相手を見つけるまでの繋ぎだろうか。それはそれで構わないけれど、本命との同時進行はやめていただきたい。修羅場に巻き込まれるのは嫌だ。

 婚約者はうーんと小さく唸って空を仰いだ。その視線を追うと、零れ落ちてきそうな星空が視界を埋め尽くす。

「俺はね、小さい頃から婚約者がいるって言われていたんだよ。きっときみが生まれた頃からだと思う。そのもっと昔から、祖父は昔話のようにきみのおばあさんとの純愛を俺に語り聞かせていたんだ。だからかな、強制力がないのはわかっていたけれど、自分には婚約者がいるのだから、いい加減なことはできないと思って生きてきた。女性と交際したこともあるけど、やはり婚約者のことは気になってね。長くは続かなくて、相手からフラれたよ。あなたは私を見てくれないって。その通りだった。俺の中には『婚約者』が常に居たんだ。いつか、婚約者と出会うとき、恥じない自分でいようと思っていた。あと、まあ単純に、俺がじいちゃん子だったってのもあるんだけどね」

「じいちゃん子ですか」

「昔から祖父が好きなんだ。その祖父が愛した女性の孫だし、祖父の願いを叶えてあげたいと思った」

 私は目を見開いた。婚約者は祖父の願いを叶えてあげたいと言った。それは、婚約の話を聞いたときに私が抱いた思いと同じだったのだ。私も、祖母の願いを叶えてあげたいと思い、この婚約を受けたのだから。

「私と同じですね」

「同じ?」

「私も、祖母が大好きでした。私はお兄さんと違って、婚約の話を聞いたのは幼い頃に一度だけでしたけど。あなたのおじいさんから話を聞いたとき、祖母が喜ぶと思ってお受けしました。だから、同じですね」

「そうか。…そうだな、同じだ」

 婚約者は丸めたコピー紙をぽいと焚火に投げ込んだ。それが会話終了の合図のように思えて、私は瞼をそうっと伏せた。もう少し話したいと思う気持ちを押し込めたとき、婚約者の声が届いた。

「俺も、きみに聞きたいことがあるんだ」

「なんでしょう?」

 思わず身を起こして彼の背を見つめる。ちらりとこちらを見る彼の横顔は炎に照らされて表情が見える。にやりと意地の悪い笑みを浮かべているようで、私は眉間に皺を寄せた。何を聞かれるのだろう。

「きみ、俺の名前を覚えていないだろう」

「………………」

「初めてあった時、俺はちゃんと名乗ったよ。でも、覚えていないだろう」

 気が付かれましたか。口を噤んだまま、私はにこりと笑んだ。それを見て「やっぱり」と彼は苦笑する。

 仕方がないではないか。あの時は、婚約の話を聞いて驚いたのだ。顔は覚えていたのだから大目に見ていただきたい。

大狼(おおがみ) 慎一。26歳。改めて、よろしく頼むよ」

「私は」

「知っている。四葉だろう。蓮水 四葉。四葉くんと呼んでも?」

「構いません。よろしくお願いします、大狼さん。…お名前忘れていて、すみませんでした」

 大狼は「これからは覚えていてくれよ」とまた笑う。忘れませんよと私は口を尖らせた。


 なんとか無事朝を迎えることができた。水とバランス栄養食のみの簡易な食事を終え、出発しようとしたときだった。がさりと物音が聞こえたのだ。鬱蒼と茂った木々の隙間から茶色い何かが見えた。私は大狼の服の裾を引っ張り、驚く彼へ耳打ちした。「森に何かいます」

 大狼は私を手で庇い後ろへ下がらせ、森を睨みつけた。注意深く周囲を窺っている彼の背後で、私は素早く鞄をあさって目的物を見つける。ゴキブリ撃退スプレー。獣に効果があるか分からないけど、ないよりマシだろう。スプレー缶を差し出すと、ぎょっと大狼が目を見開く。かと思えば「本当になんでも持ってるな、きみは」と、困ったように笑った。スプレーを受け取り、先程からがさがさと揺れている場所を睨みつける。他に武器になりそうなものはあっただろうかと鞄の中身を思い浮かべているとき、がさりと大きな音がして、草木から丸い物体が転がり出てきた。大狼がスプレー缶を構え、私は息を呑む。丸い物体がもぞりと起き上がり、ぴょこんとした丸い耳がひくひく動いた。

「…たぬき…?」

 大狼の呟きに、私も「たぬき…」と繰り返す。森から現れたのは、狸のようにずんぐりむっくりした生き物だったのだ。茶色の体毛に覆われた身体、長い尾。瞳の周囲は黒く、真ん丸の瞳がぱちぱちと瞬いている。ただ、私の知っている狸よりも大きい。猪ほどの大きさだと見た目は狸だけど熊みたいなものじゃないのか。私達に気づいた狸は、こちらを見て首を傾げた。

「なんや珍しい匂いがする思たらこれまた珍しいもんがおるわ。あんたら人間やろ」

 …………。

 喋った。

「こないなとこにおるなら、喚ばれたわけやないな。なんや、迷い込んだんかあんたら。ほんま珍しいわ」

 狸が喋っている。

 ぽかんと口を開けている私と大狼を交互に見て、狸はふんっと立ち上がった。狸が立った。え、狸って二足歩行できたっけ。できたか。ぐるぐる考えていると、狸は片手を上げた。

「ほな」

「ちょっと待って!!」

 森に向かって歩き出す狸を大声で呼び止め、ぱちくりと目を大きくした狸に一歩近づく。それを阻むように、大狼の手が進路を遮った。彼の腕をぎゅっと握り、私は狸に話しかけた。

「あ、あなた、喋れるんですか?」

「そらそやろ」狸はふふんと胸を張る。ふっさりした毛に覆われた腹部が見えた。そこにファスナーはない。

「わいはこの狭間の世界を管理しとるえらーい狸様やからな。地球語のひとつやふたつやみっつやよっつ、朝飯前ってもんやで。で、なんやあんたら。わいを呼び止めるっちゅーことは、なんか用でもあるんか」

 狭間の世界。管理。えらい狸。地球語。まるで現実では聞きなれない言葉の宝石箱や。現実では聞かないけれど、私はそういう言葉を知っている。小説や漫画で読んだことがある。むしろ好きなジャンルだ。

 私の知る狸よりは大きいけど、やはり彼? は狸なのだな。しかしなぜ関西弁。

 私は呆然と狸を凝視している大狼の腕をひっぱった。勢いに負けて腰を折る彼の耳元で囁く。

「大変です大狼さん、きっとここ、異世界ですよ」

「え」

 込み上げてくる興奮で全身が慄くのがわかる。私はわくわくしていた。異世界なんて、物語だと思っていた。作り物。フィクション。それが自分の身に起こるだなんて。

「漫画や小説で読んだことないですか? 主人公がひょんなことで異世界に行ってしまうってお話。その方法は様々で、本に入っちゃうとか事故で飛んでっちゃうとか召喚されるとか神隠しとかとかいーっぱいありますけど! 狸さんのお話を聞く限り、私達は誰かに呼ばれたわけじゃなく勿論事故にも合ってないので、たまたまこの異世界にお邪魔しちゃったんですね! スマフォが機能しないのも当然ですよね電波がないでしょうし」

「ちょ、ちょっと落ち着いて四葉くん。異世界とか、そんな漫画みたいなこと―」

「あたりやで」

 瞳を輝かせてまくしたてる私を、大狼が慌てて宥めようとする。が、さらっと告げられた狸の言葉に私は飛び上がらんばかりに胸躍らせ、ぎょっとした大狼は私の両肩に手を置いた。

「落ち着きなさい!」

 目の前で落とされた鋭い一喝に、私の背筋がピンと伸びる。大狼の真剣な瞳に、ぽかんとだらしなく口を開けた自分の顔が映っていた。興奮した頭は急速に冷え、柄にもなくはしゃいでしまったことに羞恥を感じた。思わず俯くと、大きな手が私の頭をくしゃりと撫でて、彼は笑顔を浮かべる。「落ち着いたようだな。よし」その表情が眩しく見えて、私は目を奪われた。

「なんや兄ちゃんおっかないなー。そないな大声ださんといてーや。わいびっくりやで」

 黒い前足で耳を塞いでいた狸が小言を零した。そういえば狸がいた。私は勢いよく顔を上げて狸を見る。大狼がぽんと私の背を優しく叩き、狸に向き合った。

「大声だしてすみません。ここが異世界というのはどういうことかお聞きしても?」

「どうもこうも、はじめに狭間の世界っちゅーたやろ。ここはあんたらのおった地球とちゃう、世界と世界を繋ぐ中継地点や。あまたの世界のどっかで召喚魔法をつこたら、わいがその魔法を安定させて、求めるもんを喚び寄せやすく手助けするんや。最近は魔法をつこた気配なかったし、狭間の世界に人間が来るなんて滅多にないことや。せやから、迷い込んだ言うたんやわいは」

 ああ、なんてファンタジー。喋りながらくるりと一回転する狸の背中側にもファスナーはなかった。中にひとなどいない。ということは、これは夢オチか現実。

 だめだ、胸が騒ぎ出しそう。ぶるぶる震える私の頭をぽんぽんと宥めるように叩きながらも、大狼は困惑しているようだった。ここが異世界だと信じがたいのだろうか。あっさり信じてしまう私がおかしいのか。大狼は空いた手で顔を覆い、小さく唸って顔を上げた。

「元の世界に戻る方法は、あるんでしょうか」

「あるで」

「あるの!?」

 あっさり返ってきた言葉に、思わず大声を出してしまう。見上げると、真剣な顔の大狼が頷いた。「その方法を、教えていただけますか?」

「そりゃええけど。ほっといてもいつか還れるで、あんたら。今まで迷い込んだ人間がおったけど、そのうちおらんくなったからな。死体もなかったから死んだわけやないやろ。どうにかして還ったんとちゃう?」

「出来れば早く還りたいんです。仕事もありますし、家族も心配してるだろうから。お願いです、知っているのなら教えて下さい」

「そうやなぁ…」狸はぽてぽてと歩み寄ってきて、目の前で足を止めた。私と大狼の頭から足までをじっくり眺めてから、ふーんと腕を組む。黒く丸い瞳を意地悪く細めて、狸は言った。

「兄ちゃんの持ってるライターと、姉ちゃんの持ってる手鏡をくれるんやったら教えたる。まさかただで教えてもらおうなんて都合のいいこと考えてないやろ? 知識を得るなら対価を払うんや。ギブアンドテイク。これ、あんたらの国の言葉やろ」

 話し方だけじゃなく考え方まで関西人っぽい。しかし、手鏡とは。この世界に来てから一度も鞄から出していないのにわかるなんて、本当にこの狸はえらい狸なのかもしれない。関西弁だけど。

 大狼は躊躇いがちにスラックスのポケットからオイルライターを取り出した。初任給で買ったという、いつも大切に持っていたらしいライター。思い入れもあるだろう。複雑な顔で手の中のそれを見つめている。

 私はボストンバッグに手を入れ、内ポケットのファスナーを開けた。ハンカチに包まれたものを取り出し、封を解く。手のひらサイズの、古い手鏡。幼い頃に亡くなった、母の愛用品だったそうだ。顔も覚えていないが、鏡が割れないよう大事にしていた。

 手鏡を手にし、大狼の隣に立つ。指定された品を持つ私達を見て、狸は「それやそれ」と笑った。

「あんたらに大事に大事にされて、とても幸せそうや。わいは、そういうのが好きでなあ。それくれるんやったら、還る方法教えたるし、道案内もしたる。もちろん、譲り受けた品はわいがだーいじにだーいじに育てたるで。ほら、どないする」

 悩むまでもなかった。私は一歩踏み出し、狸に手鏡を差し出す。おっ。と目を見開く狸の瞳を見つめた。

「これは母の愛用品。私がとても大事にしていた手鏡です。あなたの言葉を信じて、あなたに譲ります。ですから、大狼さんを元の世界に戻す方法を教えて下さい」

 背後から息を呑む気配がする。狸は面白そうに瞳を細めた。

「ひとつやと一人しか還す方法は教えたらへんよ。なあ姉ちゃん、あんたは自分やなくそこの兄ちゃんを還してほしいて言うんやな?」

「そうです。ですから、彼の品物は奪わないでください」

 初任給で買ったと、笑っていた。愛おしそうに見つめるその瞳はとても優しくて、思い入れのある品物なのだとすぐにわかった。

 それに、彼は元の世界に還るべきだ。彼には家族がいる。大好きな祖父がいて、きっと両親も健在なんだろう。兄弟もいるのかもしれない。職場にも、たくさん、彼を慕い彼の帰りを待つ人がいるだろう。

 私には、父しかいない。

 祖父は私が生まれる前に。母は私を生んですぐに亡くなったらしい。祖母も亡くなった今、私に残された家族は父だけ。その父も、仕事が忙しくて殆ど帰ってこない。次に会うのは確か年末年始の予定だ。

 数か月もあるのだ。それまでに還る方法をのんびり探せばいい。

「どうぞ。大事に、してください」

 狸の前足に鏡を乗せる。さようならと告げると、陽光を受けてきらりと輝いたように見えた。さようなら、お母さん。未練を断ち切るように踵を返すと、真剣な表情の大狼と擦れ違った。大狼は迷うことなく狸に近づき、手鏡の隣に寄り添うよう、ライターを乗せた。

「俺の大切な物です。大事にして下さい。そして、俺達二人に還る方法を教えて下さい」

「たしかに」狸がそう言うと、手のひらにあったそれがふわりと浮かび、消えた。

「ちょっとばかしややこい道やけど、しっかりついてくるんやでぇ」のしのしと狸が森に向かって歩き始める。呆然と大狼を見つめていると、彼は荷物を抱えたあと、眉間に皺を寄せて私の許へと駆け寄った。手を掴まれ、ぐいと引っ張られる。

「行こう。元の世界に還るんだ。二人で」

 どうして。

 大狼に引きずられるように歩き出す。でも、私の頭の中にはどうして、なぜと疑問符が浮かんで消えなかった。大切な物だったんでしょう。それなのに、どうして。

「どうして…」引きずられながらぽろり零した言葉は大狼に届いてしまった。彼は怖い顔で私を睨みつける。「当たり前だろう」

「二人で還るんだよ。俺にひとりで還って、きみが還ってくるまでずっと待ってろと言うのか? ずっと心配していろと? きみは俺の婚約者だ。強制力のない、ただの口約束だとしても、俺の婚約者なんだよ。自分のことを軽く考えないでくれ。俺はごめんだ、きみがいない世界できみを待ち続けるなんて」

「でも、いつか還れるって、狸さんが…」

「いつかっていつだ?」

 大狼が吐き捨てるように言う。「一日後か? 一週間後か? それとも一年後か? もっとか? そんなのごめんだ」

「一緒に還ろう。この世界に一緒に来たのだから、還るときも二人一緒に決まっているだろう。それに、きみがいないと『釣りエブ』も借りることができないしな」

 釣りエブ。

 見上げると、大狼の優しい笑みがそこにあった。瞳が熱くなり、溢れそうな雫を空いた手で乱暴にぬぐい取る。私は笑みを浮かべて繋ぐ手に力を込めた。彼も、ぎゅっと強く握り返してくれる。

「おすすめの本は、釣りエブだけじゃないですよ! 一人暮らしだしワンルームも考えたんですけど、どうしても書庫が欲しくって、父に頼んで2DKにしたんです。まだ片付いてませんけど、大狼さんのお好きな本があるかもしれません。出来るだけ早く片付けますんで、是非きてください!」

「それは楽しみだ! 釣りエブが好きなら、四葉くんとは趣味が合いそうだしな」

 手を繋いで笑い合い、私達は狸の背を追った。



 目的地に辿り着くまで、なかなかハードな道程だった。

 がんじがらめに絡まりまくった蔦を、大狼の持っていた園芸用のハサミでざくざくと切り開きながら進んだり、とぐろを巻いて陣取る蛇の群れには、蛇は嗅覚が優れていて匂いに敏感だという豆知識を思い出した私が、たまたま買っていた防虫剤を使って群れを散らせて先を進んだ。大狼は「本当にきみは何でも持っているなぁ」と感心したように息を吐いた。

 休憩中、小川で狸が捕獲した川魚が喋りだしたのには驚いた。怒鳴って逃げようとする川魚を関西弁で口説いて口説いて口説きまくって、結果、塩焼きにして食べた狸はすごいと思った。塩は私が持っていた。

 私達が食べるバランス栄養食に興味があるというので一つおすそ分けしたら「ようこんなパッサパサしたもんくえるなぁ! もういっこおくれ」と言われて笑ってしまった。

 なかなか歯ごたえのある道程だったけれど、私は一人じゃなかった。足場が悪いと大狼が手を引いてくれたし、狸はとてもひょうきんもので、よく笑わせてくれたのだ。


 ロッククライミングばりの岩登りをなんとかクリアして顔を上げると、視界いっぱいに茜色の空が広がった。いつの間にか夕方になっていたのだ。大狼に手を引かれて立ち上がり、周囲を見回す。強く冷たい風が肌を打ち、ぶるりと震えた。私達が立っているのは、崖の上だった。眼下には大きな川が横たわっており、その周囲を緑の木々が囲んでいる。夕陽を受けて、水面がきらきらと輝いて眩しい。

「ほい、おつかれさんでした」

 狸の言葉に、ここが終着点だとわかった。だが、私達の周囲には、異界に戻ると言われて思い浮かべるようなものは何もなかった。召喚陣も、大きな門も、何もない。あるといえば、眼下に広がる美しい風景だけだった。

 狸はのしのしと歩き、崖の先端ギリギリで止まって振り返る。「ここから飛び降りるんや。そしたら還れるで」

 飛び降りる。崖から。高所恐怖症ではないが、さすがにそれは足が竦む。大狼も困惑しているようだ。「まじか…ええ…」と呟いていた。

「そんなおもたほど高ないでこの崖。ほれ、ちょっとこっち来て見てみいなおふたりさん」

 狸の言葉に顔を見合わせ、頷き合ってそうっと歩き出す。崖の先端でくるりと一回転した狸と入れ替わるように、じりじりと近づいた。そうっと下を覗き込む。広がるのは美しいけれど恐ろしい景色。充分高い。幅広い川が横たわっているが、飛び降りたら絶対死ぬ。元の世界に還るよりも死ぬ。無理。怖い。

 そう思い、身を引こうとしたその時だ。狸がひょいっと私達を抱き上げてぽいっと崖下に放り投げたのは。

「ほななーおふたりさん。もう迷い込むんやないで。達者でなぁ~!」


 手を振る狸が遠ざかる。吸い込まれるように落下しながら、大狼が私を抱き込む。彼の力強い腕に抱き締められて、次に襲い来るであろう衝撃を、ぎゅっと瞳を閉じて待ったのだ。



*******



 遠くに聞こえる、青信号を告げる音楽。行き交う車の走行音。扉の開閉音や、人々の話し声。鳥の囀り。

 還ってきたのか。私は恐る恐る周囲を見回した。細い路地。ここは、あの世界に行く前に通った場所のように思える。

 大狼はどこだろう。ばっと振り返ると、呆然と頭上を見上げている大狼の姿があった。その恰好はどんな修羅場を潜り抜けてきたのかと思うようなもので、全身土で汚れ、肌が露出したところには擦り傷があった。私の恰好も似たようなもので、彼よりも傷は少ないが泥まみれだった。足元には私のボストンバッグと彼のビジネスバッグが転がっている。

 大狼が私を見下ろし、眉を下げて私の頬を拭った。汚れているのか、それとも傷があるのか。私は微笑んで彼の腕を優しく叩く。ふわりと土埃が舞った。

「白昼夢では、ないようですね」

「そうだな。すごい体験をしてしまった」

 大狼が笑う。

「アパート、すぐそこなんです。散らかってますけど、休んでいってください」

「ありがとう。実は、もうくたくたなんだ」

「私もです」

 笑い合って、私と大狼はアパートに向けて歩き出した。


 お互いシャワーを浴びて、洗濯済みの衣類に袖を通す。念のため持ってきていた父の私服は大狼には少し小さかった。コーヒーを淹れて、一息つく。『釣り☆エブリデイ』を貸すのは後日ということになった。荷物はまだ片付いていないし、何よりも疲れていたから。

 不思議なことに、異世界で過ごした一日と数時間はなかったことになっていた。今日は、大狼と再会したあの日だったのだ。

 不思議な体験だった。なかなかハードだったけれど、終わってみれば寂しいものもある。異世界のおかげで、突然できた婚約者がどんな人物なのか、よくわかったように思う。

「大狼さん」

 名を呼ぶと、彼は「ん?」と首を傾げて私を見た。その仕草がどこか子供っぽくて、可愛いと思った。思わず微笑むと彼も小さく笑った。

「婚約のことなんですけど。私、あなたのこと気に入りました。本の好みも合いそうですし、大狼さんがよろしければ『強制力のない婚約』ではなく、ちゃんと『婚約者』になりませんか? 今すぐ結婚がどうとかじゃなく、とりあえず交際しましょう。そして、その結果、お互いが望んだら家族になりましょう」

 大狼が驚きに目を見開いた。唐突だったろうか。でも、私は彼とならうまくやっていけるような気がするのだ。『祖母の愛した人の孫』ではなく、『大狼 慎一』と一緒に過ごして、そう思えた。

 瞳を伏せて彼の言葉を待っていると、マグカップを持つ手に大きな手が重なった。顔を上げると、大狼が真剣な瞳で私を見つめていた。見つめ合う事、数十秒。長い。頬が紅潮し始めたことに気付き、居心地が悪くなる。思わず目を逸らすと、大狼が笑う気配がした。

 何がおかしいのか。唇を尖らせて睨みつけると、大狼がごめんごめんと笑いながら謝罪する。

「きみから言われるとは思わなかったよ。ありがとう。俺も四葉くんが気に入っている。もっと知りたいし、俺のことも知ってほしいと思ったよ。とりあえず、きみの好きな本のジャンルを教えてもらおうかな。狭間の世界でのきみの暴走っぷりを思い出すと、笑ってしまう。年齢のわりに取り乱さない冷静な子だと思っていたのに、瞳を輝かせてまくしたててきたんだもんな」

 あの時のことを思い出したのか、はははと大狼が笑いだす。暴走したのは事実なので、黙って彼が落ち着くのを待つことにした。ひとしきり笑ったあと、彼は微笑みを浮かべたまま私を見つめた。

「俺の婚約者さん。これからどうぞよろしく。きみがたくさん学んで、その時がきたら家族になろう」

 彼の言葉に、私は笑って頷いた。



*******



「そういえば、あの異世界にいたときですけど。仮とは言え、お互い婚約者でしたよね」

「うん? そうだな」

「ということは…婚前旅行は、異世界ですか」



この二人はまだ書き足りないので、そのうち続編を書くかもしれない。


**書ききれなかった設定**


蓮水四葉:漫画オタク。小説はラノベの方が好き。熱しやすく冷めにくいので、惚れると一途。20歳になったら大狼が部屋に泊まるようになる。でも卒業するまでプラトニックな関係とはこれいかに。


大狼慎一:小学校教師。勤務中に児童に服を汚されることがあるため鞄には常に着替を入れている。三兄弟の長男。まじめ。祖父が四葉の婚約者に慎一を選んだ理由は就職してるからと思っている。ちなみに弟は22歳と20歳。

小学教師なので、四葉が未成年のうちは周囲に婚約者はいると言っていたが年齢は伏せていた。はれて四葉が20歳となり、友人に婚約者だと紹介するが、ロリコンと言われ納得いかない。


大狼のじいちゃん:五十鈴の婚姻後は季節の便りを送り合う仲。不倫どころか会ってもいない。再会は仏壇という可哀想な人。自身も病魔に侵されていたが、孫の婚約後、もりもり元気になって曾孫を見るまで死なん!と宣言している。嫁は数年前に他界。息子夫婦は健在。

五十鈴を忘れることはなかったが、ちゃんと心から嫁を愛していた。愛していたからこそ五十鈴と会おうとしなかった。


五十鈴ばあちゃん:大狼のじいちゃんと季節の便りを送り合う仲。見合い後しばらく泣いて過ごしていたが、見合い相手(四葉の祖父)がとても良い人で、心を通わし愛すように。そして子(四葉の父)を生む。孫の四葉が可愛くてしかたなかったが、感情表現の乏しさを心配してもいた。自身の好きな少女漫画を勧めたりもしたが、四葉が好んだのは息子(四葉の父)の蔵書ばかりで息子にちょっとばかしジェラシー。趣味はガーデニング。四葉に料理とガーデニングを教えたが、ガーデニングの才能がないことを早々に見抜いていた。


四葉の父:激務の転勤族。何の仕事だろう。四葉の婚約者のことは五十鈴ばあちゃんから聞いていた。五十鈴の死後、大狼家に喪中はがきを送ったのはこのひと。年末の帰省に大狼から挨拶されて、娘がすぐに結婚すると勘違いして宿泊先(ビジホ)で枕を涙で濡らした。だが実際に結婚するのはまだまだ先である。

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― 新着の感想 ―
[一言] 自称狭間の世界の管理者な狸が口走った「(アイテムを)育てる」という謎ワードが気になるので、ぜひ続きを。(回収の予定がないのでしたら、本件はスルーで結構です)
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