「愛」についての懐疑
哲学者の中島義道の「愛という試練」が図書館に置いてあって、面白く読んだ。終盤の部分に、ウィーンで復数の女性から愛された話が、太宰かと思うような筆致で私小説的に語られていて、面白かった。中島義道はむしろ、そういう自己解体型の私小説が向いているんじゃないかと思うような、気持ちの入った文章だった。
そこで中島が言っていたのは、自分には「愛される技術」ができてしまったがゆえにむしろ「愛される」事に嫌悪感が出てくるというような話で、「モテない俺ら」からしたらふざけんな!と言いたくなるだろうが、実際読むとよくある自慢話ではなく、哲学者らしく、三歩も四歩も踏み込んだ洞察が語られているので、嫌な感じはしなかった。正直、恋愛について書くのであればこれぐらいの洞察がないと読む気にならない。作者のファンタジーと読者のファンタジーが共鳴していくら売上が伸びようと、それは幻想にすぎない。現在では商業主義の波に乗って、文学も哲学もこの幻想に奉仕するものになっているように思う。
中島義道の本自体は面白く、興味深かったのだが、しかし自分には「そもそも『愛』というのはそんな高級なものだろうか?」と疑問に感じた。これは一般の通念に反する話だろうし、中島もそれは書いている。中島義道は「愛」にうんざりしたという姿勢を取りつつも、自分が人を愛せない人間ではないかと恐れていると語っていた。
正直、僕は、中島以上に人を愛する能力がないだろうが、しかし、愛とは、立川談志の言うように「自己愛」しかないのではないかと思う。…いや、献身的な愛もある、仲睦まじい夫婦の愛、神への愛、同胞愛もある、と人は言うであろうが、僕は愛とは我欲の変形したものであって、同胞愛から、家族愛からこれまでいかなる惨劇が引き起こされたかを考えてみると、そんなに楽しい気持ちになれない。
自分は世の一般観念に心底うんざりとしているのだが、彼らが「愛」を強調するのは、彼らの底にある我欲が様々な形で肯定されるからではないかと考えている。しかし、問題をもっと別に考えてみよう。
例えば、僕が結婚しているとして、妻が川で溺れていて、もう一人見知らぬ人が溺れているとする。この時、どちらか一方しか助けられないとしよう。僕は妻の方を選ぶ。妻は助かり、もう一人の男は溺れ死ぬ。僕は「ああよかった君が無事で。あの人はかわいそうだけど、しかたない」と言う。それが多分「普通」だろう。だが、自分がもしもう一人の方だと想像したらどうだろう。その人にも妻がいて、僕が自分の妻を助けた為に、その人の妻はあまりの嘆き悲しみに僕を責めてきたらどうだろう。「どうして夫を助けなかったのですか? どうして?」 僕はなんと答えればいいだろう。
ここで正論を言うのは簡単で、「僕は自分の妻を助けました。あなただって同じ状況だったらそうしたでしょう」と言えば、話は楽だ。だが、こんな風に物事は割り切れるのだろうか。「祖国」の為に、自分以外の国・民族・集団を犠牲にするという精神は、崇高なものになりうるかもしれないが、その結果が爆弾の投下とか、機関銃での殺戮になりかねない。
もちろん、これは極端な話だろう。だが、自分にはごく普通の人、普通と呼ばれている人が、ある種の話題に対しては優雅に、巧妙に避け、それによって自分達の正常さを保っているのを疑問視してきた。彼らは何を隠しているのだろう。彼らは何を語るまいとしているのだろう。
僕の見た所では、仏教哲学では、愛、つまり家族愛とか、友人愛とか、夫婦愛はそんなに肯定していないように思われる。ギリシャ哲学でもそんな話は強調されていなかったと思う。(友情はあっただろうが、真理への「愛」がメインだったと感じる) 愛がクローズアップされるのはキリスト教だろうが、「隣人を愛せ」「汝の敵を愛せよ」といった愛は、人間にはあまりにも難しい課題で、普通の愛ではないように思われる。隣人とか、敵を愛する愛とは、普通の同質性の集団を破るものだから、身内に対して優遇するというような措置は許さないのではないかと思う。
しかし、こんな風につらつら書いても、世の人の賛同が得られないのはよくわかっている。何故、世の中で愛というものがこんな風に高く評価されているのか。「人を愛する」という言葉が心地よいのは何故なのか。それはもちろん、僕らがそう望んでいるからだが、何故そう望む事そのものはどういう事だろうと考えてみてはいけないのだろう。考える事すら許されないのだろうか。
例えば、僕が自分の息子を溺愛するあまり、息子を一流大学に裏口入学させたとする。この時に「息子を愛するあまりやりました」と言っても嘘ではないだろう。自分の息子よりも他人の息子が死んでくれた方が気持ちとしては楽だろう。太宰治は晩年に「家庭の幸福は諸悪の基」という考えを提出した。これはかなり本質的な事柄を含んでいるのではないか。
ただ、もちろん、だからといって家族制度や国家制度やその他諸々を否定するのは無理だろう。何らかの形で、人には特別さ……つまり、平凡であっても、ナンバーワンでなくても、「その人でなければならない」というような感覚が必要となるだろうし、そういう特別さがなくただ一般的な、抽象的な存在として、みながみな哲学者のように生きていくのは無理な話だろう。だが、少なくとも、「愛」や「家族」はそんなに素晴らしいものなのだろうかという疑問は湧く。
頑張って、家族としての体裁を整えてきた一家があるとして、そこの息子が大人になるとドラ息子になり、引きこもりになる。何故こんな事が起こるのだろう。父は「自分はきちんと『家族』を作ってきたのに俺の息子はなんというていたらくだ」と怒るかもしれない。だが、その『家族』の虚構性にうんざりして自分の身を守ろうとして、彼は引きこもりになったのではないか。今の世の中においても、我々の偽善が強まるほどに、その反対の露悪も表面化していく。我々は自分の中の情欲・狂気を制御できず、ある側面においては潔癖に見せ、別の側面ではおもいきり殺したり犯したりしてみたいと考えている。
僕は現在の、つまりはキリストがブチ切れた「汝らは白く塗りたる墓に似たり」というような状況にうんざりしている。表面は綺麗にコーティングされているが、その中身は腐敗した骨と血と肉で詰まっている。仕事を変えた事を「人生一歩前に進む」と言ってみたり、情欲を「恋」「愛」と言ってみたり、趣味を持つ事を「自分を変える」と言い変えてみる。これらの詐術はどこかで元を取らさせれるのだという気がする。
色々書いたが、自分はこんな風に書いておきながら、意外にその内、家族サービスをする普通の夫になったりするかもしれない(その予定はないが)。しかし、仮に自分がそんな人間になったとしても、そういう制度や在り方を全面的に肯定する事はないだろう。過去を振り返れば、家族愛、同胞愛からいかなる惨劇が起きたか、東西を問わず多くの賢者が愛よりもむしろ我欲の節制と、精神の中に安住を見出し、隠者的境地を好んだか、それを思うと自分は現在、愛と呼ばれているものに全面賛成はできない。だが、それが「必要悪」的なものだというならわからなくもない。そのあたりの微妙な部分に自分の「愛」についての考えは位置する。つまり、そんなに重要ではない位置に。
自分にとってより重要なのは、ショーペンハウエルの言ったような、意志と理性の二つの要素だ。意志は、狂気や情念を含んだものと見れるが、ここに愛を含めた方が話は早いと思っている。この「意志」は立川談志の言う「イリュージョン」と類似のものがある。立川談志の理論は全く哲学的であって、彼は、ショーペンハウエルの言う意志を、客体的な形で発散したのが「芸能・芸術」と定義した。そうして、この形がグロテスクなままに出ると猟奇的な殺人事件なんかになるが、大衆はこれらの事件に憤りつつも内心で満足している部分があると喝破していた。この洞察は、極めて重要だと思う。
仲睦まじい夫婦の性行動と、強姦などの犯罪に現れてくる性衝動は根は同じである。無論、人は後者の方は、相手方の承認を得ていないが為に犯罪であると糾弾し、我々の中の狂気や情熱が犯罪者を駆り立てるものと同じなのだという事実を忘れようとするだろう。だが、この断絶というのは虚偽であると思う。だからこそ、歴史を振り返ると、正常な人間が正常故にとんでもない殺戮を犯すというような事態が発見できる。人は、自分達が狂気を制御する方法が正しいと決め、それを合法的と言い、その中にいる限りは良いのだと結論をくだすが、次第に内部の狂気が鬱屈して、発散させようとなってくる。そうなると、今度は「合法的」に犯罪を犯す必要性が出てくる。自らを制御できない人は、集団内部によって自分を解放させようとする。そうすれば犯罪者にならずに済む。少なくともその内部では。こうして、狂気は社会のお墨付きを得て世界に飛び出してくゆく。
現在はそんな状況になってきていると思う。話を最初に戻すと、自分は「愛」という感情に懐疑的であるし、友情や愛情は、「それ以外の人」を蹴り落として、奈落に突き落とすかもしれない状況をその背後に隠している。自分は基本「それ以外の人」だったから、自分が突き落とす側に回ったからそれで問題が解決したなどとは考えたくない。この問題が、積極的に解決する事はおそらくないが、消極的な解決、つまりは「しかしそれもしかたない」と言ったような解決ができなければ、自分はいつまでも人を愛する能力を「持たない」だろう。
こう言った時、人が「お前は愛しもせず愛されもせず不幸な奴だ」と笑う顔が見える。僕はその顔に答える言葉を持っていない。ただ、そんな風に言っている人がいずれ、僕のいる奈落の底に落ちてくる風景はぼんやりと頭の中に見える。彼らは落ちる時、どんな表情をしているのか。きっと、今現在の「僕」の表情によく似ているだろう。
僕らは愛によって他者を疎外する。だが、疎外されたものはいずれ自分達に帰ってくる。それは、疎外されたものの叫びだろうか? …そうだろう。この時、愛は狂気となる。愛さなかった事は犯罪にもなりうる。しかしその裏で、愛そのものに問題がないとは誰が言えるだろう? 自分は愛を疑いつつ、それでも愛するという人なら理解できる。だが、脳天気に、テレビCM的に愛を喧伝する人は理解できない。それらはいつかは元を取られるだろう。
追記 この文章を書いた後にも考えてみたが、一般に言われているような形での「愛」をどうしても救い出したいと言うなら、抽象的な愛、つまり真理への愛とか神への愛というのは不可能であると証明するという道筋が考えられるかもしれない。
人は他人の「性質」を、つまりは現実的なものを愛するしかないのであって、イデアであるとか神、人類全体への愛というのはそもそも無理な話、人間には不可能だから、人間は現実的な「誰か」を具体的に愛する、それしかできない。そうしてその事を通じて、より大きな普遍的な愛への道が開かれている……こう考えれば収まりがいいかもしれない。
ただそうは言っても、自分が提起した問題は依然としてそのままなので、我々が通俗的な愛を受け入れるのなら、そこから発生する問題も受け入れなければならない。村上春樹の「多崎つくる」で、最後に出てくる倫理性として「まあでも、つくる君はちゃんと働いているし、つくる君を好きな子もいたし、税金も払ってるし、まあいいじゃん。大したものじゃん。頑張りなよ」みたいなのが出てきたのだが、ここを読んで、つくづく村上春樹という人の文学者としての限界を感じた。そんな問題で話が収まると思うのは、一般の通俗的見解と変わらない。
仮に、人間が現実的な愛しか持てないとしても、では自分の息子と他人の息子、どっちかが死ぬしかないとしたら、他人の息子に死んで欲しいという話にどうしてもなってくる。そうしてそういう感情が多少なりともなければ現実的な愛は不可能だろう。
男が女に対して「僕は人類全体を愛している。その一環として、君を愛している」と言われたら、女性は嫌な気持ちになるだろうし、「それだったら別れて」となるだろう。女性が(男性が)求めるのは、そんな普遍的な愛ではなく個別的、現実的な愛だろう。だが、そうなると先に上げた様々な問題はやはりそのままという事になる。だから、そうした悲惨な事柄もすべて受け入れると共に、現実的な愛は素晴らしいと言えばバランスは取れる。ただ、そんな風なバランスを自分の身に収められる人がいるかどうかはわからない。やはり、そういう「愛」というのは、どこかで自分達を美化し、自分達を特別と思いなし、それ以外を遠ざけ、疎外するという性質を含んでしまい、自分達の愛の裏面に張り付いている悲惨もない事にしてしまうようにも感じる。
自分は最近物の見方が変わってきた、宗教的になってきた気がしているが、例えば物語の最後で、カップルが結婚してめでたしめでたし……となるのは、あれは実際の結婚生活ではなく、人間が辿り着こうとして辿り着けない、いわば彼岸としての生活を描いているのだと考えるようになってきた。実際に結婚生活が始まれば、くだらない事で喧嘩したり、金の話で揉めたり、時に互いの愛情を感じてもそれは高貴なものにはなりえないだろうし(それを高貴と世間は呼びたいのだろうが)、つまりは卑俗な我々の生活の延長でしかない。物語の最後に出てくる、「結婚してめでたしめでたし…」というのはあくまで我々の観念の中にあるものであって、現実ではない。それが現実になると、また我々は物語の最初、すごろくの最初の一マスから始めなければならなくなる。
だから、物語の最後のそういう結末は理想としてのみ存在すると自分は考える。本当に素晴らしい愛は世界のどこにも存在しない。だが、それを求める事はできる。その微妙な場所に人間は位置しているように自分には感じられる。どっちにしろ、自分は自分達の情欲を「恋」とか「愛」とかいう言葉で大層なものに見せるという詐術は拒否したい。それらは問題を隠蔽する。そうして巧みに問題を隠蔽するものが、ベストセラーになったりする。人は真実を見たいのではなく、酔っていい気持ちになりたいにすぎない。酔ってその時だけでもいい気持ちになれればそれで彼らは喜ぶ。だが酔いが覚めた時、現実がやってくる。しかし、根底的な哲学は現実そのものも我々の「酔い」が見せる幻想だと言うだろう。その時、それ以上に目覚める事も酔う事もできない場所が訪れる。
もっともこんな事は、「愛」というような現象とはあまり関わりがない。本当の愛はーーと言って、そう言うと、現実的な愛から離れる。自分は恋愛小説には、恋愛以上の高い精神が象徴として現れている様を見たい。今の恋愛小説はただの恋愛なのでほとんど興味がない。そういう小説を模倣するように現実も構成されている。我々の現実はイデアを世界から放逐した。我々は都合の良い言葉を絶えず互い掛けながら、自分達の情念については綺麗に装飾して醜さを隠すようになった。自分はそこから逃れているとは思わないが、少なくとも自分の中にそれはあるとは言っておきたい。自分は愛せないかもしれないが、それは「本当の愛」を念願しているからだ、と言えば人は怒るだろうか。鼻で笑うだろうか。自分には現代人よりも古代ギリシアの哲学者の方が身近に感じる。