1.ほんものをかこう!
2018年11月末、この講座を立ち上げてからしばらくの時が経ちました。
なにぶん、素人がド素人のうちに……ということで書き始めた講座です。不満点も疑わしい点も多く、幾年と経ったあかつきには、「これはひどい」ということで削除とする可能性も高い内容でしたが、一年近く経った今読み返すと、とりあえずは大丈夫かな……という感じです。
私なりに私なりの研鑽を積んではいるつもりですが、小説とはもとより答えのない世界、たった一年程度では実力や思想に大きな乖離が生まれることはないようですね。
ここから先は、その「答えのない世界」を歩んでいる方々に向けて、小さく小さく「コラム」を並べていこうと思います。
こう書いてはなんですが、一個人の小説に対して、物語を作ることに対しての「思想集」のようなものなのだと思います。
こちらを読んで皆さんが思うことは、「そうだ」でも「それは違う」でもどちらでもかまいませんし、何を思うのも自由です。むしろ、自由でなければならないと思います。それは単に思想が好き好きだからということではありません。色んな思想を持っている人がいて色んな物語が生まれるのですから、統一されて欲しくないなという、創作に携わる個人としてのわがままです。
ゆえに、ここに書かれていることを読んだとして、入門者の方が飛躍的に実力を伸ばしたり、熟練者の方に新しい方向性を示すようなことはありません。
「講座」ではなく読み物、本編の「付録」のようなものとしてお楽しみください。
ひどく私的な話ですが、今現在、身近な私の知人――いわゆるリアルで顔をつきあわせることができる人の中に、「小説を書いている」という人は一人もいません。
それでも実際に私自身が「書いている人」ですので、知人たちとの会話の中で、小さな創作談義が始まることは多々あります。
「この会話ほんとに楽しいの?」と、唯一の「書いている人」としては不安になってしまうのですが、そこそこに話は弾みます。相手によっては長く長く、私が驚くくらいの熱意をもって色々なことを語ってくれることもあり、楽しい限り。そんな時は私もついと夢中になって話してしまい、だいたいあとで大後悔時代。やはり語ることはそれほど美徳とは思いませんので、自重を思うばかりです。
さて、そんな折り、こういった時にいつも話題に出てくるなぁと思うのは、「本物」という方向性についてです。
「商業レベル」、「売り上げか中身か」、「テーマ性のある内容」――表現は多々出てきますが、「本物」を書くには、数百年腐らない大傑作を書くには……という話題が、よく持ち出されます。
正直を言いますとそのあまりの壮大さ、手に負えないレベルの話に、「私程度にいったい何を求めているのか」と困ってしまう内容で、私はそういった時、大抵の場合は「読んで誰かが面白いって思ってくれそうなものならそれでいいよ」と本音で答えてしまいます。まぁ……そう言うと、返されるパターンとしては、「本気で書いてるんじゃないのか」とか「そう思うならそれでいい」と、鼻白まれたり見下されたりしてしまうわけですが、それも仕方がないのかなぁと若干寂しく帰路に着き、三日から一週間くらい考えこんだりします。
どうして毎回とは言わずとも、こういった話になるのか。それは一重に、『年齢』の問題であるのかもしれません。
人は歳を得るほどに、人生経験とともに『物語』との巡り会いを重ねていきます。
十代、二十代、三十代、四十代―― ただ生きているだけでも、多くの物語が頭を吹き抜けていきます。
ある物語はもう幼稚なものとされ、ある物語は良かった部分を切り抜いて美化され、ある物語は記憶からこぼれ落ち、忘れ去られ――そんな物語との出会いと別れが、蓄積されていきます。
憶えているのは、心を揺り動かされた名作、ただ楽しかったものとしての秀作、ひどく憤慨を煽った駄作。そして、それらに合わせ、出会ってきたと思われる漠然とした作品の「数」です。
正確に実数のわからない漠然とした「数」。しかし生きた時間に合わせて辿った様々な物語の記憶に、「私は考えられないくらいに多くの作品を見てきた」という自負が生まれ、その人が物語を好きで沢山出会う人であるほどに、歳を重ねていればいるほどに、「私はまわりよりも本物を知っている」と、そんな想いが生まれるのではないでしょうか。
そしてついと、書いている人には言ってしまう――「本物を書かなきゃいけない」と。
これは単純に書いているその人を軽視している場合もあれば、何気なく自分の自信を表に出してしまいたくなった場合、自分は書きたいのに書いていないというコンプレックスから来ている場合、そして、身近な人に本物を書くようになって自分をびっくりさせてほしいという期待や思いやりの場合――色々なケースがあると思います。
書き手としては若干苦々しくはありますが、仕方のないこと。反面、嬉しいことでもあります。
言ったその人が抱く「本物」のイメージに触れる機会であり、自分が知らなかったかつての名作、その作品のどこが良いと感じたかなどを知れる貴重な機会ではありますから。
しかしただ一つ……心苦しいのですが、この話題に対し、私は苦言を呈しなければなりません。
――『「本物」の定義ってなんですか?』
という月並みで、ごく普通の話です。
私はかつてこの話題になった時々に、『本物の定義』を聞かされたことも、示した人にも出会ったことがありません。
よく言われるのが「数十年、数百年経っても読み継がれる名作」、「読者や売り上げに媚びた作品ではない」、「優れた文章力で、人間の根幹を表現するような普遍的なテーマを持った作品」などですが、それは語る人たちの言葉の端々から私が拾い上げたもので、決して定義とはなり得ない抽象的なものです。
「数十年、数百年経っても読み継がれる名作」。読み継がれているのは事実でも、それは果たして本物なのでしょうか? それなりに古いものも読みましたが、古典と言われるそれらを読んでいる時、私は大抵の場合最後まで退屈でした。
「読者や売り上げに媚びた作品ではない」。読んでいて「こうなってほしい」と思う読者を切り捨てていいのでしょうか? そもそもどこかで注目を集めなければ、「数十年、数百年経っても読み継がれる」ことは不可能ではないでしょうか?
「優れた文章力で、人間の根幹を表現するような普遍的なテーマを持った作品」。とても良いと思います。ただ、重いし固いです。もっとふわっとした作品では本物になれないのでしょうか? あと、数回読まなきゃ理解できないとかはやめてください、読み手の人生の時間に優しくしてください、私みたいな頭の弱い子もいるんですよ?
多くの本物を求める方にとっていじわるなことを書きましたが、このくらい『本物の定義』ってあやふやなものです。というよりも、ここまで書いておいて酷い話ですが、そもそも定義なんて無いんだと思っています。
ではなぜ、本物とか傑作とか、名作とかいう言葉があるのでしょうか? その理由は、『言葉は便利だから生まれる』ということにあるように思います。何かを表現するときに使いやすい、この場合は、『枠』を決めるのに便利だから作られたのではないでしょうか?
読んだ人が誰かに勧める、企業が宣伝に使う。実は定義のない『ベストセラー』という言葉と同様に、誰かが最初に便利な『枠』として使いだした、それがスタートだったようにしか思えません。
人はとっても『枠』が好きです。『枠』はとっても安心できるものです。脳も『枠』を作って、自然と記憶を整理しています。
そして『枠』は、個人個人の中にも歳を重ねるごとに新たに作られ、強固さを増していきます。
「懐古主義」という言葉がありますが、数多くの作品に触れた人の中には、自身の中に『本物の枠』が生まれていて、そこに固執してそこから抜け出せなくなった人のことが、こう表現されているのかもしれません。
特別に「懐古主義」になっている人でなくとも、もちろん私にも、どんな人にも『枠』はあります。
その『枠』が色んなところで作用して、過去の『本物の枠』を参照し、「あれと同じテーマでもラノベだからダメ」、「作者が専業の作家じゃないからダメ」、「今の世の中で売れてるようじゃダメ」など、実際の内容に関わらず本人すらも理解してないうちに判断を下してしまう――
そう考えると結局『本物の定義』は、作品の中じゃなく個人の『枠内』にしかないものではないでしょうか。
さて、『1.ほんものをかこう!』と題しておいて、結論は『本物なんて人それぞれ』という締まらない感じですが、一応はそれなりに、筆者としての責任というか、私なりの「本物」の書き方を示しておこうと思います。
「定義無いんじゃなかったの?」と、そう言われてしまえばそれまでなのですが、どのような形にしろ「本物」という枠は言葉にある以上はあるのです。そして実際に、そう呼ばれている作品たちが存在しているのです。
その書き方は――
――「とにかくたくさん書こう!」
それだけです。
はっきり言いまして、それ以外に「本物」を書く方法は無いのです。
「とにかくたくさん」と言っても、一つの作品ではなく、出来る限り「多くの色々な作品」を書いてください。
これはとても単純な理屈で、先ほど書いたように『本物の定義』は個人の『枠内』にしかないわけです。ならば、『A』という作品がダメなら、『B』という作品で、『B』もダメなら『C』で――という風に撃ちまくって、その人の『枠内』に入れるしかありません。
ピストルではなく、マシンガンをイメージしてください。『ABCD……』という弾丸を続けざまに撃って、どれか一発を当てるのです。
「数十年かけて練りに練った最高の一作を」というのは読者の望みであり、作者にとっても憧れることではありますが、それは狙い澄ました一発を、『A』一発だけ放つと同じです。厳しいようですが、まず当たりません。90%以上の確率で当たりません。実力はそれほど関係無いのです、だって個人の『枠内』という的は、誰にも見えないのですから。
「狙い澄ました一発は当たらない」、納得はできないかもしれませんが、これは悲しい現実です。
思い返してみてください。あなたの好きなアーティストは何百曲とある曲の中、何曲を「名曲」として世間一般に知られていますか? あなたが大好きなゲームを作っている会社は、どれくらいあなたに触ってもらっていないゲームを作ってきましたか? あなたの好きな作家は、ただの一度もイマイチな小説を出していませんでしたか?
こういった話になるとよく引き合いに出されるのが、エジソンがフィラメントの素材に竹を発見するまでの数千回の失敗や、モーツァルトの生涯曲数に対しての一般に知られている曲数ですが、いわゆる天才扱いされている人であっても、一発では当てられなかったのです。かと思えば、作者自身が何も考えずに連載していた、そんな作品が名作として今も書店に並んでいるということもあります。
脚本家のテリー・ロッシオさん曰く、関係者全員が納得してくれる奇跡の脚本は7本に1本だ、とのこと。遙か彼方のプロでも奇跡というくらいですから、いわゆる「本物」というのは、プロでさえも狙っては作れないということですね。
しかし、この現実には何もがっかりする必要はありません。
『ABCD……』と撃つうちに、単に的に近づいていくだけになく、確実に書き手の技量は上がっていきます。いざ的に当たった際に、ちゃんと突き刺さる弾に磨かれていきます。実力はそれほど関係無いとは書きましたが、それは的に当てるまでの話。ちゃんと弾になっていないと意味はありません。たくさんの作品を書いているうちに、書き手の弾は自然と磨かれていきます。
そして、撃った『A』は「狙った的」を外しても、ちゃんと「別の的」には当たっているのです。世の中には『ACD』が当たる人もいれば、『BD』が当たる人もいます。書き手がちゃんと撃ち抜ける弾を用意できる実力を身につければ、どこかの誰かには効いているのです。
そういった意味では、こうしてネットで公開するような作品であれば、「失敗は無い」と言い切っていいのかもしれません。
書いて書いて書きまくりましょう。短くなっても、最終回までは書きましょう。
『本物の定義』は無いと書きました、人それぞれとも書きました。しかしあえて書くなら、『本物の定義』には、巻き込まれていく読み手の多さがカギとなっている、それだけなんじゃないかと思います。
『ABD』の人に刺さる作品が生まれ、その人たちが絶賛している。その状況になると、それまで無関心だった『C』の人が、「じゃあちょっと読んでみるか」と、その作品に触れる。「みんなが良いっていうなら」と理由で、自分の『枠』を外してもいいかなと思う人が生まれる。そうやって多くの人を巻き込んで、やがてそれは「読んで恥ずかしくないもの」として多くの人に触れられ、「本物」と認められるようになっていく。
作者は書くまでが仕事、そこから先、それを「本物」に育ててくれるのは、読者の方なのかもしれません。
色んな作品を、とにかくいっぱい。
百年読み継がれる一本なんて考えなくていいです。未来人の感性なんてわかりませんし、どうせ確認できません。
今の一本を大事に仕上げ、どんどん次に行きましょう。
たくさんは大変ですか? 大変ですね。でもきっと大丈夫です、やれます。
こんなところを読んでいるあなたは、書くのが大好きですものね!
この先また、気が向けば続きます。
だいたいこんな内容ばかりになると思いますが、よろしければまたお立ち寄りください。
ありがとうございました(^^)/




