第十三節
それきり私が鋼索通信を修理する日は訪れなかった。
次に電報が届いたのは六月半ばの昼過ぎであったが、授業があった私は、夕方になって初めて〇鉢屋から連絡が来ていたのを知った。
電報には至急来る旨だけが記されており、用件はうかがい知れない。ただ、これまでにない呼び出しに胸騒ぎを覚えた私は、寮室で法科の教科書を枕にしていた真砂先輩を起こして一緒に店に向かった。後になって思えばその判断は賢明であったろう。
夜の花街は昼間とは大違いであった。通りを雑多な人々が行き交う様は、東部市や南部市の商店街と変わりない。人ごみは夜の花街では日常的な光景であるが、その時の私は、野次馬がたくさん押し寄せているのだと勘違いをしていた。ひどく混乱していた私は、自分が呼びだされた用事がなにかとてつもない大事につながっていて、それに釣られて野次馬が集ったのだと、はなはだ見当違いの料簡をいだいたのだ。
人々の勢いに圧倒されて呆然とする私を先輩が引っ張って行く。一人では喧騒と人並みに呑まれてしまい、とても店へはたどり着けなかっただろう。
〇鉢屋も昼とは打って変わっていた。
ガス灯と行燈が生みだす籬の影が人々の顔にかかって、それが罪人の入れ墨のように見える。店先の点描写真に見入る人々を、店の男(妓夫というのだとあとで聞いた)が親しげに呼びこんでいる。このとき初めて気づいたのだが、妓楼と聞いて思い浮かべる、籬の内に居座る女の姿がどこにも見当たらない。これも後で聞いたのだが、そうした光景は過去のものだという。権利だか立場だかの問題で禁止になったそうだ。
呼びこみの男は先輩と私を見つけると、はたと顔色を変えて店へ招じ入れた。新たな来客だと勘違いした仲居(これも後から遣手というのだと聞いた)が顔を出して、私たちだと認めるとすぐ吉永さんを呼びに行った。
吉永さんは二人そろっての訪問に驚いたふうでもなく、先輩と私を裏庭へ連れこんだ。そして開口一番、
「福寿が失踪しました」
と言って、淡い光が漏れる二階を見上げた。はっと息を呑む声が聞こえる。それが自分のものだとわかるのに時間がかかるほど、私は色を失っていた。灯りのない裏庭なのでその顔色ははっきりしなかっただろうが。
「置手紙の類も残っておらなんだか」先輩が聞く。
「〈鉢の花は空。わたしは消えます〉とだけ。まあ、文面を素直に受け取って、自発的な失踪と見ています」
二階からの薄明りの中、私の目は裏庭の縁台のそばに落ちている、あるものに釘付けになっていた。砕けた鉢植えである。中身が散った様子はない。とっくに片付けられたのだろうか。
いや、そうではない。
あれはおそらく福寿さんが手にしていた、冬には福寿草が植わっていたという空っぽの鉢だ。なにかの拍子で落ちたのかもしれないが、同じ名を持つ彼女が失踪したと聞いてしまっては、単なる偶然とも思えなかった。
「思い当たるようなことは?」
先輩が続けて聞く。
「いいえ。そろそろまた故障でもするのではないか、と見てはいたのですが、まさかこうなるとは思いもしませんでしたよ」
「警察へは?」
「花街における町内自治の原則は知っているでしょう。特に女関連では楼主が介入を嫌います。うちも同じですから、店の中だけで済ませています。もちろん発覚してすぐに、こちら側で人を使って捜索させていますよ。足抜けなんてことになったら、店の体面にも関わってきますから。もっとも半日以上経っているので、少なくとももう町内にはいないでしょう」
「そんな中でこいつを至急呼び寄せたのはなぜかの」
「福寿は鋼索通信を使って逃げたのか、それを早急に調べてほしいからです」
鋼索通信を使って福寿さんが逃げた?
本当にそうだろうか。即座に疑問が浮かぶ。
しかし私は、先輩と吉永さんが質疑するのを黙って聞いていた。先輩は要領を得ていたので、私が口を挟んでは余分であると感じたからだ。口を開けば余計なことばかりを聞いてしまいそうで、遠慮したというのもある。
「どこまで調べた?」
「俺の裁量が及ぶ範囲全てです。その上で裁量の及ばない鋼索通信が残った。そうなればあとは素人が判断するよりは、俺の裁量で知り合いの専門家に判断を仰いだほうがいいでしょう。こっちだけで下手な判断をすれば、向かいの井置屋さんを疑うことにもなりかねないんですから」
吉永さんの説明によれば福寿さんが消えた経緯はこうだ。
朝はいつも通りに食事を摂っていた。しかし営業時間を迎えるお昼を過ぎても、一向に顔を出さない。遣手が様子を見に行くと部屋に姿がなかった。店内を隅々まで探しても見つからない。失踪と判断せざるを得なくなる。他の店にそれと知られないよう男衆に福寿さんを探させる中、鋼索通信だけは専門外なので調べていない。しかし男衆への聞き取りで、直前に鋼索通信が動いていたのはわかっている。
それで鋼索通信の修理を託している私が呼ばれた。直前まで動いていた鋼索通信の搬器に、福寿さんが忍んで逃げた痕跡があるかを調べてほしいというのだ。そこを明らかにした上でないと、彼女の失踪を店外に公表できないという。
というのも、もし彼女が搬器を使って逃げたのだとすれば、向かいの店(もしくはそこの誰か)が福寿さんの逃亡に手を貸していたことになる。ある妓楼が他店の女の足抜けを幇助したとなれば、同業者への義理を欠いた裏切りである。むろん〇鉢屋としても、疑いを向けるには相応の証拠が揃ってからでないと、言いがかりになってしまうのを承知している。鋼索通信を調べるのは、向かいの店が関わったかどうかの可能性を探るためでもある。
「妥当なところですな。こちらは雇われの身。そのぐらいの頼みなら引き受けるのもやぶさかではありません」
先輩はうなずくが早いか、「では早速調べてみるか」と私に向いた。
先輩に伴われて二階へ上がる。襖ごしに衣擦れやら獣の甲高い鳴き声のようなものが聞こえてくる。肌を這う、むんとした熱れは、間近で発される他人の吐息にも似ていた。夜の花街に来てすでに何度も昼間との違いを実感しているが、店内ではひとしおその感を強くいだかざるをえない。
呼ばれたのは私であるが、肝が据わった先輩のなすがままに獣の巣の奥へと導かれる。先輩を連れてこなかったら、と思うと気が気ではない。
たどりついた福寿さんの部屋は静かなもので、清浄な空気が流れているような錯覚を起こすほどであった。出迎える者のいない無主の室内で先輩が灯りを点す。衣桁にかけられたままの打ち掛けに灯りが反射して、部屋がほんのりと白く染まった。
文机には硯箱だけが置かれていた。いつも無数に散らばっていた紙がないだけで、部屋からほとんどの生活感が欠け落ちたような気がしてくる。
部屋のくぼみの向こうには搬器が鎮座している。部屋を出る直前に動いていたというが、それからまた向こうが動かして戻って来たのだろう。向かいの店はまだ福寿さんの失踪を知らされていないのだ。そして今も知らないままでいるのは確実だ。というのも、福寿さんはおそらく――
「大まかな当たりはついておるか?」
部屋を見回し、落ち着きを取り戻した私を見計らって先輩が言う。質問というよりも、確認に近い聞き方であった。先輩もすでに当たりをつけているらしい。
「福寿さんは鋼索通信を利用して一人で逃げたと見ています」
「うん、向かいの井置屋は関係しておらんだろうな」
同じ考えのようである。それで私もすっかり自信が持てた。
念のために文箱だけが納められた搬器を確認して二人で部屋を出た。
さほど時間を置かずに戻って来た私たちを見て、吉永さんが立ち上がる。
「もうわかりましたか?」
「あと一か所だけ調べます」
先輩と私で裏庭の奥へ進み、竹垣に設けられた裏口の戸を軽く押してみる。前と同じく施錠されていない。それであらかた彼女が店を出た動きが読めた。
「先輩は彼女がなにを抱えていたか知っていたんですか?」
「まさか。知っていたとて、どうにかできる類のものでもあるまい。それなら知っていようが知らなかろうが、好きにさせておくがいいさと思って、彼女に取り合おうとは思わなんだ」
「だから見学などもさせずに、自分だけでさっさと修理していたんですね」
「福寿がそう言っておったか」
「先輩のことばかりではありませんが、食事や見学の合間や、修理後なんかにも色々と話してくださいましたよ」
「そうやって話を聞くから半端に興味を惹かれる。そうして尾も引きずられる」
先輩と私は最寄りの駅へ向かって歩いていた。時おり花街へ向かうのであろう俥とすれ違うが、あたりにはなんでもない住宅街の午後十時の光景が広がっている。
河骨町を抜けると、あの喧騒と人ごみが嘘であったかのように消えてしまって、まるで夢でも見て来たかのようであった。もっとも長く見たい夢ではないが。
「修理としては楽なものばかりであったし、それで金がもらえるのはありがたい話だ」
「私はそこまで割り切れませんでした。修理とも言いきれない行為でお金をもらうのに、なんだか釈然としないものを感じてしまって」
「面倒事の引き受け賃だと思えばよいものを。福寿の話を聞いたところでどうにもならんのだから、儂みたいに聞かんか、聞き流すかして彼女については黙っておく。それ込みの代金だろう」
一瞬でもどうにかしようと思った私には痛い言葉であった。
「……僕に代わったためにこんなことになって、失敗だったと思っていますか?」
「なぁに、責めたわけじゃない。むしろそんなふうに消えた原因を自分かもしれんと考えたり、消えた原因を考えたりするのは、かえっておこがましいかもしれんぞ。たとえ誰が請けていたとしても、いずれ福寿はこの道を選んでいたんじゃないか、儂にはそう思える。あれが鋼索通信の構造に気づいていなかったとは思えんからの。遅かれ早かれ起きる問題であったろう」
福寿さんはいつものように鋼索通信を稼働させた。搬器を載せた台座が上がっていく。福寿さんはそれを見送り、台座の下に生じた空間――点検通路へ身を進めたのだ。台座が上がっている間ならば、部屋と点検通路とを行き来できる構造なのは、修理に携わった先輩と私、そして部屋の主の福寿さんが知るところだ。彼女自身もそこから通路を覗きこんだと言っていた。
そうして点検通路の梯子段を降りきった彼女は裏庭へと出て、竹垣の裏口を開けて店の外へ逃れたのだ。裏口が施錠されていないのは確認したし、吉永さんも鍵をかけていなかったのを認めている。外へ出ればあとはどこへなりとも行ける。通りを渡るだけで町を抜けられるのだから。
先輩と私の見立てを聞いた吉永さんの、
「鋼索通信をよく知りもしないまま遠ざけていたばかりに、盲点でした」
という言葉は、素直に自らの失錯を認めているようであった。またそれを恥じ入るように、「そうしたのか」と小さくつぶやくのが聞こえた。
そうしたのだ、福寿さんは。彼のほうでは、搬器を用いて愛しい人に会いに行った者が少なからずいる、という女たちの間で交わされる噂話に引っ張られてしまい、実際上の利用にはまったく思い当たらなかったのかもしれない。
福寿さんの失踪は鋼索通信を利用したものであった。ただしあくまで利用であって、鋼索通信を使ったのではない。これは先輩と私でなくても、鋼索通信の構造さえ知ってさえいれば、機械に触れられなくてもすぐ気づけただろう。しかし〇鉢屋は構造の把握を怠っていたのだし、加えて裏口の鍵もかけていなかったのだしで、実際それらの失錯によって彼女は脱出できたのだ。
吉永さんは福寿さんの失踪と、どうして店外へ出たのかを口外しないよう求めてきた。先輩が全てを引き取ってうなずいた。私もことさらに声を上げようという気にはならなかった。
当然ながらどうして彼女が失踪したのかは解明されていない。それを担うのは機関調律師の職分ではない。解明したいと思うのは、先輩が言った通りおこがましくもあるのだろう。
「なぜ僕に交代したのですか」
「機関調律師として実地に動こうと心がけているのを耳に挟んで、適任だと感じたから後を託した。こういう始末になって後味が悪い思いをさせたのはすまんと思ってる。わかっておるとは思うが、福寿がこうなると見越していたわけではないぞ。ただこうなった以上、それを糧にしてほしいとは思っておるよ」
「他人事ですね」
「他人事じゃからな。しかし糧にしてほしいと思っておる後輩思いの儂の心に嘘偽りはない。自分事として捉えて考えてくれい」
「以前自分で考えろ、と先輩が仰言ったのは、あまり深く立ち入るなということを指していたんですか」
「さて、どうじゃったかの。昔のことはよく覚えておらん」
とぼけだした先輩には何を聞いても無駄だ。私は話を変えた。
「福寿さんは見つかるでしょうか」
「ほぼ見つからんだろう。探偵でも使えば話は別であろうがの」
「人を探すのに探偵を雇わないんですか?」
「福寿が消えたところで〇鉢屋の看板は傾きはせん。女が足抜けしたとあっては番頭と楼主の体裁は悪かろうが、探偵を雇って探す価値のある商品かどうかまでは、のう?」
商品。いまさらながらその事実に出くわして、ほとほと己の見識の甘さに目まいがした。それこそ彼女たちは鉢の花なのである。愛でられるために売られているのだから。
「帝都は広い。吉永は外に出た福寿を本気で探す気はないと見ておるよ」
「本気で、といいますと?」
「吉永がふと漏らしたのは聞いたか?『そうしたのか』と」
「ええ聞こえました。搬器を使ったと思っていたのに、裏をかかれるような方法を使われたから驚いたのでしょう」
「都合よく考えすぎだ。吉永はおそらく福寿が店にやって来た理由を知っていて、それゆえにどんな方法でもいずれ出ていくのを予見していたのではなかなろうかの。とどまるか、出ていくか。福寿は出て行く道を選んだ。お前はそうしたのか、と」
先輩は自信を含んだ笑みを私に向けた。
「僕の考えを都合がいいと言うなら、先輩の考えは穿ちすぎですよ」
「かもしれんの」
と自説に固執しない先輩は、どこまで本気かわからない。ただのつぶやきひとつ、どうとでも解釈はできる。
「いずれにせよ吉永が失踪を口外しないよう求めてきたのは、話をいたずらに広めたくないからだな。花街の内だけならまだしも、外からそういう話が漏れると否応にも真実味が増すからの。下手をすれば警察の介入を招きかねん。店としてそれは最も避けたかろう」
「それに言いふらしたところで僕たちに益もありません」
「消えたことを知りながら黙っているのは歯がゆいか?」
「福寿さんが自分の意思で消えたのならば、黙っていてもいいかなと思います。鋼索通信で逃げようとして事故になった女の話が噂としてあるそうですが、福寿さんも何かそういった噂になるのでしょうか」
「それはわからん。ただああいう女たちは耳聡いからの、吉永が黙っていても何かしらの形で女どもの間に広まるのかもしれん。もっともその噂話を聞くのは儂ではないよ」
出入りするのはお前なのだから。先輩が言外にそう伝えたのがわかった。しかし今後の見通しは不明だ。
「福寿さんが消えてあの部屋はどうなるのでしょう。別の人が入るのでしょうか」
「鋼索通信に穴があるのがわかった以上、店の方ではあれこれの可能性を検討して、しかるべき決定を下すだろうな。こっちゃ雇われの身、店の決断に従うしかあるまいよ」
先輩はなんとなく、鋼索通信の行く末を予見しているようであった。
実際にその通りとなって、吉永さんから鋼索通信を撤去すると電報があったのは、福寿さんが消えてから数か月後であった。以後この仕事は消えて、私としても用もなく河骨町へ行くのが憚られたから、その方とはとうとう連絡が絶えてしまった。むろん彼女の行方も分からずじまいである。
修理と関係のないこととはいえ、この件について思い出すたびに、私は今をもっても暗中にいる心地を感じる。そしてまれに鋼索通信と聞けば、苦みのある後悔と同時に、福寿さんの顔が思い出されるのだ。しかしその鋼索通信も、それから数年もしないうちに帝都から一掃されてしまい、ただただ苦い思いとなって私の胸の内に生きている。
『言伝は時計にのせて』『鉄の箱は花に厭われ』はこれにて一段落です。
「小説家になろう」のシステム上、完結としておきます。
一連のお話は「私」を主人公とする連作ですので、続きはまた思い付き次第再開します。




