第一節
【あらすじ】
春先のある日、『私』は碩学級の機関調律師、故平岩碩学伯の邸宅に遺された柱時計の調律を依頼される。柱時計は平岩伯爵が手ずから据え付けたものだった。機関調律師の先達として平岩伯爵を尊敬する『私』だが、伯爵夫人は亡夫を「仕事ばかりの人だった」と評する。
『私』は時計の調律を進めるにつれ、ある重要なものを発見する。
◆絶版の同人作品を改稿した作品です。
私は仕事場を目指して北部市を歩いていた。
一日限りの仕事先となる平岩伯爵邸は、北部市幸町の停車場より徒歩で三十分ほどの位置にある。付近はバスや街鉄(帝都市街鉄道)の路線から外れており、私のような公共交通機関に頼るものにとっては不便な一帯である。もっともこの一帯に住む人々は不便をかこってはいない。北部市では自家用車が日常の足として用いられているからだ。
とはいえ、いまは通勤時間帯を過ぎたぐらいの時間帯とあって車の往来さえほとんどなかった。北部市は停車場の近くに広がる店舗を除けば、おおよそどこも閑静な住宅街だ。
五件目の塀が尽きた。停車場からたっぷり十五分は歩いている。行く手には六件目の土塀が行く手に長々と伸びている。高さ七尺ほどの薄茶色の塀のあちこちには補修の後がうかがえる。頻繁に修繕が行われているのは、屋敷の住人が外へも目を向けていると外部へ示す証でもある。
土塀の屋敷を抜けるあたりで背広を着た二人の男とすれ違った。こんな時間に車にも乗らずどこへ行くのだろう。疑問に思い振り返ると、はたして向こうも同じことを思ったか、こちらをじっと見ており、目と目があう。さっと射るような視線を受けて、なんとなく気まずい思いがした。ちょっと会釈してすぐに目を逸らして少し足早になる。
それから少しして、七件目の屋敷の門扉にたどり着くよりも先に、前方からまた男がやってくる。ここは北部市の住宅街の一角だ。種々雑多な店舗や事務所、社屋が尽きず建ち並ぶ東部市ではない。こうも立て続けに務め人と行き会うのは珍しい。
今度の男は真正面から私めがけてやってくるなり、
「ちょっと君、いいか?」
避けようとする私に向かって、おもむろに懐から黒いものを抜いた。
表面に国章と〈I.S.P〉の金箔が押捺された黒革手帳だ。〈Imperial Special Police〉――特別高度警察隊。それだけで十分なのに、ご丁寧というか、自慢げというか、中まで開いて見せてくれる。男は何某だか某だか、自分の名を名乗って、
「特高だ。このあたりを怪しい者が出回っている可能性があるので警邏している。……ところで君はこの界隈で見ない顔だな。話を聞かせてもらっていいかな」
手帳を錦の御旗のように掲げる男は遠慮も会釈もしなかった。かえって揚々としているほどである。
怪しい者がいるという話を先に出したうえで、相手に同意を求める形で話を聞かせろと言うのがなんともいやらしい。あなたを疑っていますよと言っているに等しいではないか。こちらに一方的に一抹の不快を与えておきながら、しかしこちらが拒否しにくい状態に持ちこんでいる。こちらが断れば勝手に心象を悪くしてしまうのだろう。あまつさえ特高相手に拒絶の意を示すのも心理的に不安な気にさせられる。
付き合っても何の得にもならないが、付き合わなければこちらの不利になりかねない。そういう点がまことにいやらしかった。
特高に入隊した先輩に言わせれば、腹が痛くないのなら大人しく協力しておけ、ということらしい。親切な白旗の勧めである。
「ええと、私は仕事でこちらに来ております」
曖昧に答えてちらりと後ろを盗み見る。さっきすれ違った二人組の男が、ちょっと離れた位置からこちらをうかがっている。そのとき初めて気づいた。彼らも特高の捜査官なのだ。北部市は大きな敷地面積をほこる邸宅同士が隣接しあって区画を作っているので、せせこましい小道や入り組んだ路地裏といったものがほとんどない。挟み撃ちが効果を発揮する。あの二人はもともと私を後ろから見張るため先にすれ違ったのだ。
といっても、私にはやましい点は何ひとつないので、逃げようという気はない。
「いったいなんの仕事だ? 盗人は窃盗を仕事というぞ」
「平岩伯爵邸へ修理をしにいくのです。私は機関調律師の下積みをしていまして」
そういって工具一式の入った鞄を強調してみせる。
「中をご覧になりますか?」
「ああ、当然だ」
男は鞄をひったくるようにして手に取る。これではどちらが盗人だかわからない。相手が中身を検めている間に私はおもむろに学生証と学生手帳を取り出す。
「こちらが私の身分です。もしこの学生証をもお疑いになるのでしたら、学生課か大学の工学棟に勤める事務員に問い合わせてみてください。それで大学側が、『そのような生徒は在籍していない』というのでしたら、私が大学から切り捨てられたか、あなたが大学の回答をねじ曲げているかのどちらです」
苛立ちを隠さず長口上を述べる。男は手にした鞄の存在を忘れたかのように私の手帳に食い入る。その視線の先にも国章が金箔で押捺されている。特高と違うのは、その横に『帝大』の図案が入っていることか。
私にはこれで大丈夫だという確信があった。
特高こと特別高度警察隊の上級官庁にあたる特別高度警察庁には、当然ながら我が九重帝都大学の卒業生がひしめいている。上層部の子息が帝大の法学科に通っているのもよくある話。
もしこの捜査官が大学当局に、
『怪しい人間がうろついているという情報をもとに北部市を巡回していた捜査官が、近くを歩いていた男を疑って職質を行いましたところ、貴校の生徒だといって学生証を出しました。しかし偽造の疑いもあるので照会をお願いします。もちろんその生徒が犯人だと決まっているわけではありませんが……』
など問い合わせようものならば、即座に大学から特高本部へ、
『伝統ある我が校の生徒を犯人と決まったわけでもないのに質問するとはなんたることだ』
と抗議が飛ぶだろう。そうなれば帝大卒の上層部から管理職へ、管理職から目の前の男の直属の上司へ、直属の上司からこの男へ、と稟議のごとく順繰りに叱られていく羽目になる。
普段は人に自らの手帳を見せびらかしてふんぞり返っているであろう特高の捜査官が、人の手帳をまじまじと見つめるのはなかなか珍しい光景といえるかもしれない。不快な質問を投げかけられていた私は、そんな底意地の悪い思いをいだく。
捜査官はしばらく学生証と手帳を交互に見つめていたが、ようやく得心がいったらしく、
「ナント、帝大さんでしたか。これはとんだご無礼をおかけしまして……」
先ほどの態度はどこへ吹き飛んだのやら、一転して深々と頭を下げた。
私は鞄を取り戻し、男には構わずそのまま横を通り過ぎる。本来ならばこうやって知らぬ顔をして行き違うだけだった関係なのを、あらぬ疑いを向けられ余分な時間を食ってしまった。もともと痛くもない腹を探られていたのが元の状態に戻っただけだ。勝ち誇ってもなんの価値もない。
十一件目の塀――ようやく目的の平岩伯爵邸へとたどりついた。
伯爵邸は周りの屋敷に比べればいささか小ぢんまりとしているが、それでも他市の住宅などとは比べるまでもない大きさである。邸宅といってさしつかえないだろう。
*
「庚侯爵令嬢よりご紹介にあずかりました者です」
「お話はうかがっております。本日はどうぞお世話になります」
伯爵夫人がほほ笑む。初めてお会いするが、人の好さそうな顔をしている。ふっくらした丸顔に柔和な笑みが浮かべば、さらに丸っこくなったような印象を受ける。そんな柔らかな表情の中に貫禄がにじむ。険とは無縁の顔つきだ。年のころは五十代後半とうかがっている。
「侯爵閣下には主人が古くから懇意にしていただいていましてね、あなたを紹介してくれた絵梨さんもおしめをまいていたころから存じ上げているの。あの子よくおもらしをしていましてね、お付きの女中はしょっちゅうそれを洗濯していましたのよ」
ほ、ほ、ほ、と笑ってから、夫人は香り高い紅茶を静かにすすった。
「絵梨さんったら小さいころから聞かん気の強い子でしたけれど、いまもお変わりないそうね。昔は知り合いの子爵家の子を口喧嘩で泣かしたりしていましてね、お父君の侯爵閣下は、『この子は将来活動家になるのではないかしらん』なんてやきもきしていましたわ」
今回の仕事先を紹介してくれたのが、庚侯爵令嬢こと庚絵梨だ。自由闊達を旨とし、分け隔てなく下の名前で呼ぶように求める、この開明的な女友達の性格は幼少時よりそう変わりないらしい。そんな性格の本人はさして気にはすまいが、彼女も女子であるので幼少時の粗相の話は聞かなかったことにしよう。
夫人は、私と唯一の共通の知人である彼女の話題を糸口にして、本題を切り出す気でいるのだろう。そう思っていたのだが、
「その子が立派な子女になって、いまではあの帝大生だというのですから、ほんとうに時の流れるのは早いもので――」
平岩夫人はこちらが軽く相槌を打ったり、返事をしたり、何かを言いかけたりする隙も与えないで言葉を重ねていく。話好きな性格のようだ。夫君の伯爵は五年ほど前に亡くなっているから、普段は女中が話し相手を務めているのだろう。
「そうそう、あなたも絵梨さんと同じ帝大生ですってね」
ようやくこちらに明確な回答を投げかけてくれるころには、夫人は自ら二杯目の紅茶を注いでいた。
「はい、学科は違いますが絵梨さ――庚侯爵令嬢には親しくしていただいております」
当の彼女が普段から絵梨さんと呼ばせているものだから、ここでもそのように言いさしてしまい、慌てて言い改めた。
「本日こうして平岩伯爵夫人にご紹介していただけるよう取り計らっていただいて、侯爵令嬢にはとても感謝しています。伯爵夫人におきましても、お目通りいただけて光栄です」
「いいえ、あなたも絵梨さんと同じ栄えある帝大の生徒ですし、主人の後輩でもあるのですから、なんの遠慮もいりませんのよ」
そう言って夫人は、帝大、帝大、と噛みしめるように口をもごもごさせた。
世間は帝大の生徒を裕福な層の出身者と考えがちだ。むろん九重帝都大学校はそう考えられるに見合うだけの知名度と学費、学識の高さを誇っている。それだけに世間の帝大生を見る眼差しはある時は厳しく、またある時は尊敬を向けられる。通称を一大と呼ばれた時代より数々の碩学、碩学級、政治家、経営者、文化人を輩出してきた歴史と、歴史には残らずとも各界への優秀な人材の供給によって裏打ちされた権威は強い。
だから人々は忘れがちだ。
戦後の帝大には奨学金制度があり、ここ数年では中間層――いわゆる平民による制度利用者が着実に増え続けているという事実を。
現在のものへと名と学制を改めてからの帝大は、〈貴賤を問わぬ開かれた学門を〉との方針のもと、旧来の華族や郷士、金銭を工面できた者以外にも道を開く努力を重ねている。その最たるものが数年前に創設された奨学金制度だ。
旧制時代には平民が入学に能う成績を示していても、さらに入学金や学費という経済的な門が立ちふさがっていた。学資を工面してもらうため地元の有力者を頼ったり、なんらかの伝手を得て帝都の華族や碩学の下で書生をやったりしていた学生は少なくないという。それがかなわない者は、学費が安い士官学校へ入るか、いずれにせよ進学を断念したと伝え聞く。
現在では奨学金のおかげで他家の者に面倒を見てもらったり、金銭の都合で進学を諦めたりするような状況は相当に減っているという。
私自身この制度によって入学を果たした一人だ。近い親戚はおろか遠縁にまで手を広げても名士や華族はおらず、郷士にも頼れない身の私は、旧制の一大であったならば入学の道はなかっただろう。
もっとも奨学金は万能の通行証ではない。利子の低い借金だ。
将来への先行投資として、伝手のある者に全額を都合してもらっていた旧制時代と比べてどちらがよいのか、有意な比較ができないぐらいには奨学金制度の歴史は浅い。ただ、制度を利用した卒業生たちからは、奨学金の返済に苦労しているといった話は出ていない。帝大の卒業生とくれば通常働く口に困りはしないからだ。これは一大時代より培われてきた大学の権威の賜物ともいえる。
さて夫人も私も話がずれてしまった。
「帝大の方に修理してもらえるのなら、一端の時計職人に頼むよりもずっと安心できます」
一端の時計職人、と口にする夫人にさしたる悪意はないのだろう。だが私とて伯爵夫人からすれば一端の平民だ。それを知ったら彼女はどんな顔をするだろうか。
「普通の職人が出入りするには今はすこし厄介かもしれませんね。なにせ特高が警戒しているのですから……、でも帝大生のあなたはなにも言われなかったでしょう?」
「いえ、実はここに来るまでに一度特高に呼びとめられてしまいました」
「まあ、あの人たちは帝大生でも不審者だと疑って声をかけるのね」
夫人が驚いて言う。
「一大時代のように制服が決められていた時分と違いまして、ぱっと見ただけでは帝大生だか不審者だかわからないからでしょうね」
ましてや北部市の界隈を、町に馴染まぬような顔の若者が真っ昼間から歩いていれば、警戒にあたっている私服警官が声をかけるのは当然かもしれない。帝都の治安維持と安全保障を任とする特別高度警察隊にしてみれば、黙って見過ごすほうが仕事を怠けていることになる。特高は素封家や警護対象の碩学位が邸宅を構える北部市の見回りも仕事のうちなのだ。くわえて警戒態勢とあらば、普段よりも厳重に警邏しているのだろう。
理屈では理解できる。それでも彼らの威丈高な、相手を不審者と決めてかかる口吻には苛立ってしまう。学生証を見せた途端にころっと変わる相手の態度も苛立ちに拍車をかける。だからというべきか、帝大の権威をあのような形で発揮させたのも、あまり悪い気がしない。先に特高の権威を用いてきたのはあちらなのだ。こちらも同じように権威で跳ね返しただけである。
市街の見回りを担当するような平の捜査員はああいう具合であるので、率直なところ人々の受けはよろしくない。
「なんでもこの界隈では怪しげな人が出るそうで……」
私の反芻など露知らぬ夫人は、
「昨日ね、我が家にも特高が訪れましたのよ――」
『このあたりでおかしな声を聞いたり人を見かけたりしませんでしたか』
夫人が応対するなり、特高の三人組はそう切り出したという。
『いいえ、私は何も見ていませんし聞いていませんよ』
『本当ですか? たとえば、お宅が地下に怪しい男をかくまっているとか』
夫人は笑いながら特高の声真似をしてみせたが、はたして似ているのかどうか、その時に夫人へ取りついだ女中にしかわからない。
『特高さんも異なことを申すのですね。うちは夫が亡くなってからというもの、信頼のおける女中とわたくしが住んでいて女手ばかりですのよ。わたくしたちが殿方を囲っているとでもおっしゃるのかしら? ほ、ほ、ほ、第一うちには地下室なんてありません。生活も裕福ではございません。怪しい者をかくまう余裕なんてどこにもございません』
この夫人のことだ、一息にまくしたてたのだろう。
『いえ、平岩伯爵のお宅からと決まったわけではないんですが、不審な人物がいるのではないかという話がございまして……』
『それで未亡人が地下に男をかくまっているという憶測を立てたと言うのですか、とんでもない。地下にいるという証拠はつかんでいるのですよね?』
『まだ地下を探ったわけではないのです。が、排水溝や下水通路の奥から声がするなんていう情報もありまして、一帯のお宅に同じように聞き込みをしているんです』
帝都の地下は入り組んでいるという話だ。広範囲を捜索しようとすれば特高といえどもそれなりの準備と、当該区画の地下に詳しい配管業者や施設管理業者の案内が必要となる。だから彼ら特高の、まずは近隣に心当たりがないか聞いてみる、という手はあながち間違いではない。
その聞き方が礼儀正しいか、相手にどのような印象を与えるかどうかはまた別の話。
『さようでございますか。先ほども申し上げました通り、我が家に地下室はございません』
夫人がぴしゃりと言うと、特高はさすがにすごすご引き下がっていったという。
「――それでね、その三人組は去り際になんて言ったと思います?」
いったいなんでしょうか。そう口にする間もなく、夫人は声真似を続けて、
「『得体のしれない声は怪人かもしれませんよ、伯爵夫人もどうかお気をつけください』なんて、脅すように言いましたのよ」
「へえ、怪人ですか」
ようやく相槌を打てた私は口をぱっくり大きく開いていた。水練の課業で久しぶりに息継ぎができた時のそれに似ている。
「ええ、でも怪人がそういった地味な動きをするとも思えなくって、きっと特高が操作をする口実じゃないかしらと思うのよ」
怪しい人を怪人というのは辞書の上。現実で口にする場合はもっと違う意味合いを帯びてくる。
「特高は怪人が相手だとてんで役に立たないという話を聞きますが、最初から怪人でないという決めつけもかえって危ういかもしれませんね。特高も嘘やでたらめでそんなものを持ち出すとも思えません」
「用心に越したことはないかしら」
「はい。もしもご迷惑でなければ、調律の際に屋敷の各所を見て回りましょうか。地下からの怪しい声というのは気にかかります」
この申し出に夫人は、「ああ」と口を丸くして、「それはいいの」と手を打った。
「それより修理だわ。なんだかすっかり話が逸れていましたわね」
三杯目の紅茶を注ぐ夫人から二杯目を勧められたのでいただく。
「絵梨さんから優秀な方だとうかがっていますあなたからすれば、なんでもない故障なのかもしれませんけれどね」
そう言って夫人はちらりと壁のほう――視線をたどった先には故障した時計があるのだろう――を見る。それから夫人はまた舌を乾かしながら言葉を重ねていく。
紅茶には苦味が回りはじめていた。