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学生寮に戻ったイリエーサーは金庫のダイヤルを回して、中身を確認する。金庫には、一週間分の小遣いをまとめて入れた封筒がしまってあるが、明日にでも銀行に行き、日本円を下さなければ学校で昼食も取れないだろう。所持金の減りは封筒の薄さが証明している。物価の高さに加え、最近は金遣いも荒くなっているので、ATMで多めに引き出しても数日経てばこうしてなくなってしまう。
大森たちと遊ぶ頻度が多くなったのも金銭に影響しているのだろう。彼らとはほとんどの場合、アミューズメント施設に出掛けるので、自然と小遣いの減りも早くなるのだ。以前、金銭面で心配する飛鳥には「大丈夫だ」と言ったが、今となっては全然大丈夫ではない。日を追うごとに財布から金銭がなくなっている。ゲームやカラオケ自体は確かに楽しいが、入店するたびに財布を見ては、どれくらい減って行くのだろうと考えて不安になる毎日である。
初めの頃は、大森たちもイリエーサーの負担を少なくしようと配慮してくれていたが、ここ数日で頻繁に支払い要求をしてくるようになった。今週は毎日欠かさず複合アミューズメント施設で遊んだが、金を払う役目は全部イリエーサーだった。大森によると、日本にも「ケレケレ」と似通った文化が存在しており、友人に対して代金を建て替えたりするのは親しさの証明にもなるので、躊躇わずに払って欲しい、とのことである。大森たちはその文化をイリエーサーにも分かりやすいように「クレクレ」と称して説明してきたが、日本のことを事前に勉強してきた彼には、聞いたことがない話だったので正直、戸惑っている。
「ケレケレ」とはイリエーサーの出身地、ビチレブ島の風習である。「他人のもの=自分のもの、自分のもの=他人のもの」、が成立する相互扶助の文化で、持ち主が自分以外の誰かのものでも、自由に使って構わないとされている。イリエーサー自身も親族の家に尋ねて行ったとき、叔父の財布からいくらか拝借したことがある。持ち主には後ほど、小遣いとして使わせてもらったと話したが、一切咎められることはなかった。「ケレケレ」はビチレブ島だからこそ、認められている文化なのである。当然、日本で同等の行いは許されていない。出国前には何度も先生に「トラブルや警察沙汰にもなりかねないので、くれぐれも他人のものは無断で使用しないように」と注意されている。そのため、日本で暮らしを始めて以降、許可が下りるまで他人の私物には触れないようにした。助け合い精神が浸透していても、国が違えばあらぬ誤解を招いてしまうので、意識して「ケレケレ」を止めるようにしたのである。
休日になると必ず、大森、鈴村、成田のうちいずれかから遊びの誘いが入る。土日だけで消費額は最低五千円。自分がプレイしないゲームでも払わされるので、どんどん減っていく有り様だ。イリエーサーも最初の数日は喜んで小銭を出していたが、与えるばかりになっているのに気付き、段々と不公平感を抱くようになった。ゲームセンターに通い始めた当初、大森たちが払ってくれていた額と比較しても、イリエーサーが払った額は釣り合わない。三人とも、財布には万札が何枚も入っているのに、なぜ自分だけが払わなければならないのか、理解に苦しむばかりである。疑問を投げかけてみても、その都度、早口の日本語であしらわれて相手にもされない。
この日も大森たちと、半ば強制的に「ゲームセンター」で遊ぶ約束をさせられている。今、金庫から財布に収めた小遣いも、彼らとシェアするためだけのものである。アミューズメント・アーケードで納得のいかないまま、コインを投入する自分の姿を想像すると、憂鬱さが込み上げる。プレイ中はゲームに集中し、楽しさで気分を紛らわしているが、終わった後には充実もなく、虚しさしか残らない。
放課後から夜にかけ、学校や近所の友人たちと集まって遊んだビチレブの情景が懐かしい。地元の店でゲームをすることもあったが、遊ぶと言えば屋外が中心だった。近くに空き地があり、暗くなるまでそこで過ごすのだ。改めて思い返すと、ボールを持ってきてラグビーの真似事をしたり、犬と戯れたりした、夕方のひとときが恋しくて泣きそうになる。
近年、日本の学生が外で遊ぶこと自体、珍しくなっているらしい。憧れの日本に来た身として、不平不満を述べるべきではないのだろうが、複雑な心境である。とにかく、この調子で遊びに金を掛け過ぎたらイリエーサーの生活は破綻してしまう。「ゲームセンター」のことは人に言わないようにと、念を押されているので、まだ誰にも相談していない。信頼できる友人との約束は厳守する。これも、日本人の間で浸透しているごく当たり前の価値観だと聞いている。破るようなことがあれば、クラス全体から白い目で見られ、満たちからも例外なく軽蔑されるだろう。
待ち合わせは、午後四時半にゲームセンター前となっている。現在時刻は四時二十分。移動手段が徒歩のみのイリエーサーでは、いくら急いでも間に合わない。日本は時間に厳格な国で、待ち合わせの約束をしたのであれば原則、十五分前に到着しておかなければならない。例え相手が学校の友達だとしても時間ぴったりに間に合うだけでなく、早めに到着しておくのがマナーとされている。その点においてもビチレブとは違う。向こうでは学校に遅刻できないものの、友達同士の約束であれば多少遅れても寛容に見てもらっていた。
大急ぎで学生寮を出ると、イリエーサーの携帯電話が鳴った。大森から催促の電話が掛かって来たのである。
「ハロー」
「もしもし、今どこらへんにいるの?」
「マダ、家デス。コレカラ向かいマス」
「は? まだ家も出てないの? 困るよ。一応、俺ら高校生なんだし、お前が来るのを待ってたら一時間もいられないじゃないか」
大森が待ちくたびれて苛立っているのは、電話越しにも伝わってくる。先日、他店で年齢確認されたこともあって、神経質になっているのである。イリエーサー一人が遅れてきたせいで遊ぶ時間がなくなるなんて、たまったものではないのだろう。
「ゴメンナサイ……急イデ向かいマス」
「もしかしてお金ないの?」
「ハイ、お金ナイです」
「そうか……なら、良いよ。今日は俺らが払ってやる。鈴村とかにもイリエーサーは金なしだって言っとくから」
「本当、デスカ?」
「うん、俺らって友達じゃん。助け合いだよ、助け合い。だから、さっさと来てね」
「アリガトウ」
イリエーサーは礼を言って電話を切る。大森との会話で、沈みかけていた気持ちが和らいだようにも感じたが、「助け合い」という単語だけは相変わらず、重くのしかかっていた。