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高校に入学して約二か月、雨天の多い六月の朝。金井満は昇降口で、靴を上履きに履き替えていた。彼は低血圧で朝に弱い。どう我慢してもあくびが出て、倦怠感が誘発される。大きく開いた口を押えていると、後ろから勢いよく肩を叩かれた。眼鏡がずれ、驚きと同時にムッとする。いつになっても、あくびの邪魔をされるのは不愉快である。
「何だよ、あくびの最中に驚かすようなことはしないでくれ」
眼鏡の位置を戻し、振り返りもせずに言う。この高校で「よう」と親しげに挨拶してくる人物と言えば一人しかいない。柚木アキラ、高校に入り、初めて出来た友人である。
「うるせえ。お前が大あくびしていると、俺にうつるんだよ」
彼はいちゃもんをつけた直後に、顔を覆っている。言ったそばからうつってしまったらしい。涙をため、「眠い」と愚痴を吐いて、瞼を擦る。
それから二人は特に会話もなく、並んで廊下を歩いた。登校時に誰かと教室に向かうのは、高校生活が始まって以来、初めてのことだ。アキラと親しくなったのは、つい最近のことで部活動が始まり、五月も終わりに差し掛かってからである。
満は新入生たちが友達作りに躍起になる、入学当初の雰囲気が苦手である。出だしが肝心とばかりに気合を入れ、次から次へと知らないクラスメイトが絡んでくるあの空気だ。明るく振る舞うことで彼らなりに不安を解消しているのだろうが、対応する側になると疲れてくる。拒絶しないが、受け入れもしない。話しかけられたら応じるが、こちらから絡んだりはしない。満は一人一人の相手をしながらも、自分が友達としてふさわしいのか、品定めされているように感じ、楽しさよりも窮屈さの方が勝っていた。
こういうのは、大げさな被害妄想なのかも知れない。でも、あながち間違いとは言えない筈だ。無意識のうちに他人を品定めし、ランク付けする。自分を含め、多かれ少なかれ、誰にでもある心理だと思っている。だから、彼は最初から積極的に友達作りをしに行かない。まずは動作を伺って相手を知り、付き合い方を考える。そのため、友達が出来るのは大抵、周りが落ち着いてからになる。
アキラと親しくなったのは、麻雀部所属という共通点があったからである。一年生の麻雀部員は現在二人だけなので、会話する機会は独りでに増えていった。六月に入って、満もやっと戸惑っていた環境に順応し、高校生活での基盤を築いたのだ。
「うわっ、あいつら今日もいるのかよ。毎度毎度のことながら、こそこそ何をやっているんだ?」
教室に向かっている途中でアキラが立ち止まり、心底嫌そうな表情をして、階段の踊り場を指さした。満は眼鏡のレンズを服で拭き、その先を見る。一階から二階に掛けての踊り場には、円形になって堂々と座る三人組がいた。髪を茶色に染めた大森、角刈りで大柄の鈴村、気の弱そうな成田の三人だ。ほぼ毎日、同じ場所にいるので、見慣れた朝の光景となっている。鈴村と成田は余所のクラスでありながら、行動するときは必ずと言っていいほど、大森と一緒だ。彼らは朝っぱらから通行の邪魔になっているのも構わず、大声でゲラゲラ笑ったり何かを話したりしている。出身中学が同じだったアキラによると、万引きの常習犯で何度も補導されているだとか、詐欺まがいのアルバイトをしていただとか、この三人組には常に悪い噂がついて回るという。そんな面々がなぜ揃いも揃って同じ高校に入学できたのかは分からない。ここの高校は公立だが、偏差値は県内でも上位で、問題行動にもそれなりに厳しい方である。アキラは裏口入学を疑っているが、大森の親が教育委員を務めているそうなので、入学時に何かしら便宜を図った可能性も正直、否定は出来ない。
アキラは彼らのことを酷く毛嫌いし、裏では「三バカ」と呼んで揶揄している。「三人を一纏めにするのに便利な名称だろ」と本人は言っているが、そう呼んで良いものか躊躇いはある。他二人はともかくとして、リーダーの大森は決して馬鹿ではない。遊び呆けているように見えて、勉強が出来るし、頭の回転は満やアキラよりも速い。それは入学して、約二か月間の授業と実力テストで立証済みである。
「あたしは集まるな、と言ってるわけじゃないの。そこは人が通るところだから別のところに移動して欲しいと言ってるの」
踊り場に近づいていくと彼らの他にもう一人、クラスメイトの吉川涼夏がいた。両手を腰に当て、踊り場を占拠する三人と睨み合っている。確か彼女も出身はアキラたちと同じ中学である。清潔そうな栗色の長髪をした涼夏は、小柄な文系女子に見えるが、その体型に似合わずスポーツ万能である。新体操部の彼女が綺麗にバク宙を決める姿は、満も何度か目撃している。
「何でそんなことまで指図されないといけないの? お前に何の権限があんの? 人が来たら、退いてるし別に良いじゃんか」
周囲には通学鞄やアイポッド、漫画、スマートフォン、菓子類が所せましと散らばっている。これを見て「余所に行け」と言いたくなるのはごく普通のことで、先生たちもよく放置していられるものだ。朝は職員会議があったり、昇降口や校門付近で生徒指導していたりと忙しく、ここまで手が回らないのだろうか。大森たちは涼夏に注意されても、聞き入れようとはしない。ふてぶてしく居直っている。その態度に苛立ちを覚えてか、アキラの指がポケットのそばで神経質に震えていた。
「あそこを素通りするのは気まずいし、向こうの階段から回り込もうか?」
「ああ……」
階段は反対側にもあるので、殺伐とした踊り場を無理して通過する必要はない。満が提案すると不満そうにしながらも、アキラは頷いた。
「あのねえ、あんたたちがこんな風に占領していると威圧感があって通りにくいって人もいるの。分かる? 避けているから目をつぶれなんて横暴がまかり通るわけないでしょ」
言い争いは止まらない。「通りにくい人」と聞き、自分たちのことを指してるのではないかと考え、一瞬ひやりとする。
「通りにくい奴って誰だよ。ここに連れて来い。で、そいつに直接言わせろ」
「そうそう、教えてくれないとこっちだって退けないからね」
涼夏が正論を述べたところで、大森たちは一切動じない。逆に鈴村や成田が彼に同調して煽り始めた。
「そんなのあたしが教える訳ないじゃない。みんな、あんたらと面倒になるのが嫌なんだよ」
「どうせ、そういう奴がいるっていうのは嘘なんだろ。安っぽい正義感を振りかざすな。キモいんだよ」
「違う、嘘なんかじゃ……」
男三人に容赦なく暴言を浴びせられ、声が少し震えている。誰かが横やりを入れて彼女の側に立ってくれるのを期待したが、行動を起こす者はいない。
「もう良いから消えろよ。ブス、目障りだ」
「いい子ぶるなよ、ビッチ」
三バカは楽しそうに追い打ちを掛ける。何も間違ったことを言っていない涼夏に対して、寄って集って罵る行為はあまりにも理不尽である。満はこのまま、吉川涼夏を見捨てて教室に入るのが正解なのか、迷い始めていた。涼夏と三バカの口論はチャイムが鳴るか、誰かが止めに行かない限り、続くだろう。
「あー、もう我慢できん」
足を止め、アキラが唸る。
「お前は先に教室へ行ってろ。ちょっと、あいつらを説教してくる」
「待って、俺も行くよ」
「良いのか? あいつらはクソみたいに面倒な奴らだぞ?」
「だったら尚更、二人で行かないと。一人で三人分の怒りを買うより、二人で三人分の怒りを買って分散させた方が良いよ」
「何だ、その理屈?」
「三を一で割れば三、二で割れば一・五。今回は吉川さんと俺らで三人だから綺麗に三で割り切れる。三対三、フェアだろ」
「なるほど、その発想はなかったわ」
咄嗟に思いついた数式のロジックだが、納得してくれたようだ。
「しゃっ、なら一丁行ってくるか」
助け舟を出すことで合意した二人は、気合を入れて階段の方へ引き返す。踊り場に行き、両者の間に割って入った。
「何だよ?」
緊張で体が震えている。大森は二人が涼夏の加勢に現れたのだと理解して、すぐに睨みつけてきた。
「お前らもういい加減にしろ。人に迷惑かけておいて、注意されたら逆ギレしてんじゃねえよ」
「ああ? お前には関係ないだろ? さっさと教室行けよ。それとも責められている女の子、庇って好感度でも上げたいのか?」
「うるせえな、そんなんじゃねえよ」
「何?」
「お前らさっき言ってただろうが。威圧感があって通りにくい人がいるなら、そいつを連れて来いって。だから、来てやったんだ。文句あるか?」
「はあ? お前、本気で言ってるのかそれ?」
「当たり前だろ」
「てことは、何だ。この女に、『怖いので僕たちの代わりに注意してくだしゃーい』と、お願いしたのか? 女子に庇ってもらうとか、ダッセえな。もう死んだ方が良いんじゃねえか?」
「そういや、こいつらさっき下まで来てたわ。で、俺らがいるのを見て、引き返していった」
「ええ? じゃあ、本当に僕たちが怖かったの? 情けない奴」
「黙れ、お前ら」
「お前がこの世から消えてくれるなら黙るよ」
「この世から消えるのは貴様らだ」
アキラは挑発を受け、勢いよく大森の胸ぐらを掴む。
「あらあら、怒っちゃった?」
大森は胡坐をかいたまま、薄笑いで見上げている。廊下に数人の野次馬が集まっていたが、やはり止めようとする者は現れない。みんな巻き込まれるのが嫌なのだ。
「お前は中学の時からそうだったよな。上級生にはビビッているくせに、俺らには喧嘩を売って来る。舐められたものだ。実際、やり合って勝てる自信でもあるのか? 女子に助けてもらうような奴が。偉そうにするならほら、殴ってみろよ。汚名返上、程度にはなるかもな」
大森はアキラの腕に爪を立て、噛んでいたガムを顔面目掛けて吐きかける。アキラはそれを素早く交わし、怒りに任せて相手を床に押し付けた。
「ふざけんな。てめえ」
「おい、止めろ」
拳を振り上げたので満が慌てて、羽交い絞めにする。いくら向こうに非があろうと先に手を出してしまったら、終わりだ。
「落ち着け、挑発に乗ると相手の思う壺だ」
「そうよ、何もこんなクズのために停学になることはない」
涼夏も心配して説得に加わる。
「停学……か。そりゃ、困るな」
殴ろうとしていたアキラは我に返り、大森の胸元から手を放した。その直後、一触即発なムードを断ち切るかのようなタイミングで、予冷が鳴る。
「うざいな、お前ら」
解放された大森はズボンの埃を払い、あちこちに散乱している菓子類や漫画などを学生鞄に仕舞っていく。鈴村、成田も彼に倣って、所有物を片づけ始めた。
「もういいや。授業も始まるし、やってられるか。行こうぜ」
「だな、やってられねえよ」
「ちょっとからかっただけなのに熱くなって、馬鹿みたい」
踊り場から二階に上がっていく三人組には、素行の悪さを改めようという意思がさらさらないようだ。明日も明後日も同じことを繰り返すつもりでいる。
「待てよ、お前らみっともないぞ」
「は?」
背を向けていた三人は満の声に立ち止まり、振り返る。
「世の中、自分中心に回っていると勘違いしてんなよ」
「ええっと。お前、誰だっけ? 存在感が薄すぎて、名前も覚えてないけど。確か、俺と同じクラスだよな……」
「俺のことは何とでも好きに言えばいい。ただ、お前らの行動が他人の迷惑になっていることを忘れるなよ。我が物顔でこんなところに、たむろされたら退けと言われるのは当然だ」
「で? 君もそいつらと一緒に優等生を気取りたいわけ? 眼鏡君」
「勝手にそう思ってろ。俺はクラスの意見を代弁させてもらっただけだから。俺らの言い分が間違っていると主張するなら、先生に相談して、白黒はっきりつけようじゃんか」
「おい、聞いたか? 先生に相談するだってよ。小学生かこいつ」
「俺が小学生なら、他人の迷惑も考えず、自分のわがままを押し通している、あんたらはそれ以下だろ?」
「ちっ」
大森は反論代わりに舌打ちして、階段を上る。去り際に鈴村が壁を蹴り、成田が「覚えていろ」と中指を突き立てていった。痛くもかゆくもない惨めな威嚇に思わず、失笑する。
「ごめん。朝から迷惑掛けちゃったね」
「こちらこそ、熱くなって悪かった」
両手を合わせて謝る吉川涼夏に、アキラが苦笑いする。
「ううん、助かったよ。でも、あんな大嘘ついてどうするの? あいつら絶対また、何か言って来るよ?」
「別に良いよ、嘘じゃないし。俺もあの三人組に迷惑している奴の一人だ」
「それじゃあ、本当に怖かったの?」
「怖くなんかねえよ。あくまであいつらが迷惑だったってだけだ」
冷やかされて赤くなるアキラに、涼夏と揃って吹き出した。
「金井君も良かったよ。まさに正論って感じで」
「い、いえ、どうも」
「なんか朝から疲れちゃったけど、気持ち切り替えないと。今日からうちのクラスには留学生も来るし、ギスギスした空気で歓迎するわけにはいかないもの」
「ああ、そういえばそうだった。留学生が来るんだ」
アキラは悲鳴にも似た声を上げ、髪を掻き毟る。担任よりクラスに留学生がやって来ると告げられたのは、ゴールデンウィーク明けである。五ヵ月間、日本に滞在するそうなので勉学を共にする期間は長い。満の隣、廊下側の最後尾が空席となっているので、おそらくそこが留学生の席になるだろう。近くなので色々と世話をすることにはなりそうだが、生憎、満の最も苦手とする教科は英語である。この高校に合格できたのも、英語以外の点数が良かったからだ。
「俺、英語は全然駄目だから、通訳頼むよ」
「ええ……無理だよ。勘弁してくれ」
三人が教室に入るのと、ほぼ同時に本鈴が鳴る。ホームルーム開始は少し遅れ、外国人少年を伴って担任がやって来た。事前に留学生は同い年だと聞いていたが、実年齢よりも若干幼く見える。担任が黒板にカタカナとアルファベットで名前を書き、手短に彼を紹介した。
「ハジメマシテ、イリエーサーです」
少年はぺこりとお辞儀して、日本語で挨拶する。彼は南太平洋のビチレブ島から日本語と日本の文化を学びに来たそうだ。向こうの学校で、日本語の訓練をして来ているので、軽めの日常会話であれば大丈夫だという。勉強期間は僅か一年。中学から三年以上、英語を学んできているのに、未だに上手く話せない満にとって、綺麗な発音で外国語を話している彼は少しうらやましい。イリエーサーの自己紹介が終わり、クラス全体から歓迎の拍手が送られる。彼は担任の指示を受けて教壇を下り、満の隣席に座った。積極的に絡んでいく勇気はないので取り敢えず、まずは様子見といこう。
「イエーイ。ようこそ、日本へ」
階段で横暴な態度を取っていた大森が調子に乗り、「ピューピュー」と指笛を鳴らす。一体、何がしたいのか満には理解できなかった。
留学生との対面を終え、約五分間の休み時間に入る。授業開始までの短い時間だが、イリエーサーの周囲は想像通り賑やかになった。数人の男子が群がり、イリエーサーの故郷はどんなところか、日本のどこに興味を持ったのか、などの質問攻めをしている。ただ、残念なことに、言葉の壁があるせいでスムーズに会話は進んでいない。英語に日本語、そしてボディランゲージを用いながら、意思疎通を図るのがやっとといったところだ。
女子は吉川涼夏を含め、少し距離を置いたところで、興味深そうに彼らのやり取りを見守っている。満は当然、輪に加わったりはせず、先に授業の準備を済ませて、アキラの机に向かった。アキラの席は最前列の教卓前である。
「人気者だな、留学生君。世話してやれば?」
「いや、俺は良いよ……。むしろ、アキラが色々と教えてやれば? イギリスで生活していたことがあるんだろ?」
「あるけど、外人は苦手だ。文化や宗教の違いとかあって、何を考えているのか分からないから嫌なんだわ。会話も必要最低限で良いよ」
「冷たい奴だな。イギリスで何があったんだよ。誰かと揉めたり……とか?」
「別に大したことじゃないよ」
アキラは苦笑いして肩をすくめる。
「なんだ、お前ら留学生ごときにビビッてんのかよ。情けねえな。まあ、女子に助け求めてる時点でお前らのヘタレっぷりは証明済みだけどな」
大森が教壇の上から身を乗り出し、こちらを見下ろして笑っている。担任が教室を出て行ったところを見計らい、ここぞとばかりに挑発をしにやって来たようだ。
「ああ?」
「英語が出来ない? 文化や宗教の違いが嫌? なんだ、そりゃ。馬鹿みたい」
「そこまで言うなら、自分がイリエーサーと仲良くすれば良いだろ。いちいち、俺らに突っ掛かってくるのは止めて、学校案内でもしてあげれば?」
「言われなくてもそうするつもりだよ。俺はお前らみたいな腰抜け共とは違って、グローバルな人間だからな。学校案内に日本の文化、何から何まで丁寧に教えてやるさ。外人にビビるお前らとは大きな差だぜ?」
「はいはい、ならそれでいいじゃん。留学生と仲良くして俺らには絡んでくるな。とっとと消え失せろ」
「言われなくてもそうするよ、バイバーイ」
大森は教卓を蹴り、自分の机に戻っていった。嫌な奴と同じクラスになってしまい、悲観的なため息が漏れる。仲良くすると偉そうに語っていたが、どうせそれも一週間ほどの話だろう。満は冷めきった眼差しで、イリエーサーと握手を交わす大森を見つめていた。