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プロローグ

 大学三年生の浅香このはは、床に就かず自室で一人、パソコンに向かい合っていた。レポート作成にようやく一区切り付き、完成の兆しが見えたのは時刻が午前三時を回ってからだ。日付が変わった直後だと外で酔っぱらい集団が、大笑いしながら通り過ぎたりもしたが、この時間になるとそれも珍しい。窓の外を眺めると、閑散とした闇夜の住宅街があるだけで、空いている店もなければ、車が通ることもない。賑やかな昼間とうってかわって静かな別世界である。重くなった瞼を擦り、パソコンの前で生ぬるくなったコーヒーを飲んで、ホッと一息ついた。深夜一時半を過ぎた辺りからコーヒーの量が増えている。コーヒー自体は決して好きではないこのはだが、じわじわと襲ってくる眠気を抑えるのに、カフェイン摂取は欠かせない。夜更かしは肌荒れや肥満の原因にもなりかねず、体に良くないことであるのは重々、承知している。それでも、今日を含め、レポート提出期限まであと二日しか猶予がないことを考慮すれば呑気に眠ってはいられない。大体、こうなったのは、今回の課題は簡単だと高をくくり、直前まで手を付けなかったこのはの自業自得なのである。つけを払うのも仕方のないことだ。





 コンピューターの電源を落として布団に入るまで、もうひと頑張りする。明日は日曜日で誰とも遊びの約束はしていないし、バイトも夕方からなので睡眠の元はしっかりと取れる。少しだけ息抜きしようとレポートファイルを保存し、インターネットを立ち上げる。このははよく、動画サイト「YouTube」に飛び、音楽を聴いて気分転換する。残念ながら、度々視聴していたバンドグループの動画は削除されていた。世間がやたらと著作権関連にうるさくなった昨今、再生数が多くても非公式のものであれば、次々に課されていく。時流に沿っていつかは削除されるのだろうなと思って見ていたが、実際に著作権侵害の申し立てで、消されてしまうと寂しいものだ。「あーあ」と、ため息をつき、他を当たってみたが、これと言って聴きたいものは見つからない。夜中なのでCDを流すわけにもいかないし、部屋を出てアイポッドを取りに行くのも面倒だ。仕方がないので動画サイトを変える。





 次にログインしたのは日本のIT企業が提供している「ニコニコ動画」だ。ここには、ボーカロイドという新たなジャンルの音楽がある。ボーカロイドとはヤマハによって開発された歌声合成技術とそれを応用した製品のことを指しており、コンピューター上で楽曲を制作する際、ボーカルパートを担っている。ほとんどの人が略称でボカロと呼び、製品にはそれぞれ、特徴的な声がある。「初音ミク」や「鏡音リン・レン」、「GUMI」などは有名で、それぞれ異なる人物がモデルとなっている。自作した楽曲にボーカロイドを組み込めば、コンピューターが自動的に歌ってくれる便利なものである。「初音ミク」に代表されるボカロ音楽はアイドルマスターや東方プロジェクトと並び、サイト内では三大ジャンルとも称されており、プロになっていない、多くの一般人がパソコンとボーカロイドを用いて曲を作成し、ネットに投稿している。このはが初めてボカロ音楽というものを聴いたのは大学に入ったばかりの頃、趣味でボカロ動画を投稿している人物に紹介されたのがきっかけである。ここ最近、ボカロ音楽から遠ざかっていたこのはが、久々に聴いてみるのも悪くない。そう思って、最新ランキングに載っている曲をいくつか視聴する。上位から順に三つ聴いてみたが、これといって気に入る曲は見つからない。





 そこでふと、殿堂入りを達成した人気曲を聴いてみたくなった。殿堂入りとは、サイト内で百万再生を突破したボカロ動画のことを指し、小説化などメディアミックスを生んでいる作品も多い。動画サイトで公認されている人気楽曲の一覧であるが、彼女にとって殿堂入りを探すのは、好ましくない兆候でもある。レポートの途中なのを考えれば尚更、止めておいた方が無難だ。しかし、検索してその懐かしい動画を見つけてしまってはもう、後戻り出来なかった。自制の利かなくなった彼女はタイトルをクリックし、動画を再生させる。イントロが聞こえた瞬間、涙が抑えられず、もうレポートどころではなくなった。過去の記憶が呼び起され、様々な感情が入り乱れ、このはの涙腺を壊していく。画面をスクロールするコメントも、昔と何ら変わっていないのはさすがに卑怯だ。再生数が多い動画にありがちな煽り文句もなければ、それに受けて立つファンの暴言もない。製作者たちの遊び心でイントロ部分に入ったモールス信号の音まで、しっかりと聴き取れる。





  耳を澄ませながら、好きな曲とは言い換えるとアルバムにしまってあるスナップ写真にも似ているな、とこのはは思った。曲を通して場所や人物、気候から時間帯、気持ちの変化まで聴いているときに存在するありとあらゆる、情景や感情が知らず知らずのうちに脳内にインプットされている。過去の一地点での出来事としてではなく、期間として残るのだ。誰かにとって非常に思い入れの深い曲はメロディそのものだけでなく、多かれ少なかれ楽しかった頃を想起させてくれる。新たな場面に記憶が塗りつぶされない限り、決して色あせることはない。欠点があるとすれば、呼び起される記憶が良い思い出ばかりではないということだ。トラウマなどはその最たる例で、本人にとって好ましくないものである。懐かしい音楽は、時間の経過とともに綺麗さっぱり忘れられていた、忌まわしい記憶を思い出させる引き金にもなり得るのだ。曲に一切の悪意はなくとも、不快な感情と情景が蘇り、無神経に人を傷つけてしまう。だから、大抵の人はトラウマ曲があれば、それを忘れるために、どうにかして避けようとする。音楽とは「スナップ写真」でもあり「諸刃の剣」でもあるのだ。





  今のこのはは幸福な思い出に浸るでもなく、絶望を想起するでもなく、ちょうどその二つの中間にいる。思い入れが深いのと同時に、思い出すのが最もつらく悲しい曲を聴いているのである。彼女は過去に、この歌を作った人物と過ごし、聴き手として最も身近なところにいた。精神を病んでいたこのはに、手を差し伸べてくれた恩人だったが、現実は残酷である。もう、その人に会うことすら叶わないのだから。気が付けば、あれから二年経っている。なのに、まだ時間の経過は感じられない。








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