スカーレットの幻影
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控え目な足音に振り向くと、案の定アイツだった。相変わらず何かに隠れるように身を縮めた猫背で、それこそ猫のように、音もなく席についた。揺れた髪の隙間からスカーレットの光彩がキラリと覗き、今日は火曜か、なんてぼんやりと考える。
「ちょっと、聞いてんの」
顔を戻すと清水がむくれていて、他のやつらは「寝不足かよ」などと茶化してきた。俺は適当な相槌もそこそこに、もう間もなくであろう予鈴に備え自分の席に手を伸ばした。
アイツ、もといアラキは真面目なやつだ。茶髪の“ちゃ”の字も知らないであろう真っ黒なセミロング、銀のメタルフレーム眼鏡、キュッと上まで締めたネクタイ、膝元まで覆うプリーツスカート。優等生と言わしめるに相応しい、申し分のない身なり。再び斜め前の席に目を向けると、それを裏付けるように読書に精を出す姿があった。
だからこそ、俺は今でも違和感を抱かずにはいられない。そんなアラキが丹念に指を這わせる右耳のモノ。今でこそ大分見慣れた訳だが、初めて見たときは目を疑った。真面目で寡黙な少女と、校則違反はどう考えても結び付かなかった。放課後、出掛けの予定でもあるのかと思ったが、そういう訳でもない。徒歩通学の彼女が学校の側の一軒家に颯爽と消える姿を、俺は何度か目撃している。表札も荒木、いや、新木だっただろうか。とにかくアイツの名を示すものだったに違いない。そういう訳で俺は、アラキは学校だけのためにわざわざピアスをしてきている、と確信するに至ったのだ。
「おい清水、青いカーディガンは流石に容認できんぞ」
いつの間にか朝礼が始まっていて、そしていつもの不毛な攻防戦が繰り広げられていた。
「ネイビーでーす」
応戦する清水を擁護する者たちが、神妙な顔つきで首を縦に振っている。
「さすがにくるしーわ」
ワックスで不自然に固まった前髪を撫で付けてせせら笑う長谷川に、先生は注意の矛先を転じた。シタリ顔は一瞬でひっこみ、代わりに「しまった」と言わんばかりの焦燥の色が覗いた。咄嗟に爪を隠し誤魔化すように頬杖をつく。が、こと既に遅し。
「ピンクならいいと言った覚えはないぞ」
明日までに直してこい、先生が溜め息混じりに本日の終戦を告げるとピンと張りつめた空気が緩み、教室はまた和やかな空気を取り戻した。ちらりと斜め前の席を盗み見る。アイツはもう、右耳に触れてはいない。どこか忙しなく、数学の支度に取り掛かっていた。
何がしたいんだろうなぁ。教室の移動時間以外全てを読書に費やし、食事もそそくさと一人で済ます。俺はアラキが会話している姿を殆ど見たことがない。この間、体育の吉田先生に見学の報告をしていたのはまだ記憶に新しいが、果たしてアラキがどのような声であったか。残念ながら鮮明に思い出すには及ばない。誰に自慢される訳でも見せびらかされる訳でもない1センチ弱の校則違反は、今日も退屈そうにぶら下がっていた。
教科書を大儀そうに抱え、ノロノロと廊下へ向かうアラキ。気づくと先ほどの騒ぎが嘘のように、人は疎らになっていた。クソったれ。俺はアラキを追うように、慌てて教室を飛び出した。
前を歩くアラキの肩を、女子グループが掠める。隙間のできた腕の中から教科書がこぼれて、床に打ち付ける乾いた音が響いた。女子グループは謝ることも憤ることも、それどころか視線を投げることもなく通りすぎて、嵐が過ぎ去ったあとの静寂だけを残していった。呆然と立ち尽くすアラキの教科書を拾い上げる。“新木華那子”。右上がりの整った黒い細字が、教科書の端に縮こまっている。しかも、藍色のグラデーションがかかった教科書の、最も濃い右上に。書は人なり、とはよく言ったものだ。見比べるようにアラキを見やると、アラキは例のごとく右耳を弄くっていた。
「あのさ、」
つぶやく程度だったにもかかわらず、アラキは思いの外ビクリと大きく身体を揺らし、長めの前髪の隙間からこちらの様子を窺っている。はらりと乱れた髪を、特に右耳の辺りを丹念に何度も撫で付けるその様がひどく滑稽だ。バカだな、安心しろよ、そんな必死に隠さなくてもどうせ――
「誰も気づかないよ」
口を突いて出た言葉は、今度は思いの外の声量で轟いた。アラキはこれでもかと見開いた目でじっと此方を凝視している。俺はそこで初めて、この言葉がアラキをひどく傷つけるものだったのではないかという思考に至った。本当に、誰にも気づかれたくないなんてことがあるだろうか。自己満足だけのために、曜日ごとに色を替えたピアスなど付けるものか。そもそも本当にバレることを恐れているなら、わざわざ抜群に目立つ色を選ぶはずがあろうか。かけるべき言葉は全く正反対のところにあったのだ。
「でもそのうち誰かが」開いた口から出かかった、あまりに空疎な弁解。打開不能な現状に耐え切れず、俺は無理やり教科書を押し付けると、逃げるようにその場を後にした。
アラキを視界から外すようにして努めた1日も、漸く終わりを迎えた。安堵して、チラリと様子を窺ったが――しまった。目敏く此方に気づいた彼女と視線がぶつかる。怒るだろうか泣くだろうかと動揺する俺の予想に反し、アラキは目を細めて僅かに広角を上げ、それから帰り支度を始めた。一体なんだというのか。俺の心配は杞憂であったと楽観して良いのだろうか。
「ちょっと、聞いてんの」
隣でむくれる清水の顔を一瞥する。いや全く、とだけ悪びれもせずに答えれば、ため息を吐かれた。
「ったく、大体ねえ。アタシが誰かわかってるの。アタシに対してそんなふざけた態度とるやつ、」
また始まったと適当に受け流そうと目を閉じていた、そのとき。ある一言が、俺の耳を鋭く刺した。
「あなたが初めてよ」
眼を見開き、俺を掠める彼女の姿を振り返る。朝よりも満足げに揺れる光彩が、髪の下から小さく手を振っていた。
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