4章 冒険者と呼ばれる者たち 1
山の頂上近くにあった少し迫り出した崖の上で、私は安堵と、それから感嘆を含めた息を吐き出した。
背後は鬱蒼とした木々と腰の高さまである藪という陰鬱とした世界だが、目の前に広がる光景はどこまでもその先を望める拓けた大地だった。
地平線の彼方まで染まる緑地はアヴァシュト王国の肥沃さを物語るには十分かもしれない。
青々とした空の下、視界のど真ん中に見えるのは、アヴァシュト王国の東大都市メディナの威風堂々たる全景だ。
緩やかな傾斜の丘を利用して作られたメディナは、丘の頂上に鋭角の屋根を乗せた監視塔がそびえ立ち、監視塔の高さにひれ伏すようにして数多くの建物がある。丘の周囲を高さ十メートルの防壁がぐるりと取り囲んでいるが、壁の外にも街は広がっていた。
人口が集中しすぎて、壁の内側だけでは土地が足りなかったらしい。
平地に建てられた壁外街は壁に沿って楕円形に広がっている。
このどの建物にも人が住んでいるのだとか、商売をしているのだと考えると、感動もひとしおというものだろう。
メディナより先、アヴァシュト王国の首都クォルツまでは平坦な道のりが続くので、メディナで足の確保をしなければ旅を続けるのは厳しいだろう。
ただでさえ、ここに辿り着くまで二週間もかかってしまったのだから。
整備された山道を進めば、徒歩でも一週間程度で着く距離とは聞いていたものの、道なき道を進んだせいと、時々遭遇した魔物に足止めを食らったせいで随分とかかってしまった。
この二週間の間に、ラグゼルに抜け毛を食われるようになったわけだが、どういうわけだか三日に一度のはずが日に一度になっている。
黒々としたフードの中へ消えていく自分の抜け毛の映像は、自分の痕跡を隠すという点では役に立つ、と前向きに考えておくことにした。
私が感慨にふけっていると、
「ほう、随分と集まっているものだな」
まるで背後霊が如く、威圧感が少しばかり失せたラグゼルの言葉が頭上から降ってきた。
「そりゃ王国の東の要だからね。あっちの、北のほうに見えるアーデルヴァ山脈を越えるとウィスランド共和国があるから」
そう言いながら、ついっと右の人差し指で北の方角にある万年雪が乗った標高8000メートル級の鋭利に尖った山脈を示せば、ラグゼルは、なるほど、と呟き、
「この国は今も王制か」
感想を述べるように言った。
「あんたの言うところの昔がいつだか知らないけど、建国して856年、ずっと王制よ」
「・・・なるほど」
少し間を置いて何かに納得したらしいラグゼルは会話を続けようとはしなかった。
そろそろ行くべきでは、とばかりの空気が漂い出し、私は雄大で華美なメディナの全景に後ろ髪を引かれつつ、山を下るために鬱蒼とした薄暗い世界に舞い戻る羽目になるのだった。
草原を分断するようにメディナから伸びる東街道に出ると、その舗装された街道の広さに驚いた。
荷馬車が四台横並びになっても窮屈さを感じないであろうほどの幅がある街道は、ついさっきまで斜面やら泥土やらの悪路を進んできた足には平坦過ぎて物足りないほどだった。
かなり昔からあるらしく、所々石が真新しく、所々古い石にヒビが入っている。
街道のど真ん中を堂々と、ではなく、街道の左端を歩いていく。
すぐそこに広がる草原が風に波打ち、さわさわと穏やかな音を立てていた。
汚泥の臭いではなく、新緑の香りが風に乗って鼻腔をくすぐってくるのは実に幸せな気分だった。
左頬に指先を這わせると、すでに傷は塞がってカサブタが取れ始めている。
血を洗い流すために冷水で顔を洗った時は、肉に沁みて本当に痛かった。
最低限の医療キットすら持って出なかったので、むき出しの肉を空気にさらし続けるというのも辛かった。
ただ、経験した痛みの中で上位に入るか、と言われると、圏外もいいところではあるが。
ちなみに一位は、18歳の時にアトロックス・ベアの爪に左の脇腹を抉られた時だ。
あの時は、生きている心地がしなかった。
左脇腹に一生ものの傷を作ってくれたし、三日三晩の攻防は若かったからこそできた事だと心底思う。
この歳でアトロックス・ベアと戦えなんて言われたら、言った相手を囮にして全力で逃げる自信しかない。
イニケア村では長子が家を守る事になる。次子が男だったら、私は家守りの役を御免になったのが、生まれたのは妹だった。
両親に三人目の子が授かる事はなく、結局、私は長子だったが故にそういう役回りになってしまった。
他の家は長子が男か、次子が男ばかりで、狩りに出る女は私だけだった。
左の脇腹を摩りつつ、在りし日の死闘を浅く思い出しても足だけはまっすぐに街へと向かい、そうして、とうとうメディナの壁外街に辿り着いた。
ウェルカムといったアーチ状の門があるわけでも、ここがメディナだ、と立て札が立っているわけでもない。
メディナの壁内までまっすぐ伸びていく街道はそのままにして左右に広がった下町は、荒屋一歩手前の木造建築が立ち並ぶ貧民街だった。
下町の入り口に門兵が立っている事もなく、やすやすと下町に足を踏み入れた私は、街道の左端から中央寄りに斜め移動しながら進んでいく。
東側はメディナの中でも貧民層が肩を寄せ合ってひしめき合ってる、とは聞いていたが、イニケア村のどの建物よりも格段に見すぼらしい。
街道を行く人影はなく、荒屋の周辺をウロつくボロを纏う人間にはおおよそ生気というものが感じられなかった。
職にあぶれたと一目で分かる格好の男が建物に背中を預けて座り込み、ぼやぁっとした虚ろな目で街道を眺めていたり、建物と建物の影からこちらをじっと見ている子供たちの姿もある。
生気を失った大人の目と違い、子供の目はギラついていて、毛先ほどの隙を見せたら身包みどころか、命を盗りに来そうな雰囲気すら感じる。
「・・・ひどい悪臭がする・・・」
ラグゼルは辛抱たまらないといった声音で小さく唸った。
「まぁそりゃ・・・」
警戒心を怠らず、建物の影という影には一瞬だけでも視線を走らせて、私は言葉を濁す。
鼻腔を撫でるのは、排泄物系の悪臭と腐敗臭ばかりだ。強烈に臭うわけではなくとも、あまり長いこと嗅いでいたいものでもない。
さて、次の問題は、どこに冒険者ギルドがあるのか、だ。
丸盾の上で斜め十字に剣を交差させたマークの看板がぶら下がっている建物を約10万人が住む街の中からアテもなく見つけるのは少々現実味に欠けるというものだろう。
崖の上でラグゼルに駄目元で聞いておくべきだった、と少しの後悔を覚えながら、私は緩やかに足を止める。
冒険者ギルドの特異上、この地区にギルドがある可能性も無くはない。
冒険者ギルドは誰かの言いなりになるのは嫌だけど大金は欲しい、という荒れくれ者に毛が生えたような奴らの集まりのようなものだ。
国が予算を割いて設立したわけではなく、ただの民間組織だ。今では各国に支部を置くほどに大きな組織ではあるものの、お高くとまったメディナの中央街よりも、こう言った溢れた所に支部を置いていてる方が似合っている気がする。
そう考えると唯一の安全圏の街道から、ギラついた子供たちの縄張りに足を踏み入れるしかない。
虎の檻の中にウサギが迷いこむようなもの、とは思わないものの、毒蛇だらけの藪を剣で突くような行為、には思う。
「ラグゼル」
肩越しに振り返って黒いローブを見上げれば、
「なんだ?」
背後で黙って私の様子を見ていたラグゼルは、すぐさま言葉を返してきた。
「・・・・・冒険者ギルドって見つけられる?」
あたりを見渡すのに手頃そうな木も建物もないが、藪を突く前に打てる手は打っておくべきだろう。
「そのギルドとやらの目印になりそうなものはないのか? それがなくば探しようもない」
ラグゼルの答えは、容易き事、とばかりの返しに聞こえてくる。
本当にできない事を聞いてしまった方が早いのかもしれない。
「丸い盾の上に、二振りの剣を交差させた看板が掛かってるか、ぶら下がっている感じの建物なんだけど」
そう思いながらも私が言えば、
「しばし待て」
と、理由も聞かずにラグゼルは返してきた。
そして顔の向きを、ゆっくりと左から右へ、そして踵を返して後ろへ、と360度全方位をぐるりと見回した。
ただ、それだけだ。
それだけだったが、ラグゼルは右腕を持ち上げてローブの裾から手を覗かせると、斜め右の方を人差し指でぬらりと指差した。
「あそこにあるが」
「壁の向こう? それともこっち側?」
「こちら側だ」
「・・・なるほど。ありがとう」
わざわざ木に登る必要はなかったわけか。
無駄な労力に対しても含めた私の礼に、ラグゼルは浅い頷きで返してきた。
「で、こっち側、ってなると・・・ちょっと問題ね」
私は前を向いて、両腕を平均程度には膨らみのある胸の前で組む。
「問題? ああ、敵愾心剥き出しの臭い童共か?」
「臭いってあんたね・・・それは事実でも言っていい事じゃないよ。風呂に入るだけの水があるなら、そういう生活はしてないって」
「・・・・・そういう臭いであるなら、お前も相当・・・」
ボソッと呟いた無臭のラグゼルの言葉に、私はカッとして勢いよく後ろを振り返って睨み据える。
「・・・元を正せば全部あんたのせいなんだけど? 私がまともに風呂も入れず、同じ服で同じ下着で二週間も過ごす羽目になったのはあんたのせいだからね? せめて馬さえいれば荷物を持たせられたのに、馬まで食べられる羽目になったのも、元を正せば、あんたが処女よこせなんて言ったせいだからね?」
小声ながら早口にまくし立てた言葉に、ラグゼルは半身を引きつつも、あっさりと致命的な一撃でもって言葉を返してきた。
「自身で持てぬほどの荷物が必要だったのか? 言っておれば、あの家程度なら苦もなく我が運べたというのに」
「・・・・・は?」
髪をよこせ、と言われた時よりも、理解したくない言葉だった。
「なぜ聞かなかったのだ」
愚か者め、とばかりの声音に、私の口は戦慄き、吹き出る怒りを抑え込めなかった。
「あ、あんたが言わなかったからでしょ?! っていうか持てるとも思わないわよ! あんたが! 運べるなんて言わなかったじゃない!」
街道に往来はなく、大声を張り上げた私に近寄ってくる貧民の姿もない。
「なぜ、この我が、わざわざ、お前に一から十まで懇切丁寧に教えてやる必要があるのか、ぜひとも知りたいが?」
声を荒げた私に、ラグゼルは嘲笑するかのように返してきた。
こめかみに青筋がピクピクと浮かび上がるのを感じながら、私はビシリと右手の人差し指を暗いフードの中に向かって突き立てる。
「ぜひとも? ええ、ええ、教えてやるわ。なんで私が今ここに立ってるハメになってるかお分かり? あんたが選んだんでしょう。あんたが女を選り好みする選択をしたんでしょ? それによる結果が今! あんたが選択した結果が今なわけ! 誰が臭い格好のままで案内したいと思うのよ! バッカじゃないの?!」
「ばっ?! 貴様、また我をバカと罵るか!」
「バカをバカと言って何が悪い! 私はあんたに多くを求めるつもりなんてこれっぽっちもないわ! ただ私にできない事を助けて欲しいだけよ! それをアホみたいにボーーーーッとしてるあんたはバカだって言ってんのよ! これはあんたのための旅でもあるんでしょうが! こンの腐れ変態魔物がッ!」
「き、貴様の口はよくもそうぬけぬけと・・・我を誰だと心得るか?」
明らかに圧倒されるラグゼルに、私は優雅に腕を組んで、フンッと鼻を鳴らしてから、
「変態ロリコンクソ野郎な好きモノでしょ」
と、吐き捨てる。
「・・・・・我をあまり怒らせるなよ。気の長い方だと思うのか?」
ビリビリと肌に感じる静かなラグゼルの怒気に、身体中の汗が吹き出ても、私は心の底から自分の体を叱責した。
心の底から溢れ出る八つ当たりの憎しみを上乗せし、
「で? 怒って私を殺すわけ? 殺したきゃ殺せば? で、その一時の感情で選択した結果の責任は取れるのよね? ここで大立ち回りでもして、あんたの求める処女サマをゼロにする? ご存分にどうぞ? 止める気は別にないわよ。私が死んだ後の世界なんてどうなろうと関係ないから」
ラグゼルと同じように静かに言い捨て、ジロリと睨み上げれば、ラグゼルは私の言葉に押し黙った。
流れる沈黙は、一分、二分、と過ぎ去っていく。
言い負かせた高揚感に口の端が吊り上げかけたところで、ラグゼルはゆっくりと深く長く息を吐き出した。
「・・・・・・・言わずにいて、すまなかったな。その点については、謝罪せねばなるまい。人が同じ服を延々と着るとそこまで劣化するものとは思わなかったのだ」
と、言い訳を加えながらも、まさかの謝罪の言葉を口にしてきた。
私は驚きに目を丸くして、ゆっくりと腕を解く。
ラグゼルの言葉が脳内で反芻すればするほど、バツの悪さを感じざるを得ず、私は目線を斜め下に向けた。
「・・・・ごめんなさい、私も言いすぎたわ。ヒステリックに言って、悪かったわ」
ポツリと呟いた私の言葉に、
「構わん。我が選んだ結果が今、というのはその通りと言えよう。まさか我ともあろうものが、ヒトに道理を説かれようとはな。実に興味深い」
と、ラグゼルはなんだかとても満足げだった。
「・・・そう? まぁあんたがそれで納得するなら良いんだけど。じゃあ、まぁ・・・ギルドに行かないとね」
「うむ。行こうではないか」
ラグゼルはなんだか非常に乗り気だが、私はまだその一歩目も踏み出せない。
「そこで、の問題が解決してないわ」
「何だ?」
「子供よ。建物の陰からこっちを見ている子供」
「ああ・・・あの臭い者達か」
「だから、なんでそう臭い臭いって言うのよ?」
今しがた口論のきっかけになったばかりだというのに、この魔物は鳥頭か何かか。
私の心でも読んだように、ラグゼルは会話の流れを切るように一呼吸分置いてから、
「・・・・そうか、なるほど、そうか。お前に云うてなかったか。解っていると思っていたが」
そう言ってきた。
「何が?」
目を瞬かせて、気だるくなった腕を組んで肩を竦めて見せれば、ラグゼルは首をわずかに横に振った。
「処女か、そうでない者か、の判別手段だ。言っておっただろう、ニオイか何かで判別できるのではないか、と」
「あー・・・・・そういえば、そんなことも言ったような?」
最初の強烈な出会いを思い出しながら返せば、ラグゼルは頷いた。
「その通りである。我はニオイで判別する。誤魔化しようのないニオイでな。そして彼らは、臭いのだ。いずれの童も処女でなく、童貞でなく」
「・・・・・・・・まって、どう見ても6歳とか、そこらへんにしか・・・・」
パッと見だったが、それでも、そのぐらいの容貌と身長の子供ばかりにしか思えなかった。
「世俗のことなどわからぬ。だが、我がお前に嘘を吐く利点がどこにある?」
「・・・・・ないわね、これっぽっちも」
「そういうことだ」
そういうことでも、あまり受け入れたくはない事実ではある。
でも、そういうことなら、子供達の目が異様にギラついているのも頷けるといえば頷ける。
「まぁわかったわ。じゃ、子供に絡まれたら殺さないように。彼らの人生が初めからクソなのなら、さらにクソにする必要、ないでしょ。大人に絡まれたら・・・まぁ出方次第ね」
「よかろう」
そうして私たちは、安全地帯の街道から危険地帯へと足を向けるのだった。