3章 都へ 3
「くおっ!」
大きく葉を広げたシダ系の植物が遠くでザザザっと揺れたと思った直後、自分の足先十センチに飛び出してきた猪の変異体のような魔物の突撃に、身を捻ってギリギリで避ける。
すぐ背後にいたラグゼルの方を避けた後で見れば、下顎から大きく突き出た二本の牙の内の一つを片手で、むんずと掴んでいるところだった。
体長80センチほどの猪そっくりの外見ながら、体重は150キロを越し、その四本足の筋肉質さは人の骨どころか、馬の骨も容易く砕くに違いない。前足の二股の蹄は鋭利な刃物のように伸び、前足を蹴り上げれば、ラグゼルの足の肉を抉る事ができるかもしれない。
だが、魔物は前足でラグゼルを蹴る事も出来ず、口の端から泡を吹き出してただ唸るだけだった。
「制限をかけた途端にこれか。—痴れ者が」
首を振ってラグゼルの手から逃れようにも、左にも右にもわずかにしか動かせていない。
ググッと腕に力を込めたラグゼルは、その腕一本だけで魔物を宙へと持ち上げる。
そして、ぴぎゃーだのぷぎゃーだのと豚のような悲鳴をあげた魔物を、ぶんっと勢い良く左へ投げ捨てた。
バギャッと嫌な音ともに少し離れた木の太い幹に魔物は背中からぶち当たり、シダの草むらの中にずるりと落ちた。
魔物がぶつかった木の幹は大きく陥没し、ミシミシと音を立てながら前後に揺れている。
あともう一押しされたら、あの巨木は約百年の生涯を終えることだろう。
魔物も死んだのだろうか、と思ったのも束の間、シダの草むらから頭を振りつつ、のっそりと体を越したのが僅かに見えた。
二本の牙だけがシダの草むらから大きく顔を出し、私は腰に下げた剣を鞘ごとベルトから引き抜いた。
そして、魔物がその場で前足を何度も抉って苛立ちを表している間に、剣の柄を右手に握り、左手で鞘を掴んで、素早く引き抜く。
左手で鞘の端を掴んだまま、右手で剣を構える。
「なんだその構えは?」
ラグゼルは一歩も動かず、迎撃の体勢と言えるような姿勢も取らず、そんな事をのんきに聞いてきた。
「自己流に決まってるでしょ。男よりも—」
そう言い終わるよりも早く、魔物が動いた。
こちらに向けて頭を左右に振りながら、勢いよく直線に奔ってくる。
なるほど。ラグゼルには敵わないから、それよりも弱い方を殺してやろう、というわけだ。
そんな考えに辿り着いた刹那に、口から唾液を撒き散らし、魔物が突っ込んできた。
シダの中からその顔が見えた一秒足らずの間に、私は反射的に魔物の額を鞘で強かに叩きつけ、その勢いに任せて体を宙に飛び上がらせる。
「ほう」
ラグゼルのそんな声が耳に入ってきても、そっちに目線を向ける暇はない。
空中で身を捻って背後の地面を見れば、魔物が強かに額を打たれて脳震盪を起こし、体をグラグラとさせていた。
重力に従って、シダの草むら—魔物の背後—に降り立ち、間髪入れる間もなく踏み込む。
魔物が頭を振りながら、こちらに顔をもたげる前に、その左脇腹に接近し、剣を振り上げる。
魔物が吠える前に、一閃で、その首を叩き切った。
大きく口を開けたまま地面に落ちる頭と同時に飛び出す青紫色の血を浴びないように斜め後方へ飛び離れる。
剣に付着した魔物の臭い血を振り払って、剣を鞘に収めると、ラグゼルが関心した様子で、
「思ったよりやれるようだな」
と、すぐ側にいつの間にか立っていた。
ギョッとするのも馬鹿らしいし、早くも慣れたので、私は浅く溜息を吐いてから口を開ける。
「これぐらい出来なきゃ、一人で生活出来ないわよ」
体に魔物の血が掛かってないことを確認しつつ、そう言葉を返す。
「なるほど。実に興味深い」
ラグゼルはまるで新しい趣味でも見つけたような口ぶりだった。
「興味持たれてもこれ以上のことはなにもないよ」
付着した血液がなかったことに安堵しつつ、空を見上げる。
雲の色が僅かに橙色がかっていた。
そろそろ時刻は五時に差し掛かる。
ラグゼルが自分の能力に制限をかけた後、ラグゼルに一撃死させられる魔物に数度遭遇しだし、少しばかり足止めを食らうようになってきた。
ただ大急ぎで移動する必要はないので、そろそろ野宿出来そうなところを探し始めた方がいいだろう。
顔がやたらとバリバリするし、自分の体臭が少々臭う。
よく考えてみれば二日ほどまともに体を洗っていない。
冷たくてもいいから、水で綺麗サッパリと体を洗い流したい気分だった。