2章 村へ 1
何はともあれ、まずは村に戻らなければならない。
ラグゼルが後ろから黙って付いてくる気配を感じながら、傾斜の緩い洞窟を抜け出すと、むわりとアルコール臭が鼻をついた。
洞窟の外は、樹齢百年以上の樹木が好き勝手に背を伸ばして枝葉を広げた森だ。昼間でも薄暗く、夜になれば闇は一層と深くなる。
わずかに入り込む半月の光で、森を抜け出すまでに躓く事はないだろう。
だが、夜の森は魔物が活発に動き回るので、丸腰の状態で森を抜けるのは自殺行為に近い。
洞窟の入り口に野営の跡が残っているものの、男達は焚き火の始末は忘れても、剣と弓は忘れなかったらしい。
ラグゼルに自分の身を守らせれば、森を抜け出す事自体は安易だろう。
でも、と考えて、腕を組むと、ラグゼルがぬぅっと私の背後で聳え立って口を開いた。
「これからどこへ向かうのだ?」
ラグゼルの言葉に、自分が何の説明もしていなかった事に気づき、一人暮らしが長い弊害を感じて、口元に自嘲の笑みが浅く浮かんだ。
腕を組んだまま燃えかすの中で燻っている火種を踏みつけながら、
「ひとまずは、村へ。旅に必要なものが何も揃ってないからね。大急ぎで出る必要があるなら別だけど」
と、答えると、ラグゼルはフードを目深に被ったままで浅く頭を横に振った。
「急ぐ必要は無い」
「そう。ならいいんだけど」
自分がこれからすることを考えると、自分の身を自分で守れないことは、自分の理に反する気がする。
しかし、今現在自分の身を守る術がないのも事実なわけで、そこはどうしようもなかった。
決断とともにため息を吐き出して、組んだ腕を解く。
「魔物がでたら、悪いけどよろしく」
「そんなことで悩んでいたのか?」
女ならば守られて当たり前だ、と言外に含んだようなラグゼルの声音に、私は笑った。
「そりゃそうよ。あんたを案内することと、あんたに守ってもらうってのは同じ意味なわけないでしょ」
「結果的には同じようなものになると思うが?」
ラグゼルの返しを聞きながら、私は木々の隙間から見え隠れする夜を見上げた。
星の位置と月の位置から方角を知らなければ、これ以上進みようがない。
この森には何度も入っていてるが、この洞窟までは来たことがない。
この辺りは、村の掟で立ち入り禁止とされている区画だからだ。
天から方角を割り出すと、次は片膝を折って自分の足元をよくよくと観察する。
草地に残った男たちの足跡の向きを見ながら、
「私はこれから誰かの命をあんたに差し出す、ってことでしょ? 自分の命ぐらい自分で守れずに、あんたを案内するなんて変な話じゃない」
と返せば、ラグゼルは考え込みつつも、その視線は私の挙動を観察していた。
「・・・・そうだろうか?」
ラグゼルは背後で首を傾げてそう呟く。
それはどちらかというと独り言というか、感想を言っただけ、といった具合だったものの、
「そうよ。私にはね」
と、締めくくって会話を終わらせた。
草地を蹴散らしながら逃げていく男達の足跡は三方へと散り散りだった。
死ぬほど驚いて、わっと逃げ出したらしい。
魔物の声を間近に聞いていたら、奴らの心臓は止まっていたに違いない。
どこまでもクソの役にも立たない男達の足跡を放置して立ち上がり、村へ向かうために右斜め前方へ歩き出す。
魔物は喋り続けなきゃ死ぬような性格ではなかったようで、自分から話題を振ってくることもなく、黙って付いてくるのだった。
危惧していた魔物に出遭うこともなく30分ほどで森を抜けると、青々と実り始めた小麦が一ヘクタールほど広がる畑の端に辿り着いた。
ここから小麦に隠れる畦道を伝って村へと向かうしかないが、私は眉根を寄せて、その一歩を踏み出すことに躊躇した。
陽が落ちれば眠りにつく村の方からガヤガヤと喧騒が聞こえてくる。
人が生贄になって喰われているかもしれない日だから、眠ることが恐ろしかったのだろうか。
だが、村から聞こえる喧騒には笑い声が含まれているような気がする。
ざわつく心を抑えるように私は身を翻した。
その動きを想定していなかったらしいラグゼルの腕が、ローブの下でもわかるほどにびくりと跳ね上がった。
「目は良い方?」
私の問いにラグゼルはわずかに首を傾げ、
「良い、かどうかはわからぬ。人と比べたことなどないのでな」
交友関係の薄さを報告してきた。
私にとって使える能力がラグゼルにあるかどうか、物は試しというものだ。
「木登りは?」
「木登りなぞやったことはないが」
なにをさせたいのか、と訝しがる声音が混じるのを感じつつ、私はラグゼルの横を通り抜ける。
そして、大の男でも抱え込めないほど大きな杉の木に片手を置いて、
「この木の上に乗れる?」
と問うてみる。
「上にか? 斬るわけではないのか」
ラグゼルは、いよいよ何をさせたいのか理解できないといった声音をしっかりと滲ませてきた。
「あっちの方にある村を見て、何が見えるか教えて欲しいのよ。平坦だからね。高さがないと見渡すのは難しいでしょ」
「なるほど。よかろう」
なぜこの我がそのようなことを、とは言わないらしい。
少し意外だと思ってる間に、ラグゼルは目の前から忽然と姿を消した。
と、その直後、べきっと枝をいくばくかへし折った音と、がさっと葉を踏む音が同時に上空から聞こえた。
木の高さは、およそ30メートルほどもある。
それを軽々と飛んでのけるあたり、姿だけ人のナリをしているだけだと良くわかる。
大声を張り上げて、何が見える、と聞くと、ラグゼルが返すよりも先に狼と野犬が遠吠えで返してくれるだろう。
そのため、私は押し黙って、木の天辺と同化しているラグゼルの影を見上げた。
「村の中央で火を焚いている。それを囲んで食事をしているように見えるが」
その声は、大声、などでも、上空から聞こえてきたわけでもない。
自分の直ぐ近く、右隣に立って話すかのように聞こえてきた。
驚いて飛び上がりそうになった私は反射的に音の方に顔を向けた。
そこにいたのは人の姿をした何か、ではなかった。
黒い紐状のものが上空から垂れ下がり、その先端はヘビのような口をしていて、こちらに鎌首をもちあげていた。
ヘビのように舌がチロチロしてるわけでも、目があるわけでもなかったが。
「これで良いのか?」
そのヘビのような何かが、ぱくぱくと口を開閉して、ラグゼルの声で話しかけてくる。
こんな芸当ができる魔物なんて、私は聞いたことがない。
ラグゼルという魔物の規格外さをにわかに感じつつも、そんなことでいちいち喚けるほど若くもないので、私はすべきことを口にする。
「食事・・・食事で何食べてるかはわかる?」
「肉を食べているな・・それも多量の。石像の前にヤギの頭と馬の頭が並んでいるな。おそらく、このヤギと馬の肉だろう」
ヤギと馬の肉を食べるなんて。
四方拝と新嘗祭が同時にきたかのようだ。
ヤギと馬は、乳を絞り、荷を引かせ、畑を耕すために、とんでもなく大事なのに。
その肉を食べるとしたら、老いて何もできなくなったら、だ。
だが、村にそんな老齢なヤギも馬も、今はいないはず。
背筋にひやりと嫌な予感が駆け上る。
「・・・・村の人間全員寝かせることって出来るわよね?」
「その程度容易い。だが、なぜだ?」
「安全に荷造りしたいからよ。村の人間にビクビクしながら荷造りなんてごめんだわ」
「確かにそうであるな。いつまで寝かせれば良い?」
「朝まで・・・ああ、いや、2時間ぐらい寝ててくれれば、それでいいわ」
「よかろう」
ラグゼルの聞き分けは有難いが、気前が良すぎて裏があるのではないかと勘ぐりたくなる。
「・・・なんでそんなに聞き分けが良いの?」
思った事を口にしてしまった事に後悔しかけた瞬間、
「何を、何故そうしたいのか、に興味がある。なるほどと思わせる解答であれば聞いてやるつもりでいるが。―不満か?」
と、ラグゼルが返してきた。
魔物の思考はよくわからないが、
「不満なんかないわ。突然ぶっ刺される、とかなければそれでいいだけよ」
それさえわかっていれば、してほしい事をズゲズゲと頼めると言うものだ。
「そのような事をしても、我にとっては一毛の得にもならんわ」
我をなんだと思ってる、とでも言いたげな憤慨を声音に滲ませて、ラグゼルはそう返してきた。
「そう。ならいいわ」
「そうか。それより行かぬのか? 村の人間なら寝かせたが」
「は?! もうっ?!」
魔法を発動さたときの独特の発光が無いのに。
そもそも詠唱だって、していないように思える。
だが、耳を澄ましてみれば、さっきまで聞こえていた喧騒が、いつの間にか鳴りを潜めていた。
普通じゃない。
何もかもが普通じゃない。
処女喰らいのただの変態魔物とは、どうにも違う気がする。
右側のこめかみを右手の指の腹で軽くこすりつつ、自分の気を落ち着ける。
状況を整理するのも、状況を改善するのも、今すべき事じゃない。
「・・・荷造りしてくるわ。あんたも来る?」
「待っていても暇なだけであるしな。供に行こう」
そう言うが早いか、黒紐がシュッと音を立てるように上へ戻ると、瞬きの間に、ぬぅっと二メートル近くの長身が地面に立っていた。
そのホラーさに悲鳴でもあげられれば女らしいのだろうが、私は驚きにわずかに身じろぐだけだった。