1章 それは始まりに過ぎず 1
酒樽の蓋が開いたと思った瞬間、酒樽は勢い良く蹴り倒され、私はその勢いに狭っ苦しい酒樽から外へと放り出された。
「いっっ!」
後ろ手に縛られているおかげで、ゴツゴツとした岩肌に左頬がジュリっと摩擦熱を起こす。擦った痛みに私がわずかに声をあげても、酒樽を担いで洞窟に入った男はそれにかまける余裕を持ち合わせていなかった。
「あ、あとはお前が自分の足でいけよ!」
じゃんけんの弱い男は青白い顔で言い捨てると、今にも洞窟の入り口という名の希望の光に向かって、踵を返しかけている。
ここで逃げられたら、非常に困る。
転がった体勢のまま、
「後ろに縛られてんじゃまともに歩けないんだけど?!」
半べその男に腹を立てて声を荒げる。
放り出された衝撃で目隠しは外れても、手を縛られていては身動きなんて取れる訳がない。
「うるせぇっ! そんぐらい自分でなんとかしたらいいだろ!」
図体以外のすべてが小さい男の張り上げた声に、こめかみに筋が浮きそうになり、口の端は怒りに震える。
だが、ここでヒステリックに声を荒げても、この男は一目散に逃げ出すだけだろう。
こういうビビリのクソ野郎には、最も良い言い回しというものがある。
左肩と腰の力を利用してどうにか上体を引っ張り上げ、意識して口の端をニィッと吊り上げる。
そして男を見上げ、外の光がギリギリ届く洞窟の中で私は悪女らしい言葉を吐く。
「へぇ? あんたらが逃げ出したあとに、村に戻っても良いんだけど?」
「ンナっことっ! 魔物がきたらっ! アッ!」
恐怖に顔を歪ませた男は自分の大声が洞窟に木霊している事実に、明らかに手遅れながら両手で口を塞いで見せた。
そして、震える小声で、
「こ、こここで見張ってるぞ。はやくいけっ」
と、偉そうにも命令してきた。
誰がクソガキの命令なんぞ聞いてやるものか。
人の頬を摩り下ろしにした罪で、お前も食われてしまえばいいんだ。
「手を縛られたまま動くなんてお断りよ。魔物が迎えに来てくれるまでここで待つわ面倒くさい」
足を投げ出して、鼻で笑い飛ばす。
両手を縛られていなければ、更に耳の穴をほじって見せてやりたいところだった。
どうせ食い殺されるのなら、道連れの一人や二人、村のひとつやふたつ、巻き込んで死んでやるのが私の最期の悪足掻きというものだ。
誰が献身的な生贄役なぞやるものか。
道連れにしてくれるわ。
腸の煮えくり返った私の形相に、男は魔物の恐怖よりも、目の前の女に対する恐怖に顔を硬直させたようだった。
そして見る間にハラハラと涙を流し出したと思ったら、
「うわあああああああああああん!」
と、23歳の若造は5歳児のように泣き出して、踵を返して走り出した。
「ちょ」
無情に木霊する若造の泣き声に、私の静止の声はかき消され、太陽の光に塗りつぶされた洞窟の外へ男はあっという間に消え去った。
唖然とした私は、ぽつねんと残され、男の気持ち悪い走り方を見送ることしかできず、結局、両手は縛られたままだった。
「ああっもう!」
一人暮らしの長さゆえに独り言をこぼして溜息を吐き出し、岩肌の高い天井を見上げる。
固い岩盤を何かがくりぬいたような洞窟の幅は広く、天は高く、そして斜め下へとまっすぐに続いている。
一寸先は完全に闇だというのに、松明ひとつありもしない。
これでどうやって両手を縛られたままで進めと言うのか。
ここに居座って魔物が辛抱できずに出てくる時を待つのが最善策だろう。
それまでに餓死か出血死していたら、村は確実に全滅という寸法なわけなので、私としてはここに留まる理由しかない。
わざわざ冒険して、洞窟の奥地に足を踏み入れる前に、踏み外して頭を打って死ぬ、という結果も、村の全滅を招くので良いといえば良いが、私のちっぽけなプライドがその死に方が嫌だと考える。
よって、ここで待つ。
どうせ洞窟の外では、足をガタガタ震わせた男達がいることだろう。
そいつらに突き飛ばされて余計な怪我が増えるのも嫌だ。
左頬が熱を持ち、洞窟の外から吹き込んでくる風が傷を疼かせ、その度に顔が歪んだ。