丸山始動
「桃原ちゃん頑張れ」「ジミでネクラだけど頑張れ」「ハラジロになれ」くらいの気持ちで読んでください。
「桃原、お前、呼ばれてるぞ」
言われて、返事もせず私は席を立った。軽く目線を上げた時、視界の端に言った奴の右手、親指が教室の後ろの戸を指しているのが見えたから、ゆっくりと歩いてそこへと向かった。嘘だったら呪ってやろう。
とぼとぼと歩いて行くと、そこには一人の男子生徒が立っていた。ネクタイの色が私の学年とは違う。一つ下、つまり一年生だ。何の用だ。
「……」
呆けたように何も言わず、ただ私の頭の上を眺めている。そこでようやく、今まで寝ていたために付いた寝ぐせを、こいつは見ているんだ、と気付いた。無造作に手を振り上げ、髪の毛を一回、撫でおろす。
「……何か用ですか」
そして一言、寝起きだから口の中が乾き切ってうまく声がでなかった。それもこれも、発言させたこいつのせいだ。最悪な奴だ。
「あの、これ、読んで、ください」
電波状況の悪いラジオみたいな言い方が気にくわなかったが、取り敢えず差し出された小さな紙切れを掴み取った。一年生は、そのまま走って消えていった。用事があるならその場で話せと言いたかった。だがそんな説教をしてやれるほど私は優しくない。
舌打ちを一回して、私は振り返り、自分の席を目指した。ぱっと視界に入ったクラスの奴らは、物珍しそうに私とあいつとのやり取りを見ていたようで、私が歩き始めるとすぐに視線を逸らしたり、ぼそぼそと下らない話をし始めた。寝れないから静かにしろ。
「……」
紙切れを燃えないゴミに捨ててから寝ようと思ったが、この教室のゴミ箱は、私の席から遠い。面倒くさいからそのままブレザーのポケットに突っ込んで、私は再び眠ることにした。
紙切れの存在を忘れていたということを思い出したのは、それから二日した、体育のある日だった。ブレザーを脱いでたたんでいる時に、何かが潰れるクシャッという音がしたのだ。紙切れを取り出してからようやく、ああそういえば、と思い、ふとその紙を開いて中身を見た。
『放課後、裏昇降口の横で待っています』
いつの放課後だよ、日本語力ない奴だな。……そりゃあ、あの日の、か。紙切れを握り潰してからゴミ箱に放り投げ、ふつふつとわき上がるあの男子生徒への嫌悪感を、冷静にまとめて問題点を頭の中で数える。一つ、唐突に紙を渡して読め、という辺りかなり生意気な奴だ。さぞ甘やかされて育ったに違いない。二つ、いつ読むかも分からないモノに対して具体的な時間指定を設けなかった。私がすぐにあの紙を読むと思っていたのであれば、思い上がりも甚だしい。そんな事が要求できるほど奴の立場は高くない。三つ、待っています、などという未来的な報告をされたところで、私にはなんの行動義務も生じないという事を、おそらく奴は分かっていない。にも拘らず、奴は考えるだろう。『無視されて、待ちぼうけを喰らった』、と。低能に見合わない傲慢っぷりに、最早驚嘆すらしてしまう。
と、そこまで考えたところで、ようやく体育の時間が終わった。バレーボールなんてやらされても、どうせ私は立っているだけだから、ようやく、というのは少し言い過ぎか。
兎に角、私には裏昇降口の横などに行く気も、行かなかった罪悪感も、これっぽっちもありはしなかった。
いつも通り、目の前に歩く同じ制服の奴らを片っ端から蹴り倒す妄想をしながら校門まで歩いていた――その時。
「あ、あの」
横からいきなり声を掛けられた。驚いた分だけ、妄想の時間が減ったじゃないか。そんな事も考えられないなんて、ろくでもない奴だ。
「桃原さん、ですよね?」
目線だけを横に向けると、そこには二日前の一年生が居た。紙切れを見つけていたから辛うじて彼だと判別できたが、もし見つけていなかったら、こいつはただの不審者だ。そういう可能性も考えられないのだろうか。つくづく愚かしい。
「……」
返事はしない。返答する義務が私にはないからだ。私は再び歩き始めた。
「え、あのちょっと……!」
男子生徒は慌てたように後ろから私を追いかけてきた。そして隣に並んで歩き始めた。何か言っている。
「一昨日の紙、読みましたか? ……あ、えっと……」
挙動がおどおどとしてハッキリしない。目線は何度も彷徨うし、話掛けている癖に、私が聴いているかどうかとか、いちいち確認しないで自分勝手に話し続けている。その態度が気に入らなくて、私はますます歩く速度を上げた。
「その……もし良かったら、一緒に帰っても良いですか?」
……。
「……」
その時私は、思わず立ち止まってしまっていた。立ち止って、横に居る彼の方に振り返っていた。
「ヒッ!」
怯えたような表情と、声を出して身を少し引かせる後輩男子。私の目付きが鋭くて恐れたのだろう。前にも何度か、こういうことがあった。特に意識しているつもりはないのだが、私が人を凝視すると、度々その対象は表情を引きつらせ、肩をすくめた。目付きが悪い、と直接的に言われたこと自体はないが、その態度が全てを物語っている。
今回も例に倣って、私は彼を怯えさせてしまったらしい。しまった、と表現したが、悪気などありはしない。ざまあ見やがれ、とは思った。
私は歩き出した。
彼は付いて来ていない。私の目線を、無言の拒否と受け取ったのか、もしくは単純に諦めたのだろう。それは唯一、正しい判断だ。
しかし未だ私の心中では灰色の雲が消えていなかった。それは単純な不快感であり、また同時に、自分自身でも理解できない不満の塊でもあった。何かを厭う気分であるのは確かなのだが、その対象が分からない。……よく考えてみれば、この後輩男子が私の前に現れなければ、こんな不快な気分にならずに済んだはずなのだ。
最後にもう一度だけ、彼を睨んでやろうと首だけで振り返った。
「……?」
――その時、肩越しに見えた彼の表情は、こんな私でもすぐに分かってしまうほど、『悔しそう』だった。
俯き加減で地面を見つめ、両手を固く握って肩を震わせている。少し長めの前髪で良く見えなかったが、彼はうっすらと涙ぐんでいた。
正直なところ、驚いた。彼の言葉を(どういう理由があったにしろ)無視した私に対して、怒りとか憎しみとかを抱くのは納得できる。けれど、あの態度は、その二つと本質的なところで違う意味を含む感情だ。けれど、どっちにしろ私の不満は晴れない。驚愕と増悪が、どちらが先に訪れたかというだけの違いだ。
結局、私は彼を鋭く睨みつけてから前に向き直った。
諦めたのならばそれで良い。私はこれまで通りの日常に戻って、世界を憎むことに専念する――。
「お願いします!」
数歩、ほんの数歩だけ前に進んだ時、いつの間にやら私を追い越したのか、彼は私の前に滑り込むようにしていわゆる『土下座』の態勢になっていた。
「桃原さんが好きなんです!」
顔を下げたまま、彼は叫んでいた。平日の午後、帰宅する生徒でまだ人が残っている通学路で、堂々と土下座をして叫んでいる彼の姿は実に人目を引いた。しかもその目線は徐々に、土下座の向きの真正面に立つ私へと移される。
「返事を聞かせてください!」
後輩男子は未だ地面に向けて大声を飛ばし続けている。地球の反対側と交信でもしたいのかという勢いだ。耳は真っ赤だし、声は所々裏返って、喝舌も悪い。それだけ必死なのだろう。
私はと言えば、ただひたすらに、静かな怒りを溜め込んでいる最中であった。
こんな街中でいきなり常識外れなことを叫ぶなんて、頭がおかしいとしか思えない。加えて、彼は今とても恥ずかしいと感じていることだろうが、それは私こそだ。『大声を出す』というなんとも原始的な方法で、恥ずかしい行動をしてみせた自分自身は誤魔化せている。だがその行動の対象である私は? ただ大勢の人の目に晒されて、たじろぐことしか許されない私は、一体どうしてくれよう。
「……」
「……」
私は何も言えない。言わない。
彼も同様、さっきからぴくりとも動かず何も喋らない。
静止した空間に、周囲のざわめきだけが反響していた。
私も、彼など無視して、ここで歩き始めれば良かったものを、何故かその時の私は一歩たりとも動くことが出来なかったのだ。『返事』とやらを待っているのか、後輩男子は一向に行動を起こす気配がないし、どうやら場の進展は私に一任されている様子だ。
「……あ、はい……」
やっとのことで口が動き、発した言葉がこれだけだった。
続きますよ。