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第01話

 日が暮れて、薄暗い廊下に青白い蛍光灯が点々と並んでいる。とても新しいとは言えない雑居ビルの3階に彼女を縛り付けている職場はあった。編集室の鉄の扉に身体をぶつけながら押し開く。真理恵はこの冷たくて重い扉に触れるたびに ”色んなひとの怨念がすり込まれている ”とさえ感じる。丸一日歩き詰めだった身体に力が入らない。


「ただいま戻りました」

 軽い機材に反して無駄に重たいアルミのハードケースを肩に食い込ませながら部屋に入っても、住人達はだれも振り向こうともしない。まるで独りごとだ。

 定位置にキャリングケースを置く。ビデオカメラから電池パックとメモリーカードを抜き取る。電池は充電器へ、メモリーカードは撮影内容と日付をカードケースに書き込んで【本日撮影】のキャビネットに収める。繰り返し行いすぎてほとんど反射的な動作をしているうちに、ようやく上司から声がかかった。

「あ、マリちゃんお帰り。ちゃんと撮れた? 桜」

「それが・・・まだ満開まではいってなくて花びらが散ってる桜なんて無くて・・」

「ああ~~? それじゃ依頼通りの 寂しい感じ出ないでしょうがよー。ちゃんと探したのかよ」

「はい、一応公園の中は全部」

 上司であるチーフは中年の小太り男だった。映像制作会社の正社員で同時に複数の案件を受け持っている。細かく揺れ続ける彼の太ももが苛立ちを物語っていた。

「散ってないならないで枝を揺すってみるとかさあ、なんかできるだろ」

「さすがにそれは憚られるというか・・」

上司はあからさまなため息をついてカラオケビデオの編集作業に戻ろうとする。

「あの・・素材の整音だけでもしておいたらいいですか」

 真理恵の提案に手を振って「ノー」を伝える。

「最近総務がうるさいから、契約社員の残業。だからもういいよ帰って」

 俺らが若いときはこんなめんどくせえルールなかったのに、というお決まりの捨て台詞を背中で聞きながら手早く帰り支度をする。


 小さなエレベーターのドアが閉まった瞬間 背中にどっと疲れがのしかかってくる。タイムカードを押して通用口に差し掛かると、ちょうど今夜担当の警備員が入れ替わりに入ってきた。

「お、お疲れ真理恵ちゃん。疲れてるね~顔」

「お疲れ様です。シフト今からですか? なんか機嫌よさそうですね」

「おうよ、久々にパチンコで勝ったからカミさんと熱海で温泉浸かってきた。真理恵ちゃんもたまにはパーッとはめ外した方がいいよ顔死んでるから!」

「はあ。」

「彼氏と南の島とかいってさ、あ、彼氏いないんだっけ。とにかくパーッと元気に、ね! んじゃ」

 こんなとき、周りの元気が逆につらい。


 帰り道、満員電車で窓際に立つと、その「死んでる顔」と向き合わなければならなかった。伸ばすでもなく短くするでもない髪が、どこにも行けない自分を表しているようで嫌気がさす。


 真理恵がマスコミを目指し始めたのは中学3年の夏だった。

ちょうど中東で戦争が起きて、連日テレビを賑わしていた。入れ替わり立ち代わり出演する年季の入った男性解説員の中でひとり、堤桂子は際立っていた。入社数年の女性記者がビシッと紺のスーツを着こなして戦況や避難民の行方を堂々と解説する姿に、真理恵は衝撃を受けた。「あんなふうになっていいんだ」と思った。

 保守的で頭の固い父親、それに付き従う母のもとで育った。「女に教養があっても役に立たない」と口に出すような父だった。「可愛くてみんなから愛されるのが女の幸せ」と口に出すような母だった。小さい頃は素直にそれを信じていた。

 高校2年の冬。2つ年下の弟が自殺した。遺書もなく「受験を苦に」と片付けられた。真理恵はいじめが原因だと知っていたし、そう主張したがついに取り上げられることはなかった。

 閉塞した男社会。田舎から逃げ出すように上京し、外国語に強い大学に進学。大手テレビ局への就職に失敗して、「煮ても焼いても食えない」と言われる映像制作会社で契約社員として働き始めた。そうしてもなお圧倒的な男社会から逃れることはできなかった。

 アパートのドアを開け、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。半分くらい飲んだところで冷凍ピラフが電子レンジで産声をあげる。就職依頼数年、毎晩繰り返されるルーティーン。誰にも邪魔されない聖なる儀式。

 テレビをつけるとちょうど、キャスターの堤桂子が特集「蔓延するいじめと教師の今」と題して、生々しいインタビューを素材に持論を繰り広げている。真理恵はかつて憧れた女性記者の昇進と活躍を苦々しい気持ちで受け取っていた。

「・・今さらもう遅いんだよ、ほんと」

 ほとんど呪いに近いつぶやきが口から発せられると、それは必然的に耳から入り、やがて脳の奥を焼いた。


 翌日


「真理恵さん、ボクのお願いした素材撮ってくれなかったんですか?」

 出社して最初の会話にしてはトゲがありすぎる音色だ。間違いなく後輩であるはずのこの青年は、真理恵の望んでも得られなかった新卒正社員である。

「ん。なんだったっけ?」

「えーっ! 交差点の捨てカット撮っておいてって言ったじゃないですか昨日!」

 捨てカットとはシーンとシーンの間に挟む、尺合わせの映像のことだ。

「えっでも昨日は電車移動だったから ”もし良さそうなところがあったら ”って」

「そんなの聞いてないですよ! どうするんですか今日の午前までなのに。ボクが怒られるじゃないですか!」

 視線をそらして上司の方をのぞき見るも、丸い背中が見えるだけでこちらを振り向こうともしない。だいたいこういう面倒事にはだんまりを決め込む。そういうひとだ。

「捨てカットなんてボク撮ってる暇ないんですよ。真理恵さんサポーターなんだから率先してそういう ”どうでもいい仕事 ”こなしてくれないと・・!」

「ごめん、私今日 編集頼まれてるから手伝えない。ほんとごめん!」

 青年は真理恵を睨み付けると、隠そうともせず舌打ちし、( 使えねー )

と小声で吐き捨てた。


 その瞬間、大きく大きく膨らんでいた「なにか」に小さな穴が開くのを感じた。リフレインする心ない一言が穴を徐々に押し広げて、真理恵はとっさに手のひらで穴を塞ごうとしたが、指の隙間から「なにか」は確実に滲み出してくるのだ。

「私だって好きで ”どうでもいい仕事 ”してるわけじゃない!」

 思わず口から出そうになるのを強引に飲み込むと、代わりに目尻に涙が滲んだ。そんな弱気な自分にさらにショックを受ける。弟の自殺以降、誰の力も借りず強く生きると決めた。涙とは決別したはずだった。はずだった、のに。

 その日は幸い人と絡みの無い仕事が割り当てられていたが、息苦しさが解消されることはなかった。昼休憩後、ひとり非常階段の踊り場で深呼吸をする。目の前には視界の限り立ち並ぶ雑居ビル。その隙間からなけなしの青空がのぞいていた。広い世界、やる気があればどこへでも行けると思っていた。わざわざ牢獄みたいなこのビルに囲まれて、私はなにがしたかったんだっけ。


「あー、こんなところにいた。真理恵ちゃん、ちょっといい?」

 振り返ると、白髪に垂れた頬。専務だった。嫌な予感がした。


 結論から言うとね、○○月○○日より契約更新はしません。いやー今まで助けてもらったからさーほんと心苦しいんだけど、新人も育ってきたし経費も削減しろって言われててさ、ほんと申し訳ないんだけど。引き継ぎとかは特にないって聞いているし。真理恵ちゃんはほら報道の仕事したいって言ってたしさ。いい転機だと思って、ね? まだ27歳でしょ? 若いんだからやる気がありゃ大丈夫、大丈夫。


 途中から何を言われているのか、誰のことを言っているのか。天井から自分を見下ろしているみたいに他人事にしか感じられなかった。仕事が終わっても、どこをどうやって帰ったのかは覚えていない。

 不思議と怒りは沸いてこなかった。ただただ、惨めさだけが居座っていた。契約社員だもの。そのための契約社員だもの。会社は悪くない。何度も自分に言い聞かせた。そのことで逆に、職場に依存して安定してしまっていた自分に気づいた。

「女性は実務経験がないとちょっとねー」「体力がないと現場厳しいと思うよ?」「誰かコネ作って紹介して貰った方が近道なんじゃない」「もうちょっと愛想振りまいたら?」「女なら―――」「女なら―――」


 遠い。

 あまりに遠い。


 女性報道記者。目指したあの場所には、どんなに追いかけても届かないと悟った。いやそうではない。諦めて遠ざけただけだ。強風に飛ばされないように毎日に自分を縛り付けているうちに、一歩も前に進んでいないことに気づいた。ならいっそ、この地球上からいなくなってしまいたい。でも、私は生きなきゃ ダメだ。私だけは、絶対に。

 首を振って、呆然とした意識の中から選択肢を絞り出す。厚くて黒い もやをかき分けて、かき分けて、その中にひたすら脳天気な声が小さく響いた。


( 彼氏と南の島とかいってさ、とにかくパーッと )


 そんな選択肢しか出てこなかった自分にちょっと笑ってしまった。でも、まあいいだろう。もう何も私をかたち作るものはないのだから。

 真理恵は残りの契約期間のほとんどを有給休暇と欠勤に変えた。出勤した数日間、上司はかなり前から契約終了を聞かされていたのか淡々と接した。後輩らは少しバツの悪そうな顔をしていたが、身に降りかかってくる仕事に追われて話すことも無かった。そうして真理恵は「制作会社契約社員」から「ただの人」になった。「生徒」「学生」今まで何かしら肩書きが付いていたから、「ただの人」は生まれてはじめてだ。そう考えると砂漠にひとり放り出されたような、明日への不安が募る。


 季節は春で、真理恵は何者でも無い「ただの人」だった。

その不安をかき消すように、真理恵はパスポートを鞄に放りこんだ。慎重に身支度をし、アパートのドアを開けると早朝の澄んだ空気が肌を撫でる。見飽きたはずの金属階段はサンダルで降りるとカンコンと聞いたこともないような音を奏でた。

 今ならまだ引き返せるかも。交差点で立ち止まるたびに何度も思い至ったが、背後からゴロゴロと音をたてるキャリーケースに追い立てられて、真理恵は結局一度も、振り返ることはなかった。

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