表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

マルグリット嬢の平民生活

作者: レオ

 ゴトゴトと荷馬車が進む。普段マルグリットが乗っていた公爵家の馬車とは作りが違うのかマットレスの質のせいかひどくお尻と腰が痛む。けれどもマルグリットはこれからの生活の展望への希望に満ちあふれていて、痛みなんていくらも気にしてはいなかった。



 マルグリットが生家の公爵家を追い出されたのにはいくつかの理由がある。

 一つは婚約者の侯爵子息に婚約破棄されたから。もう一つは、後妻と異母妹と、実の父親との折り合いが悪かったからだ。

 マルグリットには前世の記憶があった。メイドに泡立ちの悪い石鹸で頭を洗われている時に、『熱いシャワーを浴びたいな』と思って、ぱちん、とシャボンが割れたように記憶を思い出したのだ。

 マルグリットの前世はそこそこの中小企業の新人OLで、多少の残業とまあまあのお給金で働くそれなりに恵まれた人生だった。前夜に雪が降った日に滑り止めも無しにパンプスで出勤して、階段で溶けかけの雪に足を滑らせて死んだのだ。


 マルグリットには、今生の王国名や生家の名前、自分自身の名前さえも覚えがあった。前世の学生時代にハマって追いかけた恋愛小説の舞台だったからだ。

 そのライトノベルでのマルグリットは、傲慢で嫌味で性根の捻くれ曲がった女だった。主人公にイジワルをし、王子様に色目を使って、とうとう王家の不興を買って父の公爵に領地の外れの屋敷に幽閉されるちょい役の悪者。主人公の妹分である公爵家の異母妹が表舞台に立つ前のちょっとした中ボス。十代を終える前に情熱を無くして完結まで読み終えていないライトノベルでは、その消息も分からない。そんな女がマルグリットだ。


 マルグリットは領地に押し込められて生涯を終えるなんてごめんだった。

 そもそも貴族制が廃されて長い現代日本のそこでも別に上流階級なんてものではなかった自分の記憶があるマルグリットには、今世の礼儀作法や身分差は窮屈で仕方がなかった。

 誇り高さと高慢を履き違えたかのような貴族達。お辞儀の角度と指先の僅かな形すら決まったカーテシー。嫌味と褒め言葉すら裏の意味があるのが当たり前なお茶会。前世の取引先よりも多い付き合いのある貴族とそれらの関係性!

 覚えること、身に付けることが多すぎて、マルグリットはいつだって目が回るようだった。


 こんなに大変な思いをして貴族令嬢としての教育を身に着けても、小説通りに事が運べばマルグリットは領地に押し込められて貴族令嬢として表に出ては来れなくなるのである。

 いや、マルグリットは既に小説のマルグリットと異なっているのだから、主人公を虐めたり王子様に色目を使ったりはしないけれど、物語の強制力とかうっかり物語を知るマルグリットが覚えのままに展開をなぞったりしてしまったら幽閉である。

 そうでなくても、小説は小説なだけあって波乱万丈ドキドキハラハラの展開が目白押しなのだ。ちょい役のマルグリットだってそのまま退場しなければ代わって表舞台に出てきた異母妹の代わりに巻き込まれるかもしれない。

 勉強で疲れた頭でうーんうーんと悩んでマルグリットが出した答えは、『どうせ貴族令嬢として表に出れなくなるのなら、平民になってしまえばいい』というものだった。


 貴族令嬢としてしか生活したことの無いマルグリットだが、前世は平民の社会人である。地味なドレスを仕立てて領地の公爵邸を抜け出し、平民の『マリー』として町に出てみた。

 父公爵の治める領民たちは皆穏やかで、ただのマリーにも優しかった。

 焼きたてのパンを分けてくれたお兄さんのジョン。綺麗なリボンの片方を髪に結んでくれたお姉さんのアンナ。噴水の前でマリーが歌うと、帽子に小銭を投げ入れてくれるおじさんとおばさん達。

 歌で稼いだちょっとしたお小遣いで買ったオレンジをかじりながら、毎日を暮らすにはもっとしっかり『仕事』が必要かしらと考える。

 教育の中ではまだマシな出来の方の、刺繍を施したハンカチを仕立て屋のベルおばさんに持ち込んでみる。

 三枚のハンカチが、銅貨十枚に化けた。ハンカチ一枚を仕立てるのに三日だから、他の勉強をしないでハンカチだけを作るのなら月に十枚以上作れる。

 大人になったらベルお姉さんの仕立て屋で働きたいわと言ったら、可愛いマリーなら大歓迎よ、とベルおばさんは笑ってくれた。

 それでも心配だったから、質屋のトニーおじさんにサイズが合わなくてもう付けられない指輪やネックレスなんかを持ち込んで換金してもらった。大金を屋敷に隠しておくのもこっそり持ち出すのも自信がなかったから、お金はトニーおじさんに預けておいた。


 これで大丈夫! と、勉強の遅れを理由に婚約者から婚約破棄されて、お父さまに領地の屋敷に閉じ込めると言われたときに、「公爵家から籍を抜いて平民にしてください!」と頼んだのだ。



 ガタゴト荷馬車が進む。公爵邸のある城下町で生活するつもりだったのに、お父さまは何事か指示してマルグリットを平民風の服に着替えさせると公爵紋のついていない荷馬車に乗せて、そのまま荷馬車は出発してしまった。

 トニーおじさんに預けておいたお金は惜しいけれど、走っている馬車から飛び降りるほどマルグリットは命知らずではないし、流石に気がつかれて怪我をしたマルグリットをもう一度乗せて出発するだけだろう。

 多少土地が違っても大丈夫。前世の記憶があるマルグリットは箱入りのご令嬢ではないから着替えだって一人で出来るし、洗濯や料理のやり方だって分かる。あの小説の性悪マルグリットさえ生かして幽閉で済ませたお父さまが、まさか『森に捨てて獣の餌にしてこい』なんてことは無いだろう。


 ゴトゴト走る荷馬車が止まる。

 荷台から降ろされたマルグリットは、意気揚々と馭者に礼を言って町の中心部に向かう。

 と云っても、マルグリットは公爵邸のある町から出たことは無い。土地勘の無いマルグリットは、ごめんくださいと通りすがりのおばさんに声をかけた。


「なんだい。見ない顔だねあんた」

「はじめまして、お仕事を探してるんです。仕立て屋さんはどちらですか?」


 仕立て屋ならこの大通りの反対さ。ありがとうございます。ぺこりと頭を下げて、マルグリットは道を引き返す。

 てこてこ歩いて、靴擦れが出来る前に仕立て屋に着く。ベルおばさんの仕立て屋よりも一回り小さなそこのドアを開け、ここで働かせてくださいと頼み込む。

 お針子は募集してないよ。とけんもほろろな店主に何度も頭を下げ、とっても素敵な刺繍が刺せますと売り込む。

 ため息をついた店主は、「ドレスは何日で縫えるんだい?」とマルグリットに問いかける。マルグリットはまごついた。刺繍は令嬢の嗜みとして習っても、ドレスなんて縫ったことはない。店主は根気強く、それならワンピースは? シャツは? と聞いてくれる。しかしマルグリットはどちらも縫ったことなどない。前世でだって、既製品以外を着たことなんてない。

 帰っておくれ。と店主に丁寧に閉め出される。「いくら刺繍が上手くたってなんにも作れないお針子は雇えないよ」

 そんなに刺繍の腕がいいんなら、なんとかしてもっと大きな街か王都にでも行くんだね。


 どうしよう。どうしよう。計画の狂ったマルグリットは、広場を見つける。噴水ではないけれど、ベンチと銅像のあるそれなりに立派な広場だ。

 帽子もハンカチもないけれど、マルグリットは歌ってみた。しかし拍手は飛んでもマルグリットの足元には一枚の銅貨だって飛んでこない。


 夕暮れまで歌って、広場に誰も居なくなって、すっかり日も暮れてからぼんやりと虚ろな目のマルグリットを馭者が担いで荷馬車に乗せた。

 ガタゴトと荷馬車が走る。来た道を行って帰る。マルグリットは乾いた笑いをこぼしたけれど、車輪と蹄の音で誰にも聞こえなかった。



 何がしたかったのかねぇ、お嬢様は。と馭者は思う。

 いくら十も歳下の妹君より頭の悪いお嬢様とはいえ、城下の民達がお忍びのマルグリットお嬢様に気を使ってお望みのままにコインを投げたりハンカチを買い取ったりしていたのに気がつかないわけは無いだろうに。

 いや、本当に気がついてもいなかったのかもな。と馭者は思い直す。それほどマルグリットは突飛な娘だった。

 窯も見たことのないくせ、クッキーを焼いてみたいと言い出して火傷を危惧した公爵様に叱られ、たった六歳の後妻の娘の異母妹に教育進度で劣るお嬢様。

 流石にこれは他家に嫁に出せば公爵家の恥と婚約が解消され、見目だけは麗しいのだから分家にでも褒賞に出されるかと思っていたら平民になりたいのだと言い出した。

 水汲みも火の番もしたことの無い娘が平民になるなどと。いったい何日で死ぬのか賭ける気にもならない。

 身分を示す上等な服を無くして顔の知られていない町にでも放り出せば一日で思い知るだろうと荷馬車に詰め込んだ公爵様の見立て通り、五時間で頭の悪いお嬢様でも現実を知ったらしい。

 公爵家の上等な馬車ではなくわざわざ居心地の悪い荷馬車に詰め込んだのは、身分を知らせない為と公爵様のお叱りか。

 これでお嬢様が大人しくなってくれればいいが、と馭者は思う。いくら奇矯なお嬢様でも、別に苦労をしてほしいわけでも死んでほしいわけでも無かったので。

最近は見ませんが、ちょっと昔は転生悪役令嬢が平民になりたい!って言うやつ稀に見ましたよねって話

現実日本人にナーロッパとはいえ魔法なしの中世平民はきついだろと。農家でも機械で耕して鋤と鍬はあまり持たない。

転生マルグリットはおバカだったというより、前世に影響を受けすぎてちょっと礼儀作法や慣習に馴染めなかった。

こう、外国でうっかり自国マナーを発揮してやらかすを長年やり続けていた人です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ