悪魔の囁き
ふと一歩を踏み出した。出した右足は何も掴むことなく宙を泳ぎ、少しばかりの浮遊感の後、僕の体は地面に向かって加速を始めた。
特に死にたかったわけじゃない。死にたくなるほど嫌なことがあったとか、人に裏切られたとか、そんなことじゃない。本当にふと、足を、踏み出してしまった。
「人は脆い、人は儚い」と人は言うけれど、どこか疑っていた自分が、「ああ、人ってこんなに簡単に死ねるのだなあ」と実感し納得しながらも、やはりまだ不思議に思っていることに笑いがこみ上げそうになった。
作り物のお話で、想像上の感情で人は死の美しさを語る時がある。今僕は綺麗だろうか。
僕が地面に激突し散り描く花は綺麗だろうか。
誰かが僕を見つけるだろう。誰かが誰かに伝え、僕の死は世間に広められる。そうして誰かは言うのだ。「人に迷惑のかからないとこで死ね」と。つい最近まで僕もそう言っていた。誰だってそう思う。勿論、「可哀想だ」という人もいるだろう。なんて優しい人だろう。画面の向こう、どこの誰か知らない人にまで仮初の感情を押し付けるのだ。その対象が誰であれ、何を思っていようが。
僕は、本質的に人は自分の周りのことしか考えられないと思う。姿かたちの見えない人、物にまで真からの感情を向けるのは困難なことであり、理解なんて以ての外だ。
そういえば、僕を理解してくれた(こちらが勝手に勘違いしただけだが)人がいたな。一時は彼女に感情を揺さぶられ盲目になりかけたこともあったが、彼女がいなければ今日の自分は無いだろう。その面では感謝している。つい最近亡くなったと聞いた。彼女が最期に浮かべたのは誰の顔だっただろうか。
できることなら幸せになって欲しかった。
地面が近付く。己の死まで刹那ほどの時間しかないにも関わらず、最後に考える事が他人のことだなんて、人とはなんと逞しく愚かなのだろうかと意味のわからない言葉を噛み締める。どうせなら自分の人生の振り返りでもすれば良かった。
最後は地面に向かってピースでもしようかと思っていたのにその余裕もなかった。どうしようもない愚考を回すだけで精一杯。
変なくらいに落ち着いて不思議なくらいに回転する頭。この短い時間でこれだけのことを考えられるなら、これまでの人生で発揮して欲しかったな。そうすれば色々変わったかもしれない。勉学において優秀な成績を修めたかもしれないし、人生の岐路でもっとマシな決断ができたかもしれないし、泥沼の人生を泳ぐことにはならなかったかもしれない。彼女が死ぬことや、僕自身が死ぬことも或いは。
人生の幕が閉じる。長いようで短くて。
最後に聞こえたのは囁きと嘲笑。
「さようなら」
なんて耳障り