蝶会瀬(L豆話前編)
夜も深まり穏やかに時は流れる。
京の宮は見廻りや刻を告げる者達の気配こそ定期的にあるが、多くの者は寝所にて寝静まるか、或いは部屋で短文を綴っているのが常と言えるだろう。
だが、勤め以外でも寝所を出て、何処其処へ気配を薄め通う者も少なくはない。
「今宵も彼奴は余所の花か」
独り寝所の部屋にて、私は呆れを混じらせた言葉を小さく呟く。
想い人と呼ぶには彼奴は軽薄で浮世離れな色恋好きで、とても本気になろうと想えない者だ。
彼奴が多くの花を渡り行く蝶のような者だというのは既に理解している。そんな者に本気になる程愚かではない。
だからこそ、私は文を綴る事を辞めて、気を引く真似は控えた。
(どうせ彼奴の事だ。艶めいた香りの文など、日々の寝物語に成る程届いてるだろうよ。その内の一つが減ったところで気づくわけがない)
部屋と廊下を仕切る帳の隙間から、薄い月明かりが滲む。
帳の向こうの月は今夜も綺麗だろうか。それとも薄曇が霞めているか。
寝所に座り帳を扇ぎ見上げる。けれど数秒で何かを諦めたように溜め息を一つ溢すと、床へ着こうと身動ぎをした。
その時、帳向こうの廊下に人の気配がした。
「今晩は。今夜は雲が薄く、月が綺麗ですよ」
帳の向こうから聞こえた声は、久し振りに聴いた浮いた蝶の声。
その声に私は不機嫌な思いで瞳を細め座り直す。
「昨夜の月と花も嘸や綺麗だった事でしょう」
淡々と、けれど落ち着いた声色で言葉を返す私に、蝶は苦笑を小さく溢した。
「昨夜は花を愛でなかった、等と告げたところで意味がないだろうな。君にその手の言葉は通じない」
数秒の間を置いた蝶は、困ったように帳向こうでそう告げてきた。
それに対して私が返す言葉は何もない。蝶の言葉に否定も憤りも意味を成さなず、私自身の心境にもその思いはなかったのだ。
とはいえ、慰めや慈しみの言葉を掛けてやるのには、蝶はあまりにも罪深い。
一輪の花を愛でる者もいれば、数多の花を渡り行く者も居るのが世というものなのだから、それを理解している私に何が言えるというのか。
おそらくそんな私の想いも蝶は察しているのだろう。
「月の明かりに輝く花は、多種各々に美しいものだよ。花を愛でたいと想うのは男の性分だ」
未だ困り声が滲む蝶の言葉に、私はついに呆れた物言いを返す。
「本当に君は駄目な奴だよ。数多の花を愛でるも良いが、花の美しさは刻々と色を変えるものだ。数多に心移りを繰り返していれば、いずれ色変わりにも気づかず散り行くというのに」
私の言葉に、帳向こうで蝶が言葉に詰まる気配がした。
「君が数多の花を愛でる事は好きにすれば良い。だが君が私をそれと捉えるのなら、刻々と色を変えい、ずれ散り行くものだと知っておくべきだ」
落ち着いた声音を意識しても、私の言葉はどこか棘が見え隠れしていた。