無有の理
社会に出て数年が過ぎて、嫌になるほど思い知らされた。
僕は所詮、平凡な者達と変わらない。何者にも成れない存在なのだという事を。
大人達に勧められるまま、塾に通い、良い高校大学を目指して学問に追われた結果。
成りたいものを見つけられず、他者に勧められた良い企業に入社した。
此処まで来た道のりを振り返れば分かる。
僕に自我は求められず、気が付けば何も無かったのだ。
休日の午後三時過ぎ。カフェのテラス席で、向かいに座る友人にそれを愚痴っていた。
数少ない異性の友人である彼女は、僕の話を茶菓子にして、アイスコーヒーを飲みながら静かに聞いてくれた。
「何者にもね。その基準は何だ?」
一通り聞き終えた彼女の発した問いに、僕は虚を突かれて言葉に詰まる。
「基準って、それはほら。持っている人達って有名だったり、普通の人達と違うなって思うだろう。何か凄い特技があったり、人の目を引いたり。特別だなって思われるのが、そういう人達なんだと思う」
言葉に悩みながら僕が答えると、彼女は眉間に皴を寄せ瞳を細めた。
時折見せる彼女のこの仕草は、理解し難いものを咀嚼して再構築する癖らしい。
彼女は僕とは違う、何者でも有る存在だ。
全く違う視点で世界を観て、緻密で広く深い思考を持つ彼女は、平凡とかけ離れている。
僕の求めて止まない【非凡】な人だ。
実際世の中の殆どは凡人の群れだ。何者にも成れなかった者達で溢れている。
その中の一握りである人達が、非凡な才を得るのだ。
それは、童話の中の人間と龍。
或いは大群の白羊と一頭の黒羊みたいなものだ。
持ち得ている事で、憧れや羨望。畏怖に嫌悪。
嫉妬を浴びせられる事が付きまとう。
それが非凡というものだと、数年前、目の前の友人が教えてくれた。
だが今も僕は、彼女の才を羨ましく思い続けている。
僕が焦燥に耽っていると、再び彼女が問いを投げかけてきた。
「君は不思議の国のアリスという作品を知っているか?」
不思議の国のアリス。有名な童話の一つである。
姉と共に本を読んでいたアリスが居眠りをしてしまい、目覚めた先に見えた走るウサギを追いかけ、樹の穴に落ちるという始まりだっただろうか。
時計ウサギに帽子屋。ハートの女王がいる世界を駆け回り、最後は夢オチという話だ。
「知っているけど、それが何か関係しているのか?」
意図が分からず質問を返す僕に、彼女は得意そうな薄笑みを浮かべた。
「あの話には、お茶会のシーンがあるだろう。毎日昼夜関係なく続くお茶会だ。そのお茶会は何でもない日を祝うものらしい」
彼女の言葉に、僕は訝しい表情を浮かべ返す。
「それは童話の世界観のために作られたものだろう。お茶会の言い訳みたいなものだ」
呆れた声で言い返した僕に、彼女は理解が浅いとでも言いたそうに小さく首を横に振る。
可笑しな世界のための一節でしかないものに、何の意味があるというのか。
やはり僕には分からずにいると、彼女が得意気に口を開く。
「『何もない』というのは、『何もない』が存在している事でもあるんだ。例えば今、私と君がお茶をしながら会話を重ねているが、これだって何時までも出来る事ではない。明日私達のどちらか、或いは両方に不幸が起きたら。それが無くとも、命は何時か終わる。それまでにあと何度、共に過ごせるか」
悲壮というには素っ気無く、だが感慨深い思いを、瞳を細めて彼女が話していく。
「つまり、何もないなんて事は無いんだよ。必ず何かあるんだ。私にとっての君が正にそうだ。
君は私を賢いと言うが、賢いとは何だ?記憶力が良いか、判断が早いのか。緻密な思考、察しの良さ。場の空気が読める。未来予知能力に、指導力。それとも全部なのか」
心底分からないという彼女に、僕は返す。
「未来予知は特殊能力みたいなものだろう。だけど、それ以外は賢いって事になるんじゃないか?」
僕なりの精一杯で返した言葉に、彼女は口元に微笑を浮かべた。
「ならば、君も賢いじゃないか。私は確かに物事を深く考えて答える事が出来るけど、記憶力は平均以下だ。場の空気を読むのも苦手で、指導力なんて無に等しい」
「対して君は私よりも記憶力が良く、場の空気も読める。物事を教えるのも上手いだろう」
彼女の言葉に、僕は学生時代を思い出す。
確かに、こんなにも知的な彼女の成績は、何時も偏っていた。
英語や地理、数学等の試験成績は酷く、それと反して国語や文法。
科学等の専門分野系は、とても好成績だったのだ。
それについて、彼女は頻繁に教師達から小言を言われており、殆どの教科が平均を超えて居た僕が、彼女の苦手分野の勉強に付き合っていた。
その際、彼女から『教えるのが上手いな。教師より分かりやすい』と何度も言われていた。
だが、僕にとってはそれだけの事だ。誰でも出来る事をしただけの話である。
少し記憶力が良く、人間関係を上手くやれるだけで、そんな事は皆やっている。
これを賢いと言うならば、世の中の誰もが賢い事になる。
特別何かじゃない。
拗ねた子供の様な心境で僕が視線を落としていると、再び彼女が口を開いた。
「確かに、私は少し非凡かもしれない。だが、欠けている物も多いんだ。そんな私には、君が数少ない友の一人であり、支えでもある。人に頼る気の無い私を支えてくれる者なんて、希少も良い所だ。それだけで君は特別で、意味のある存在だ」
彼女の言葉に、僕の心が僅かに穏やかになっていくのを感じる。
「それに、世の中の誰もが長所と短所を持っていて、感情を持ち、選択して結果を得ている。趣味や好みを持ち、職や特技を持ち得たりもする。それは例え一卵性の双子だったとしても、同じものは居らず、皆違う個のものなんだよ。それだけで特別で、何ものでもあるんだ。唯一無二であり、命が失われるまでの時間は有限のものだ」
彼女の言葉は詭弁で、優しい言い訳だ。
だが、それは事実でもある。
全く同じ存在はいない。
何ものでも無いという存在は無い。皆違う存在だ。
違うとは個であり、異である。
無などではない、有限の存在なのだ。
平凡など誰が決めたのか。周囲の人達が決めつけたのか。
いや、違う。決めるのはいつも自分自身だった。
非凡とは確かに違うかもしれないが、僕は何ものにも成れなかった者じゃない。
僕が顔を上げて彼女を見ると、嬉しそうに微笑む彼女と目が合った。
「やっと見たな」
彼女のその言葉通り、今日初めて彼女と向き合った気がした。
目の前の友は、きっと昔から今日の僕と似たような言葉を投げつけられてきたのだろう。
一方的な羨望や嫉妬に殴られて、それでも凛とした人として生きている。
その姿に、やはり敵わないと思い知らされる。
僕の嘆きと嫉妬交じりの言葉を聞いた上で、彼女は凛とした笑顔で僕を見るのだ。
向かい合う僕は、先程までの自分が恥ずかしく、居た堪れないというのに。
「君は、いや、そうだな」
過去の僕の口から出かけた、彼女の強さを称える言葉を、今の僕が引き留める。
これ以上の勘違いで、彼女に酷い言葉を吐いてはいけない。
それくらいは、今の僕でも分かる。
一呼吸整え、僕はもう一度口を開いた。
「友達が転びそうになったら、助けるのは当たり前だろう。君が僕を助けてくれるのと同じ事だ。友達は、隣で笑い合えるものなんだから」
彼女が僕の弱さを支えてくれるように、僕も彼女を支える。
頼りない僕でも、友達の手ぐらいは握り返せるのだ。
『大切な友』という有限な命を持つ僕と彼女の一時。
一分一秒を大切に生きていこうと思った。




