おじさんストリート・ストーリー
ある町の通りが夜、立ちんぼで賑わっているとテレビのニュースで知った俺は
仕事帰りにちょっと様子を見に行ってみることにした。
無論、賑わっていると言ってもワイワイガヤガヤお祭り模様という訳ではなく
並木道のように売春を目的とした若い女が
道の左右等間隔で並び立っているというものだ。
昨今のパパ活ブームの流れ。景気の問題、家庭の……と
原因が何かなんてことは偉そうなコメンテーター共に
テレビスタジオで好きなように喋らせてやればいい。
俺は現場に向かい、直接、話を聞きにいってやるつもりだ。
ただの興味本位。いやらしい気持ちはないなどとまでは言わないが
別にどっちでもいい。そういう流れになるのならまあ……と、その通りに到着したのだが
なんとまあ、これは唖然騒然。
頭に浮かぶは靴磨きの少年の話。株と縁遠そうな靴磨きの貧乏少年の耳にまで
『あの株が絶対儲かる』だのなんだの株の話が届いたらそれはもう末期。
市場は崩壊寸前ということ。情報の独り歩きに踊らされた素人、後発組。
売春ストリートはおじさんの巣窟と化していた。
見渡す限り、おじさんおじさん。
左右に分かれ、おじさんおじさん。
間に挟まれ、おじさんおじさん。
団子状態。女など見る影もない。この騒ぎでは当然だ。
小鳥のように逃げ出したのだろう。
なのに彼ら、おじさんたちは何をしているんだ?
女が来るのを待っているのか?
婚活市場と同じく、男はここでも余っているのか?
立ちんぼの由来って勃つちんぽ?
今は夜の良い時間帯。これから、どっと女の子が押し寄せるとは考えにくい。
ではなぜ彼らは帰らないのか。女の子が来ないことがわからないのか? 馬鹿なのか?
「……なぜだ?」
俺は自分の足を見下ろし、そう訊ねた。
そこに靴磨きの少年はいない。答えなど返ってくるはずもない。なのに俺はまた訊ねる。
なぜだ。なぜなんだ。ああ、まただ。
また一歩、また一歩と加齢臭漂うその通りに俺の足が勝手に進むではないか。
これは一体どういうことなんだ? ……いや、わかっている。答えは俺の中にある。
彼らは俺と同じ気持ちなんだ。
――せっかく来たのにこのまま帰れるか。
もしかしたら、あわよくば。そんな浅ましい思いで彼らはここに留まっているのだろう。
哀れ哀れ、性欲剥き出しのおじさんの展覧会。
俺もその一部になるのか。否。ちょっと様子を見るだけだ。
あのおじさんたちを見下すのも一興ではないか。
この通りを行き、駅まで戻ろう。向こう側までほんの数百メートルだ。
と、見た限り、基本的に黒いっぽい服を着た太った禿げたの
典型的おじさんばかりであるが中には、いわゆるあっち系のおじさんもいた。
おじさん狙いのおじさんという訳だろうか。
食物連鎖というか、生態系を見ているというか
見ようとすれば中々、深い見方も、っと痛。
込み合ってきたな……。
いや、元々、こんな感じだったのか?
思えば入り口から見た、通りの出口は細かったような。
まるで奥に行けば行くほど狭くなる魚捕りの罠のような……。
「うわ! あ、う」
そう気づいた時には遅かったのかもしれない。
突然、至る所から俺の体に向かっておじさんの手が伸び、掴んできたのだ。
これはまさか、おじさんたちの行き場のなくなった性欲と無念が混じり合い生まれた肉の宮。
この集団の一部にしようと獲物を、俺を手ぐすね引いて待っていた怪異の――
「君! こっちだ! 手を伸ばせ!」
俺は反射的にその声のほうに手を伸ばした。
すると、ぐいっと引っ張られ、不浄の集合体からどうにか逃れることができた。
「危なかったねぇ、大丈夫かい?」
「え、ええ、ありがとうございます……」
俺を助けてくれたのもまたおじさんであった。
それはそうだ。ここにはおじさんしかいない。彼の名は権田というそうだ。
やれやれといったようにため息をついたあと、彼は言った。
「いいかい、ここ数日のテレビの報道のせいでこのストリートの状況は一変したようなんだ。
ほら、君を追い払おうとしたあの集団をよく見てごらん」
「え、追い払う? 引き込むじゃなくて? ん? 囲むようにスペースが……」
「そう、一人分空けてあるだろう? あそこが女の子たちの定位置
つまり、これは桜の花見の場所取りのようなものなんだよ」
「え、じゃ、じゃあつまり、さっきあの辺りの一塊に掴まれたのも」
「そう、横入りするなという彼らの警告さ。縄張りがあってね。
ストリートの中央に近づけば近づく程、猛者たちが待ち構えているという訳さ。
九人斬り、ウイルスコレクター、財隠しといった猛者がね」
「猛者……で、でも女の子なんて本当に来るんですかね?」
「君はツチノコや徳川埋蔵金を信じているか?
私は信じている。そう、ロマンだよロマン……」
「いやそれ、来ないってことじゃ……ん? なんだ、人が!」
鉄砲水のように押し寄せた人波に押され
俺と権田さんはあっという間に身動きが取れなくなった。
苦痛と臭みに俺は空を見上げ、うぐっと声を漏らした。
「ご、権田さん! こ、これは、い、一体!」
「い、今の! 聞こえなかったか!? 私は、き、聞いた! 誰かが!
ストリートの外で『女の子がいるぞ! 中央だ!』と叫んだのを!」
「そ、それって!」
「そう、若者の、嘘、だ! 我々を! 嘲笑っているのだ!」
四方八方、見渡す限りのおじさん一色。
イソギンチャクに捕食される魚はこのような気分なのだろうか。
呼吸する度に体内に入る体臭、コロンの臭いに吐き気がした。
しかし、息を止める以前に呼吸がしづらい。
肺を圧迫されているのだ。冬にもかかわらずこの密度。
暑さと息苦しさに次第に首を絞められているような痺れを感じ
徐々に意識が遠のいていく。
が、その中、手に押し寄せた感触に俺はゾッとし我を取り戻した。
これは……ヒルだ。
ヒルがいるぞ。
この川にはヒルが!
……違う、これはおじさんだ! おじさんたちが俺の手を吸っているのだ!
「おん……の子」「おてて……」「女の子の手ぇ」
「おいしい……」「うなじぃ……」「みみぃ……」
「おぱんてぃ」「かわい子ちゃぁぁん」「こんばんみぃ」
「ばっちぐぅ」「よっこいしょういちぃ」「がっちゃんこぉ」
「いただきまんもすぅ」「けーばんおしえてぇ」
……なんということだ。彼らは意識が混濁し、幻覚を見ているのだ。
お互いの体を弄り合い、舐め、そしてそのまま息絶えようとしている。
偽りの幸せに抱かれて……。
その証拠に権田さんも恍惚な表情を浮かべている。
「あっぱくかんしゅごい……これが、せっくす……きもちいい……」
もはや正気とは呼べなかった。そして呼び覚ますこともできない。
もしかしたらこの通りには初めから女の子などいなかったのかもしれない。
全てはマスメディアに作られた虚像、幻、偽の餌。
我々は最初から最後まで情報に泳がされた死滅回遊魚。
交尾できなかったペンギンの集い。巣から追い出されたオス蜂。
行き場を無くし、冷たい寒空の下、ここで息絶えて……。
偽の餌……偽……囮……。
「……そ、その女は警官だ! 逃げろぉ! 囮捜査だ!」
俺は空に向かって叫んだ。
わなわなと唇が震え、吐く白い息がおじさんの湯気と共に夜空に昇る。
あれが魂の色か。
片方の目が裏返り、俺は世界の色を無くした。
呼吸はもう、歯磨き粉の最後の一絞りほどもでない。えずくだけ……死……。
ぼやけた視界と脳。
しかし突然、呼吸は楽に、体の痛みも消えた。
幽霊。ここが死後の世界。
……違う。いつの間にか倒れていた俺の目に映ったのは引いていく波。
通りの前後に別れ、魚たちがワッーと逃げていく。
俺の声が彼らに届いたのだ。
「権田さん……権田さん!」
俺は地面に倒れている権田さんに近づき、声を掛けた。
制服デート、制服デートと呟く権田さんを揺り起こすと、権田さんは俺を見つめた。
「わたしは……ただ……青春を……取り戻したかった……だけなんだぁ……」
彼は泣いた。俺も泣いた。
悲しくて、恐ろしくて、おぞましくて、情けなくて泣いた。
哀れな生き物さ。俺たちは。
でも生きている。
これからきっともっと臭く、汚くなる。
髪も薄く、髭は濃くなり腹は出る。
体力も知力も衰えるのに性欲だけはさほど変わらない。
変化が怖い。自分がした苦労を若い奴らにもして欲しい。楽して欲しくない。
それがおじさん。中年、オヤジ、おっさん。
それでも、俺は、俺たちは力強く生き続け――
「ふふふっ、どうして泣いてるのー?」
俺たちはその声のほうを見た。
街灯の前。逆光の向こうに見えるのはまるで天使みたいな……。