4話 人間万事塞翁が馬というけれど
「はぁあああー。終わった……」
カァ、カァと都内でもカラスの鳴き声は変わらないようだ。そんなあたり前なことがなんだか嬉しい。センター試験一日目が終わった頃には、空が墨色で黒ずんだ夕暮れだった。ぞろぞろと会場を後にする受験者たちの背を見ながら、僕は小さく吐息を漏らす。
今日はいろんなことがあった。
あり過ぎた。
だから僕はそれ以上深く考えずに、一駅先のホテルに戻ろうと歩き出した。あの十数匹ほどの狐に守られていた彼女はテスト中に、龍や鬼が応援に駆け付けてエールを送る姿を見てしまい、そのまま卒倒しそうになった。もっとも神の眷族がぽんぽんと現れたおかげで、試験会場に溜まっていたヨクナイモノが浄化されていたのは本当に助かった。
(おかげで手の震えはなくなったし、変なモノは見えなかった……。眼鏡がなくてもセンター試験の間は、あの子からのお守りのおかけで何とかなりそうだ)
駅まではほんの数分。
それから帰って美味しいものを食べて、明日に備えて早く寝てしまおう。そう思っていたのだが、駅に向かって歩いていた足が止まる。足元の雪は溶けかけて、アスファルトが見えた。薄暗い電灯が燈る住宅街だというのに、イヤな感じがした。
良く周りを見渡せば、人の姿がない。
疲れて考え事をしてしまったからか、異界に入ったことに気づかなかった。それほどに今回の重なりは気づきにくい。
びちゃり──と水溜りに僕は足元へと視線を向ける。
ぬかるんだ感触がやけに不気味だったからだ。薄暗い夜道だとしても、外灯が照らしている──はずだというのに、足元は暗い。
暗闇。
ゾッとするような闇──気づいた瞬間、僕は全身の毛が逆立った。
(やばい、やばい、やばい、やばい!)
刹那。破裂音と共に、お守りから真っ白な光が周囲を照らす。その一瞬、暗闇の動きが止まった。その隙をついて素早く身を翻して元来た道を駆け出す。
暗闇はぐにゃり、と形を変える。
僕は迂闊にも見てしまった。
暗闇と──その正体を。
暗闇の中に下卑た笑みを浮かべる大きな口と、数十と呼べる眼が一斉に僕を見つめる。
「ひっ!」
ヨクナイモノの塊。
アヤカシの中でも害ある存在。
不幸中の幸いといえるのは、真っ暗な夜道でも今の僕の目であれば真昼と変わらない。
だからこそ、怖がらずに曲がりくねった道なりを全速力で走れる。──とはいっても僕が超人的な脚力を持っているわけではないので、紙一重で黒塊から逃げているに過ぎない。
急に空間が重なったのか、雪が膝元まで積もった場所に出る。
走ろうとしても体が上手く動かない。
(だあ、走りにくいな。ったく、次の道を曲がったら……)
角を曲がろうとした瞬間、その先の空間が歪むのが視えた。──が、見えただけで反射的に身を反らせるほど僕は器用でも運動能力が良いわけではない。
つまりは、避けられないということだ。
三十センチほどの烏が突如、目の前に現れ──思い切り顔面にぶつかった。
「へぶ!?」
「ふぎゃ!?」
ぶつかったと同時に、足を止めてしまった。それに気づいたのか暗闇は触手のようなものに変化し、僕の足に絡みついた。ぐわん、と鞭のように僕と烏は空中へと放り投げ──重力に従って落下する。落下先はもちろん暗闇しかない。建造物も、駅も、人も全てを──重なった空間全てを飲み込んでいた。
暗闇にこの空間そのものが浸食されていく。
これは不味い。本当に。
「ちょ──ワタクシの華々しい現世デビューがああああ!」
一緒に吹き飛ばされた烏が唐突に喋り出した。しかも人語じゃないか。そんなことを思っている間に僕と烏は仲良く暗闇の中に落ちた。
どぼん、と水飛沫を上げて、体の半分が暗闇に飲まれた。底なし沼に落ちた時のように、体が下へと引きずられる。痛みなどはないが、なんとも感触がすごく気持ちが悪い。
「──っつ!」
「そこの人間。ワタクシにぶつかっただけでは飽き足らず、出世の道まで邪魔だてするとは……! ワタクシはかの有名な『高天原機関』からの使者なのですぞ!」
「知るか! だいたいぶつかって来たのは、そっちだろう!」
「え、ちょ、あの『高天原機関』を知らない? え、ワタクシが見えていて、話もできるのに、知らない……!?」
カラスはかなり困惑したようだったが、付き合っている暇はない。
「……って、今はそんなこと言っている場合じゃないからな!」
「その通りです! 禍霊を何とかしないとぶべっ……」
そうこれだけのやり取りをしている間に僕の体は胸まで浸かっているし、烏は嘴をだして息をするのがやっとな状態だ。
「誰か、助け──」
ふと脳裏に僕を助けてくれた赤い鬼を思い出す。
だが僕は頭を振った。あの鬼神に、厚かましくも助けて欲しいと思った自分を恥じる。
暗闇──禍霊へ再び視線を戻すと、中には受験生の何人かが取り込まれていた。よく見るとセンター試験会場で、何か憑いる人だったのを思い出す。
(見えるだけじゃ、何も出来ない!)
足掻くけれど、ただの人間の僕の出来ることなんてなくて悔しい思いがあふれ出した瞬間──ぷつりと、ここで意識が飛んだ。